イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

2009年02月13日 21時13分31秒 | Weblog
納品の直後に見つけるネタサイト

フリーランス翻訳者(1970~)


作業中は、これでもかというくらいひたすらに辞書やインターネットを使って調べ物をしている。そのときにははっきりとわからなかったのに、なぜか納品した直後にその答えが思いっきり載っているサイトが見つかることがある。それまでの私の努力は何だったんだろう。納品先にはどう連絡すればいいのだろう。


(解説)苦悩する翻訳者の心境が歌われています。必死になって調べ物をしているときには見つからない答えも、作業が終わってから冷静になって考えると、案外簡単に見つかったりわかったりするものです。ひたすらに人名を調べ上げた挙句、関連サイトにばっちりリストが記載されているなんてこともあります。人間、追い詰められると視野が狭くなるということでしょうか。このような心境を歌にしたものは多く、「納品の直前に知るネタサイト」、「出版のその日に脱字を指摘され」など、類歌を挙げれば枚挙にいとまがありません。

ちょっとググって手ごたえがないからといって簡単にあきらめず、粘り強く調査を続けたいものです。特に、翻訳対象文書と直接関係のあるサイトには、思わぬ情報がたくさん記載されていることがあります。必ず確認するようにしましょう。

冬 ~悲しければ悲しいほど~

2009年02月12日 22時07分30秒 | ちょっとオモロイ
ずっと家にいるので季節感がなくなっているだけかもしれませんが、なんだか冬らしい冬を迎えないまま、ひょっとしたらこのまま冬は終りなのかという予感がしています。今年は不発弾のような冬なのかもしれません。最近は天気も良くなり、ランニング時にも少しだけ薄着で走れるようになってきました。気持よく晴れていると「すわ!もう春!?」と思ってしまう僕なのですが、それはやっぱり炎天下変態ランナーの潜在意識に眠る欲動のなせる思いこみのような気もします。ともかく、冬はあまりにも長い。でも、そろそろ終わりかと思うと、あっけなくも感じます。人生と同じですね。しかし、これだけ毎日、冬は嫌い、冬は嫌いと思っていると、なんだか冬に対して申し訳ない気がします。冬に、罪はありませんよね。ともかく、あとどれくらいまでの期間を冬と呼ぶのかは寡聞にして知りませんが、春が来る前に、せめて少しは冬の静けさと冷たさを愛してみたいものです。

「ねえ、母さん」
「なあに」
「僕の存在意義って何かな」
「どうしたの冬彦。やぶからぼうに」
「わからない。秋が終われば冬が来る。誰もがそれを当然だと思ってる。僕が今ここにいるのが当たり前だと思ってる。そして、僕は確かにここにいる。だけど――」
「だけど何よ」
「…」(突然悲しげに黙り込む)
「黙ってないで言ってごらんなさい」
「だけど――、自分が本当にここにいていいのか、自信が持てないんだ。だって、この冬は雪だって上手く降らすことができないし、道路をカッチカチに固く凍らせることもできない。身を切るような寒さで人々に冬を感じさせる――それが僕の役割なのに、ちっとも存在感がない。精一杯やってるつもりなんだけど、なんだか気の抜けたコーラみたいな天気が続いててさ。不甲斐ないよ」
「あら、何かと思ったらそんなつまんないことで悩んでたの。いいじゃない。暖冬が好きな人だってたくさんいるのよ。ママだって冷え症だし寒いの苦手なんだから。むしろ、みんなあなたには感謝してると思うわ」
「そうかな。でも、最近は自信喪失気味なんだよね。本物の冬をみんなに味あわせることができないまま、そろそろ役目も終わりに近づいてる。『これぞ冬』って日を一回も演出できなかった。むしろ思いっきり冬っぽくしてしまえば、それなりに楽しいことだってあると思う。でも中途半端に寒いのが続くと、なんだかみんなの気分まで暗くさせてしまっているみたいで。で、そうこうしてるうちに、なんだか春めいてきちゃって、ホント、情けないよ。地球温暖化のせいにはしたくない。すべて自分の力不足だよ」
「人にはそれぞれ器ってものがあるわ。あなたなりに冬をプロデュースしたんだから、それでいいじゃない。たとえそれが冬らしくない冬だったとしてもね」
「うん」
「でもね、冬彦。春までにはまだ少し間がある。本当に悔しいって思ってるなら、ドカンと大雪でも降らせてみたらいいんじゃない? 男の子でしょ」
「ママはそうやっていつも簡単に言うけど――」
「わが子ながらどうしてそういつも後ろ向きなの? まあいいわ。あのね、この際、正直に言っておくけど、ママ、冬が嫌いなのよ」
「ひどいな、わが子に向かって」
「昼間っからどす黒い雲が垂れこめる、あの陰湿な感じが嫌。寒くて手がかじむのが嫌。早く夏が来てほしいのに、全然そんなそぶりを見せてくれないのが嫌。お天道様の下をまっ裸になって走りだしたいのに、それができないのが嫌。イヤ、イヤ、イヤ!!」
「ママ、落ち着いて!」
「ごめん。つい、とりみだしちゃったわ。でもね、ママだってけっして冬のすべてが嫌いなわけじゃないのよ。炬燵に入ってみかんを食べたり、温かいお鍋を囲んでみんなとワイワイやったり、スキーをしたり。あなたにも、あなたの良さがある。だから、自分を責めたりしちゃだめよ」
「でも….」
「ねえ冬彦。考えてみてよ。その根暗な根性が、あなたそのものじゃない。暗くて辛くて寒い。それが冬じゃない? だから、あなたはそれでいいのよ。そしてそんなあなたがいるからこそ、他の季節が輝くの」
「喜んでいいか悲しんでいいのかわからないけど、ともかくありがと。そうかもね。僕は僕のままで、ネガティブにこのまま生きてみる。存分にネガティブに。でも来年こそは、雪をシンシンと降らせて、東京の街を真っ白に染めてみせる。約束するよ!」
「そうやって忘れたころに突然思い出したようにポジティブになる。パパに似たのね。ともかく、あなたは誰の心のなかにも存在する。あなたがそばにいる間は、重苦しくて、辛くて、息が詰まる。だけどあなたがいなくなって初めて、わたしたちは自由な存在であることに気づくのよ。あなたは、あなたのままでいいわ。ママは、あなたのことが――ちょっとだけ――大好きよ」

挿入歌:森進一『冬のリビエラ

「ちょっとだけ大好き」――それはまさに、僕が冬に対して思う気持ちです。基本的には嫌いなんだけど、大好きなところもあります。ピリッとした空気と、真っ白な雪。外は凍るほど寒いのに、ホクホクと温かい心と体。おでん、熱燗、ストーブで焼いて食べるスルメ。寒くて暗い冬、僕にとってとりわけ辛い冬でしたが、春の予感をわずかに感じる今日この頃、そんな冬にたいしてなぜだか少しだけ、なごり惜しさを感じているのでした。

代筆

2009年02月11日 19時24分06秒 | 翻訳について
昨今ではあまりその存在を見聞きしないけど、昔は代筆業という仕事があった。「あった」といっても、僕とてそれほど昔の人間ではないので、実際に誰かに代筆を頼んだり頼まれたりしたことはほとんどない。映画とかドラマで見たことがあるだけだ。

たとえば、読み書きのできない人が、故郷の家族に手紙を出したいとする。するとその人は読み書きのできる人に代筆を頼んで、手紙を書いてもらう。「お父さん、お母さん、お元気ですか。私は毎日元気でやっています。......」みたいな感じだ。代筆業者はそれを聴きながら、ポツポツとタイプライターのキーを叩くのだ。

ふと思ったのだけど、翻訳は代筆に似ている。僕の場合は英語から日本語への訳しかできないのだけど、英語の書き手から、「こんなことを相手に伝えたいのだけど、これを日本語にしてくれませんか」と頼まれているような気がすることがあるのだ。特に、相手に自分の思いを伝えようとしている手紙などを訳す場合。

もちろん、原文の書き手に直接会う機会などめったにないし、書き手本人から依頼されるのではなく、間を複数の人間が経由するのが普通だ。それでも、英文に込められた思いがなんだかとてもヒシヒシと伝わってくる文章を訳しているときは、切実な表情を浮かべている書き手を脇にキーを打つ、古き良き時代の代筆業者になったような気がする。書き手のせつない思いをなんとかしてうまく日本語に乗せてあげたいという気持ちになる。

仕事でラブレターの翻訳を依頼されることなどまずないだろうけど、やはり代筆の王道といえば、ラブレターのような気がする。依頼側は真剣だ。手紙の出来によって、恋が成就するかどうかが決まるかもしれないからだ。代筆する者の責任は重大だ。自分も恋をしている気持ちになって、精一杯、いいラブレターになるように努力する。文章を書いている間は、その人も少しだけ手紙の読み手に対して恋に落ちているのかもしれない。依頼側の気持ちが代筆者に乗り移ったとき、きっと手紙にも愛が込められるのだろう。

オバマのスピーチライターが若干27才だったということが話題になった。彼が直接「代筆」という言葉を使っていたわけじゃないけど、彼曰く、彼がスピーチを書いたのではなく、オバマの言葉が少しでもよくなるように手助けしただけだ、ということらしい。もちろん、彼自身の才能には疑いはない。だが、その謙虚なセリフの根底にあるのは、書き手としての本音かもしれない。書き手にとっては、何を書くかということよりも、どう書くかということが重要である場合もある。誰かの恋の手助けをするという目的を与えられた時、書き手はその制限のなかでむしろ言葉を自由に紡ぎだし得る。まったく自由に何でも書いていいといわれたときよりも、彼の筆がいきいきと動きだすこともあるのだ。

書くべき内容はすでにある。あとはそれをいかにして書くか。それが代筆業者の、翻訳者の仕事なのだ。自分で何かを書くことは楽しい。だけど「かれこれこういうことを書いてくれ」と頼まれることもまた楽しい。そこにはいかにうまく書くかという私は存在しても、何を書くかという私は存在していない。私の一部は無となり、誰かが言いたかったことを書くために、誰かの心を自らのうちに宿らせる。そこに快感を覚えるからこそ、人は翻訳者になりたいと思うのかもしれない。

というわけで、テレビのない僕はサッカーの試合も見ずに(見れずに?)、今日も深夜までラブレターの代筆を黙々と行う予定。今日の案件は本当に書き手の熱意がこもっていて、こちらもそれに応えなくては!という気持ちにさせられているのでした。

いつの日か超人に

2009年02月10日 23時21分53秒 | 翻訳について
翻訳会社でコーディネーター兼チェッカーをしていたとき、社内で密かに「神」と呼ばれていた登録翻訳者の方がいた。たしか還暦を超えているベテランの男性で、ITをはじめとする技術系の英訳を専門にしていた。なぜ彼が神と呼ばれていたかというと、その英文の質もさることながら、おそろしいほどに仕事が早かったからだ。とても人間とは思えない速さで、訳文を仕上げてきてくれる。無理な仕事が次々と舞い込む翻訳会社にとって、彼ほど貴重な人材はいなかった。夕方に膨大な量の翻訳を発注すると、朝方にはファイルが上がってきている。午前中に膨大な量の翻訳を発注すると、夕方にはファイルが到着する。10枚、20枚、30枚...。彼にとって納期は彼の都合ではなく、こちらの都合で決められるものであることが前提にされているかのようだった。

電話で仕事を依頼するとき、彼の基本的なセリフは2つしかなかった。

「お安いご用です」と「なんとかしましょう」だ。

通常ならちょっと無理っぽい依頼内容でも、彼にかかればほとんど「お安いご用です」になった。頼むこちら側が冷や汗をかいてしまうほどに相当に無理な案件の場合、彼は少し間をおいてから「なんとかしましょう」と答えた。電話を切って、仲間うちで今回は2つのセリフのうちどちらだったかを報告して、彼の偉大さを称えた。あまりのすごさに、思わず笑ってしまうこともあった。そしてファイルは必ずといっていいほど、納期より前に送られてきた。納品ファイルが来た瞬間「もう来た!」とまた思わず笑ってしまうことも度々だった。そしてわれわれは神に感謝した。

もちろん、神とて万能ではない。どうしても無理な場合(そもそも彼だって別件を抱えているときがある)依頼を断られることも何度かあった。だが、僕のなかで彼に対する神話が色あせることはなかった。

以前にも書いたけど、ただ単に英文を日本語に置き換えるだけなら、それをできる人はたくさんいる。だけど、それを超人的に早く、そして上手くできる人は、めったにいない。めったにいないからこそ、その人の仕事には価値が生まれ、プロとして周りから認められるようになり、正当な報酬を得られるのだ。600ワードのプレスリリースを依頼されたとき、それを1日かけて翻訳しているようでは仕事にならない。できるだけ早く、そして上手く翻訳ができるようになることを意識して作業しなければダメなのだ。この人はすごいと依頼される側から思われるようにならなければダメなのだ。

