パオと高床

あこがれの移動と定住

ことばと音2

2004-11-14 18:24:02 | 雑感
文字言語は音声言語の書き写された形式であるとしたら、脚本はまさにそれが書かれた段階で記録化されたものであるかもしれない。

脚本は三次元のパッケージである。もちろん、脚本によっては、その人間関係やストーリーを追うことが楽しい本もある。また、言葉だけを追って楽しいものもある。だが、その楽しさは舞台=立体化を想像させる楽しさが総合的な楽しさではないだろうか。ひとつの脚本から様々な演出が生まれる開かれ方もそこに起因する。
と、同時にすでにその脚本の舞台を見ていることは脚本を読むことをわかりやすくさせる。例えば、唐や野田の舞台を見ると、彼らのセリフの速度や体の移動や舞台のダイナミズムが脚本を読みながら想像できる。つまり、経験が本を固定させる。書かれたものがその舞台で一定の完成をみるのだ。脚本それ自体は、本の状態で無数の解釈を待っている未完成さを快感にしているといえるだろう。

二つの流れ。舞台化があって記録として書かれた本という流れと、本があって舞台化が行われるという流れがあると思う。つかのようなライブ的作り方と古典を再演していくという作り方の。
 
そして、書かれた言葉の、作品としての完成は、別の展開をみせるものだと言えるだろう。詩の朗読ははざまにあるのかもしれない。書かれた完成と三次元的完成の両方を求めて。

ポリフォニーやカーニバルという言葉が思い浮かぶ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする