パオと高床

あこがれの移動と定住

恒成美代子『秋光記』(『現代女性歌人叢書10』ながらみ書房)

2016-06-12 11:05:05 | 詩・戯曲その他
秋色に、雲か風か日ざしのような白が刷毛のよう流れる、端正でありながら瀟洒な装幀の歌集だ。

「秋光」という言葉に引かれた。「しうくわう」と仮名づけられている。
秋の光は「白秋」でありながら、柔らかな光を注いでいる。私たちの日常は、守るや守らないに関わらず、
そこにありながらそこを離れる気配を孕む。春の日ざしはまだ日常を育てず、夏はまぶしさに思わず眼を
背けてしまう。秋が静かに日々を木漏れ日の中に置く。冬をどう思うか、それはいまだ「玄」なる中にあり、
今、この時がまさに秋光に包まれる。この日ざしは射すものではない。包むものかもしれない。

 深みゆく秋は秋のやさしさにムラサキシキブのむらさきの珠 (「さびしい指」)
 秋光のやはらに差してこんな日は〈平凡〉といふ暮らし尊ぶ(「秋光記」)

ある時期、退屈な日常は唾棄すべきものだという疾風のような時があった。だが、私たちは日常が、
常に非日常の侵犯にさらされていることを知ってしまった。日々は忘れ去られるものと残り続けるものを分かちながら、
でも堆く積みあげられていく。
実はこれは伝統的な表現である短歌そのものの世界とも重なっているように思う。その豊穣な歴史の中に歌人の営為が
つながれている。おそらく、短歌の持つ、言葉への信頼感は、歌人が受け入れるにしろ反発するにしろ、その短歌の歴史と
今ある自身がつながれているという感覚によって、保証されているところからくるのかもしれない。
例えば

 いはばしる垂水のごとくしぶき立て出掛くる夫に窓ゆ手を振る(「旧・長酣居」)

この一首、「いはばしる」は枕詞だから「垂水」がくるのは当然と言えば当然だが、だからこそ
「いはばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を連想するし、そうなると万葉集とこの歌との
下の句の段差が際立って面白いのだ。
で、そこまで思えば「窓ゆ手を振る」があの有名な歌「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」とも絡まって、
思わず笑ってしまう。もちろん、こう思わなくても、上の句と下の句の落差で十分面白いのだが。
他にもいくつかの歌があるのだが、「ははそはのはは」が用いられた歌は、斎藤茂吉の歌とも重なりながら胸に迫ってきた。
歌人の独自の言葉の力を持ちながら、それを書きつないできた多くの歌人たちの言葉が根となり支えている力を感じる。
だからこそ選び抜かれた言葉が、通常僕たちが日常的に使う言葉の姿をまとっていても別の深層を持っているだ。
例えば

 決断の時いまなりや しりぞくもすすむも躊躇ふ有明の月(「冬の沼」)

何を決断するかは歌集の中から読者として想像するのだが、歌は作者の決断を離れて読者それぞれの決断に変わる。
「有明の月」がいい。この月が時間を超えて、そこにあるのだ。
この歌、決断に困ることがあってずっと悩んでいるときに思わず口ずさみそう。この「冬の沼」から二首。

 久留米より抱へて帰る大根の重たさは〈愛〉の重さといふべし
 岸の辺の一樹映して泰然としかも澄みゐる冬の沼あり

歌集の楽しさは同じ素材がどう歌の時間を生きたかが感じられるところにもあって、こんな二首。

 南京黄櫨の種子より育てし一木のもみぢ散りゆき素裸となる(「嘘つぱち」)
 南京黄櫨のまろき新芽のほぐれ初め露したたりて朝の日を受く(「平常心」)

この二首の間に12ページの隔たりがあって、そのページの隔たりに、めぐる季節分の時が横たわっている。もちろんそこに
多くの歌がある。また、「種子より育てし」には「南京黄櫨」と共にあった歌人の生きた時間が重なっている。それが歌一首と、
歌相互の間からにじみ出ているのだ。これは歌集の醍醐味の一つだと思う。
いけない、いけない。引用しすぎてはいけない。
お気に入りの歌を並べだしたらきりがないので、現在の熊本への思いを込めて歌集の中から江津湖の一首を。

 雨霧は江津湖をつつみかなたより水鳥の声かりそめならず(「雨の江津湖」)

漢詩が杭州西湖を詠んだのとは違った、短歌の面持ちと情感がある歌だと思う。
歌集には花の歌も多いが季節は少し違うが、雨ということで、

 丈高き皇帝ダリアも雨に濡れ彼方に霞む耳納連山(みなふれんざん)(「筑後往還」)

博多のこれからの季節に向けて引用一首。この言葉がこういうふうに詩語になるのだという歌。

 「博多祇園山笠」がすめばほんたうの夏になるのだ 博多の街は
                     (「ほんたうの夏ー博多祇園山笠」)

冒頭漢字の固有名詞で攻めて、「が」から「の」までの平仮名並びと「ほんたう」という歴史的仮名遣い表記。
これが「本当」ではなく「ほんたう」というのがいいな。「のだ」の断定もいいな。「町」が「街」なのも。
少し言葉をずらすことで普段遣いの言葉が違ってくる。そうだ。言葉は先取して熟成させるのだ。

 ゆふがほの種子まだ固くもうすこし待たねばならぬ 待つことだいじ(「秋光記」)


歌集は母と私の日々を一つの流れとして持っている。その流れにボクは心を掴まれた、歌集最後の一首まで。
もちろん歌集中の歌は様々な姿を見せてくれる。再読するときは、どの一首に心が止まるだろうか。
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