たとえば、僕がサッカーボールを蹴る。オーストリア代表相手の試合で、直接FKが与えられたと思って蹴る。だか僕のキックにはなんの価値もない。誰も、そんなへなちょこシュートを観たいと思わないし、それに対して金を払おうなんて人はどこにもいない。僕の蹴るボールは、寒いグラウンドを、寒くかぼそく飛んでいく。僕の心も、通りがかりでたまたまそれを見た人の心も、寒くしながら。だが、それを中村俊輔が蹴るとしたらどうか。そこには無限の価値が生まれる。下手をしたら、日本中の人たちが息をのんで彼のキックに集中する。ゴールが決まれば、日本列島が沸騰する。youtubeで数百万人が繰り返しそのシーンを見る。なぜなら、彼が日本一のキッカーだからだ。ボールを蹴ることに価値があるのではない。うまく蹴ることに価値があるのだ。翻訳も同じ。翻訳をすること自体に大した価値はない。うまく翻訳してこそ、初めてそこに価値が生まれるのだ。どんな仕事であれ、それは同じだと思う。だからこそ、職業人たちは毎日倦むことなく自らの仕事を極めようと努力しているのだ。その気持ちを僕は忘れてはならない。

会社を辞める前、いつの日か僕も神(彼)のような存在になりたいと思っていた。圧倒的な仕事力で、依頼者をすら魅了してしまうほどの翻訳超人。フリーになる前に、いいお手本に出会えてよかった。あまりにも遠い存在だったけど、目指すべきひとつのモデルは、彼に違いないと思った。

もちろん、現在の僕は神ではない。一人前でないという意味においては、人間ですらない。類人猿には悪いが、せいぜい類人猿翻訳者といったところだろう。だが僕は目指している。超人になることを。真のプロとは、どんな分野においてもきっと超人と呼べる存在であるに違いない。超人になるには、超人的な努力が必要だ。その努力を続けられたとしても、凡人の僕が超人になるにはおそらく10年でも足りない。20年、否、もっとか。でも構わない。翻訳超人の道は、それほどまでに遠く険しいものなのだ。

もし超人になれたら、――同じ超人である筋肉マンの眉間に刻印された文字が「肉」であり、ラーメンマンのそれが「中」であるように――、その証として、眉間に「翻」の文字を刻みたいと思う。そして超人オリンピックに参加してみたいと思う。といいつつ、こんなくだらないことを書いている暇があったら仕事しろっつーの。

フリーランス翻訳者殺人事件 6

2009年02月10日 00時33分52秒 | 連載企画
サルの家に サルが住む サルの父と サルの母 サルのこども愛してる サルの家は森に囲まれ

iPodからは、坂本龍一の『サルとユキとゴミのこども』が聴こえてくる。わたしはジョギングをしていた。自宅すぐ近くの多摩湖遊歩道を1.5キロほど走って小金井公園に行き、1周5キロの園内コースを1、2周する、いつものコースだ。家を出る前はあまり意識していなかったが、見上げれば空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。だがかまわない。ずっと家にこもりきり、引きこもりのわたしにとって、ランニングは一日のなかで唯一、体を動かす手段であり、外の空気を吸う機会なのだ。たまに人に会ったり、図書館にいったり、翻訳学校に行ったり、買い物にいったりすることもある。だが、それらはあくまで数日に一回の割合で発生するイレギュラーな出来事であり、わたしのルーティーンには組み込まれていない。

フリーになることが、これほどまでに孤独なものになるとは予想していなかった。たしかにある程度は予想していた。むしろ、会社を辞める前の数カ月、わたしはたっぷりと自分だけの時間を楽しめる日々が来ることを、なによりも心待ちにしていた。朝から晩まで翻訳にどっぷりとつかり、充実した日々を過ごすことを期待していた。もちろん、その願いはかなった。わたしは文字通りフリーとなり、翻訳することによって報酬を得、生きていく立場になった。翻訳することは仕事人としてのわたしのすべてであり、わたしがやらなくてはならないことのすべてだ。そしてそれは、わたしがもっともやりたいと願っていたことだった。もう昔のように「今の生活は世を忍ぶ仮の姿であり、本当に望んでいる生活ではない」などという嘆きを、心の片隅に抱えたまま生きていかなくてもいい。わたしは、わたしの望む仕事を、臨んだ形態で行っている。もうどこにも行く場所はない。今、ここがわたしのあるべき場所なのであり、目の前にある仕事が、わたしがやるべき仕事なのだ。だが、それはナイーブなわたしが想像していたような、ただ単に楽しいと呼べるような単純なものではなかった。

