「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう」
何故、彼はこの言葉を残して死んでしまったのか?
いくら考えたところで、アタシに分かるワケはないのだが、
彼なりにキリストに近付こうとしていた事は確かである。
だが、キリストは、「私の教えは命に至る」と言われたのではなく、
「わたしが命である」と言われたのだ。
クリスチャンとは、『キリストの教え』を信じている人たちなのではなく、
『キリスト』を信じている人たちのことである。
この2つは似ているようで全く異なる。
今日のテーマである『復活』も、教えなのではなく、事実である。
もし、彼がキリスト教ではなく、キリストに救いを求めていたとしたら、
彼は救われていた。
家族をおいて自殺などしなかった。
彼が晩年に繰り返していた「ぼんやりした不安」など、
聖霊の嵐によって吹き飛ばされていた。
この作品のPart 1には、『聖霊』という項目があり、
そこには、『聖霊は悪魔や天使ではない。勿論、神とも異るものである』とある。
彼は、三位一体の神が理解出来なかった。
イエスはこの二人の弟子に「聖書全体にわたり、御自分の書かれている事を説明された」とあるが、
理屈っぽい人たちを救いに導くためには、聖書の総合的解釈が、どうしても必要なのである。
音声はこちらからでも視聴できます。
http://www.goodnewsstation.com/msg04051501.mp3
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