エンジェル田中のホボ毎日記

☆私たちは何を知り、何を祈り、何を伝えるべきなのか? 大衆伝導師“エンジェル田中”が語るレアな聖書メッセージ!

どっちが得?

2012年10月17日 | 日記
 「聖書が語る「幸い」とは、出来事や環境の変化とは関係ない!

 もし宝くじが当たってハレルヤ!なら、財布を失くしたら神を呪ってしまうでしょ。」

 …という話をした二日後、息子が教会の前で財布を失くした。

 此間、職場で怪我をして14針縫い、ン千ドルの請求書が来た矢先であった。


 「神なんかに祈って、何になるんだ、バカヤロー!!」 とも考えることが出来るし、

 「それでも神はいる!これはきっと益に変えられる!」 とも考えることが出来る。

 どちらを選ぶかは本人の自由なのだが、聖書には何と書いてあるのかと言うと、

 「感謝しなさい」 である。しかも、命令形で。


 なんでまた聖書はこんなムチャなことを言うのか?

 そもそも、怪我したり、財布なくして感謝するバカがどこの世界にいるのか?


 長い話を短くすると・・・

 要するにそうした方が、その後の人生が、うまく行くからなのである。

 「どうして?」

 「誰のせいで?」

 「いったい何時まで?」

 人々は、世の中の様々な不幸に対して、必死でこう考えているが、これらは皆、不毛な質問であり、こんなことをいくら考えても、人間には答えを出すことは出来ない。

 イエスもまた、このような質問に対しては、一切答えられていない。


 ヨハネ福音書の冒頭、「神の業がこの人に現れるため」とイエスが言われたのは、
このような弟子たちの質問に対してではなく、人生の生き方について答えられたのであった。

 幸不幸の概念が、世的現象の枠から離れることが出来なければ、話はまた振り出しに戻ってしまう。

 自分の人生観に立つか、聖書の人生観に立つかか、どっちが正しく、どっちが得かと思うか?

 結局世の中は、この二つの価値観に二分されているのである。


  イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (ヨハネ福音書9:3)



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