フリーになるのとほぼときを同じくして、わたしは妻と別居をはじめ、そして離婚した。そしてその後のわたしを待っていたのは、とてつもないほどの孤独と不安だった。わたしはようやく自分の居場所にたどりついたと同時に、一番大切なものを失ってしまったのだ。わたしのこころは傷つき、そしてバラバラになった。夜になると、恐ろしいまでの虚無がわたしの心臓を直撃した。毎朝、わたしは重苦しい夢にうなされるようにして目が覚める。当分、それは終わりそうにない。だが、わたしにできることは、ともかく毎日を生きることだ。時間が何かを解決してくれることを期待して。そして走ることは、そんなわたしの沈んだこころを浮き上がらせ、前向きにさせてくれる。不思議なくらいに、走っているときは明日のことを考えられる。新しい人生を生きている、新しい自分の姿が浮かんでくる。だからこそ、わたしは毎日のランニングを自らに課しているのだった。

わたしは公園に到着すると、3匹の猫の住み家となっている茂みに視線をやり、猫がいないことを確認して、いつもの腕立て伏せスポットに向かった。ストレッチを兼ねて、腕立て伏せを20回。毎日のことなので、この行為はなかば儀式化している。腕立て伏せも同じだ。わたしを前向きな気分にさせてくれる。わたしに筋肉があることを思い出させてくれる。全身の筋肉を感じながら、ゆっくりと、体のすみずみを伸ばすようにして、自分を持ち上げる。気持がいい。わたしは腕立て伏せが本当に好きなのだ。

わたしは再び走り出した。キロ5キロのコースを、今日は時計回りに進む。わたしは走りながら昨夜の不思議な出来事のことを思い出した。まったく奇妙な話だ。ジョン・リスゴーの正体は、NHKの調査員ではなかった。否、彼がNHKの人間であることは間違いない。だが彼が所属するNHKは、「日本放送協会」ではなく「日本翻訳協会」だった。彼はいったい何を求めてわたしの家を訪れたのか。ほぼ間違いないのは、彼はわたしの職業を知っていたということだ。日本翻訳協会の人間が、偶然フリーランス翻訳者の家を訪れるなんてことはありえない。フリーランス翻訳者のような希少な職業の人間の家を、日本翻訳協会のようなニッチな団体の人間が偶然、訪問するなんてことはありえない。彼は、何らかの目的を持ってわたしの家を訪問したのだ。だが、彼は本質とは外れた質問をした。彼が知りたかったのは、わたしがテレビを見ているかどうかなどではなかったはずだ。

ひょっとしたら、彼はわたしの命を狙っていたのかもしれない。あのとき彼は、懐にナイフを忍ばせていたのかもしれない。そして隙あれば、わたしの腹部に鋭い刃を突き刺そうと狙っていたのかもしれない。しかし、――なぜ?

わたしはなかば真剣に、彼によって命を絶たれることを想像していた。なぜなら、彼が相当に怪しい男だからだ。相当にイカれた男に違いないからだ。わたしには、彼が日本翻訳協会の人間ではないことがわかった。日本翻訳協会は「NHK」ではなく、「JAT」と呼ばれている。わたしのようなはしくれ翻訳者でも、この業界にこれだけ長くかかわっていれば、それくらいのことは知っている。JAT主催のイベントにだって、何回か出席したこともある。そもそも、JATはまっとうな団体だ。彼のような男を使って翻訳者の家を突然訪問させるような変態組織ではない。つまり、彼は正体を偽って、わたしの家を訪問した。そして彼はわたしの職業を知っている。

そこまで彼のことを不審に思っていながら、昨夜のわたしは自分でも意外な行動をとってしまった。わたしは彼からもらった封筒を開け、アンケートに目を通した。そんなものに応える義務はないと知りつつ、わたしはなぜかそのアンケートに答えてしまった。そして思わず、なぜかそこに記載されていた翻訳トライアルにも挑戦してしまったのだった(続く)。

KEYと、邂逅

2009年02月06日 21時05分31秒 | Weblog
昨日、20年ぶりに中学校のときの友達と会った。ずっと連絡をとっていなかったのだけど、彼が最近このブログを通じて僕を見つけてくれ、しかもものすごく近所に住んでいることがわかり、ぜひ会おうということになったのだ。

