小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

墓参とイノシシと掃除

2009-08-13 02:40:05 | 島の生活
ペルセウス座流星群でも楽しむか
 10日(月),トマトの作業を済ませてぼやっとしているあいだに母から電話があったらしい。妹夫婦が帰っているので一緒に食事でもという。体が落ち着いたら島に帰ろうと考えていたが付き合うことにした。
 久し振りに親子兄妹4家族7人で会食。一人だけ元気なのが『カラオケ!』というので会場まで付き合ったが最期まで寝ていた。

 自宅にいるとあれこれ用事を仰せつかって,帰島したのは翌11日(火)夜。
墓参用に樒を採りに山の畠に出かけると,・・・,前回はシュレッダーした紙袋が落とされていただけだったが,今回は一抱えもある石まで道路に落とされている。
畑は穴だらけ。人間用の通路を通り抜けてイノシシがサツマイモをダメにしてしまった,と従弟が嘆いたのが頷ける。
 よほど食糧事情が悪いのか,先日轢き損なった奴の意趣返しなのか。ともかく防御網を補修し80本余の樒を切る。

 共同墓地に,本家・分家含めて8基の墓がある。私以外は神戸,大阪,愛知と出て帰る気配はない。それにしても曇天のもと湿気と蚊が多い。
帰宅してポンプを修理し便槽の汲み取りを始める。溢れんばかりになっていたが,何とか終了したとたん,ちょびっと汚物をかぶってしまった。

先に燻蒸した成果は,ゴキブリ4匹,コオロギ1匹,それに少々。どういう訳かムカデはいなかった。孫が口にするようでは息子や娘に何を言われるか分からないから,危なそうなところだけまる~く掃除機をかけ,ちょこっと雑巾をかける真似をする。ところが,敷物の糸くずなど小さいゴミがとれない。仕方ないからガムテープを浸かったが・・・。

 できれば流星の一つでもと願ったが,大事な時間帯に小雨がぱらついてきた。天候さえよければ,週末までは何とか北東方向に見えるようだから,いろいろとお願いしなければなるまい。


景気は悪い

2009-08-13 00:10:50 | 島の生活
 
島の生活は・・・
 倉橋島(広域合併で呉市となったが)は本土の呉市と(平清盛が開鑿したと伝えられる)音戸ノ瀬戸で隔てられ,島の北半分は音戸町,南半分は倉橋町となっている。西隣に海上自衛隊は第一術科学校・幹部候補生学校のある能美島(江田島市)があるが,この島には飛渡瀬(ヒトノセ)という地名が残っている。読んで字の如しで,恐らく音戸ノ瀬戸も人が飛んで渡られる程度の瀬を拓いたのだろう。
 
 ところで,島は孤立しているが故に,向きによって産業が異なる。能美島の北半分は広島市に近いということで花卉や柑橘類の栽培が盛んである。音戸町は海軍工廠のあった呉市に近いが,倉橋町は内海の島を隔てて愛媛県に向いている。これといった産業の興るはずがない。わずかに内海の交通の要衝ということで造船業は栄えたようだ。浦々に造船所が存在したし,本浦には桂が浜そばに最古といわれる乾式ドックの跡が残っている。ここで遣唐使船も造られたらしい。この町の室尾という浦は潮待ちの港として栄えたようで,島で唯一三味線の音が聞こえたといわれる。町の東半分は柑橘類の栽培が盛んで,西半分は海運業に携わる人が多かったようだ。

 私の実家のある浦はご覧の通り。子どもの頃には平地に田圃もあり,300名を超える小学生がいたが,海運が盛んになり人家は立ち込み始めたが小学生は減り,廃校となった。機帆船は鋼鉄船にかわって港も整備されたが最近は係留されている船も多い。景気のいいときには盆正月だけようやく帰港する程度であったが,最近は数隻の船が停泊したままで,今日も墓地から眺めると10隻になった。
 株価は上がっているようだが,末端まで届くには暫く時間がかかりそうだ。