8時に武蔵境のすきっぷ通りにある本屋で待ち合わせて居酒屋に行き、その後彼の家にお邪魔させてもらって、朝3時まで話し込んだ。あまりにも懐かしすぎて、何から話せばいいのかわからなかったけど、思いつく限りの昔話に花が咲いた。7時間も話をしていたのに、話題が途切れることはなかった。会う前はちょっと緊張もしたけど、不思議なもので少し話したら、あっという間に中学生だったときとほとんど同じノリに戻ることができた。

彼と仲良くなったのは、北陸地方の某市に住んでいた中学校一年生のとき。僕が『戦場のメリークリスマス』を観て、YMOが好きだと言っていた彼に話しかけたのがきっかけだ。映画を観て、坂本龍一ってなんだかすごい人だなと思った僕が、彼に教えてもらったYMOの虜になってしまうまでにはほとんど時間がかからなかった。

マンガが上手で、独特のユーモアのセンスが抜群だった彼とは波長が合い、一緒に遊ぶ機会もどんどんと増えていった。当時『サウンドール』っていう音楽雑誌があったのだけど、毎号熟読しては音楽の知識を増やし、情熱を燃やしていった。3年生になったとき、同じく彼の影響でYMOに目覚めた友達2人と一緒に、4人でYMOのコピーバンドを作って、文化祭に出ようということになった。休み時間になると4人集まって、どの曲をどの順番でやるかとか、楽器はどうやって調達するかとか、いろいろと作戦を練ったりした。何度もスタジオに入って練習した。ほかの音楽好きの友達もデュランデュランのコピーバンドを結成し、ライバル意識も芽生えたりした。そんなすべてがとても楽しかった。

文化祭の本番は、まあ大成功といっていいものだったと思う。僕は小さい頃からピアノを習っていたので、キーボード担当。曲は『君に胸キュン』、『KEY』、『ライディーン』だった。全校生徒の前に立つのは緊張したけど、3年間の総決算みたいな感じて、夢中になって演奏した。舞台の上いた自分たち4人が、とても誇らしかった。客観的に見たら、中学3年生の演奏は、それほど素晴らしいものではなかったのかもしれないけど。

昨日会った友達の担当は、ドラムだった。ドラムがめちゃくちゃ上手かっただけでなく、キーボードを使ってオリジナル曲をいくつも作っていた彼には、天性の音楽の才能が備わっていた。僕はどうやっても音楽では彼には勝てないと思ったこともあって、文化祭が終わるとバンドもやらなくなった。彼によれば、僕は「音楽から足を洗う」宣言をしたらしい。足を洗うというほど大したものではなかったのだけど。

...ということを、彼と話していてかなり鮮明に思いだした。かなり誤って記憶していたこともあった。演奏した曲も『邂逅』だと思ってたし、登場の順番も、当然自分たちのバンドがトリだと思っていた(実際は、じゃんけんで負けて3組中の1番目だったらしい)。他にも、彼に言われて初めて思い出すことの多いこと。


他のバンドも含め、文化祭でステージに上がった友達は、まだ音楽を続けている人が多かった。彼の家で、他の友達のライブを収めたDVDを見せてもらった。あれから20年以上がたった今でも、音楽を続けているなんて、すごい。やっぱりみんな、音楽が好きだったんだなとあらためて思った。

そんなわけで、彼とは単なる友達であるだけではなく、音楽を通じていろんな思い出を作ってきた。記憶をたどりながらお互い「あのとき、こう言ってたよね」って確認し合ったのだけど、僕はかなり昔の自分の発言を忘れていた。僕は、昔は今よりずっとストレートで、思っていたことをズバズバ口にする奴だったようだ。中学生ってそんなものなのかもしれないけど。お調子もので、突拍子もないことをいうのは今と同じ。それにしても、記憶というのは怖い。自分が何年生のとき誰と同じクラスだったとか、そういう事実がかなり欠落している。彼を頼りに、いろんなことを思い出した。

そもそも、その某市にはこの20年、一度も訪れていない。だから、地理的な記憶もかなり薄らいでいる。今日、Googleマップで調べてみたら、だいぶ思い出したけど、やっぱりこれは昔の友達に会いに、実際に行かなければと激しく思った。小学校5年から高校1年までを過ごしたその街を、もういちど歩いて、この目で見てみたい。

父親の仕事の都合で何度も引っ越しを繰りかえしたので、僕にはこれといった故郷がない。幼馴染の友達もいない。生まれ育った街や、母校や、友達を常に身近に感じながら生きていくことは、どんなものなんだろう? そう考えて、故郷を持つ人を羨ましく思うこともある。だけど、今でもあの街に住んでいる友達のことを思うと、そしてそんな彼らとまた会える日がくるのかと思うと、やっぱり僕にも故郷はあったのだと感じたし、なんだかとても嬉しかったのだ。

僕を見つけてくれた彼にはとても感謝しているけど、インターネットにも感謝しないと。このブログがなければ、今回の彼との再会もなかった。自転車で10分の距離に住んでいたにもかかわらず、一生会わなかったかもしれないのだから。というわけで、なんだかいろんな意味で、人生の第2章が始まったのかな~なんてことを思わずにはいられないのだった。BOB、ヒロ、ありがとう!






ファームに落ちて

2009年02月04日 12時38分24秒 | 翻訳について
引退したプロ野球選手が久しぶりにバッターボックスに立って現役のピッチャーの投げる球を目の当たりにしたとき、「怖い」と感じることがあるのだそうだ。あるいは、ベテラン選手がプロの剛速球を「怖い」と感じるようになったときが、引退の潮時なのだという。

僕は翻訳を引退したわけではないけど、それに近いものを感じることがある。調子がよくないからなのか、原文が難しいからなのか、翻訳の難しさを改めて実感しているからなのか、いつもとは違う状況に身を置いているためプレッシャーを感じているからなのか、理由は様々だとは思うけど、なんだか妙に、翻訳することが怖い。

調子のいいときは簡単に打てると思える球が、打てない。ヒットを打てていた以前の自分の感覚が、思い出せない。

こんなはしくれ翻訳者にも、好調不調の波はあるだろう。実際、不調なのかも。だけど、実は打てない自分こそが本当の自分なのかもしれない。今までは、打てると勘違いしていただけかも。あらためて自分のすべてを見直して、基本からやり直さなければいけない。

「どんな球でも打てる」と不遜にも感じるときは、自分の持っている力以上のものが出せる気もする。そしてそんな状態にあるときこそ、いい仕事ができるに違いない。その状態を自らの内から引き出し、維持することも、また実力なのだ。健康、心理状態、私生活を含めてトータルに自分が高まっていないと、いい仕事はできないのだ。

僕はファームに落ちたのかもしれない。でもこれは、ピンチでありチャンスなのだ。

※いろいろと忙しく、忙殺されています。「殺人事件」の再開はもうしばらくお待ちください(誰も待ってない?)!





20年ぶりの友からの連絡

2009年02月01日 20時14分57秒 | Weblog
20年ぶりに中学校のときの友達数人から連絡をもらいました。友達のひとりが、このブログをみて僕のことを発見してくれたのです。その友達は東京にいて、僕のジョギングコースのすぐ近くに住んでいることも判明しました。びっくりです。コメントをくれた友人ヒロは、僕たちのバンドのリーダーで担当はボーカル、中学一の二枚目でした。さすがリーダー、頼りになります! TちゃんとS君からもメールをもらいました。ホントありがと! 懐かしく嬉しい気持ちでいっぱいですが、なんといっても僕のことを覚えていてくれたことに、ものすごく感動しました。Tちゃんが思い出してくれたエピソードはとても公の場には書けないようなものばかりでした(笑)みんな、ありがとう! 近い将来に遊びに行きます!

金曜日は、久しぶりに元職場の同僚たちと会って呑みました。帰りに新宿中央公園を通って、新宿探索。都庁探検隊の再結成、復活です。新宿の夜は、やはりイイ!探検隊は永遠に不滅です。人に会うことはいいものだな~と思いました。

気がついたらもう2月です。僕にとって1月はヘビーな月でした。でも、だんだん調子も上向いてきました。それもこれもみなさんをすぐ近くに感じることができているおかげです。もっともっとコンディションを上げ、公私ともに次なるステージに挑みたいと思います。みなさん、本当にありがとう! そして、一度も会ったことはないけどこのブログを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます!

以上 近況報告でした。
「...殺人事件」は、話の内容も相当危うくなってきましたが、もっと危ういのが書いてるわたし自身かもしれません(^^)。大丈夫でしょうかわたしは。ともかく明日からまた復活します。