イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

翻訳者の「卵」

2009年02月17日 21時08分34秒 | Weblog
昨日深夜、実弟からメールが。件名:「初めて見た」。本文:「動いている春樹さん」

「動く春樹さん」は、カフカ賞の受賞のときの映像で見たことがあったので、今回のエルサレム賞の映像は2回目だった。ただ、どちらも英語のスピーチだったので、日本語をしゃべる「動く春樹さん」はまだ見たことがない。

あらためてしみじみとしてしまうのだけど、彼ももう還暦である。月日の経つのは恐ろしく速い。日本語をしゃべる動く彼を見ることがもしできたとしても、もはやそれは晩年の彼でしかない。「若き日の動いている彼」は一生見る機会がないのかも知れないのだ。ともかく、年齢を重ねた今だからこそ、彼も今回のようなアクションを起こせたのかも知れない。そしてだからこそ、僕たちは「動く彼」をようやく観ることができたのだ。

あっちを立てればこっちが立たない。それが今回の彼が置かれていた立場だろう。受賞を拒否することだってできたはずだが、結果として世界に平和的なメッセージを伝えることには成功したという意見もある。だが、賞を受けた時点で、イスラエルを政治的に肯定したことになるという厳しい見方もある。賞をもらっておきながらイスラエルに批判的なスピーチをすること、そもそも文学賞の受賞式で政治的なメッセージを発言することについての是非もあるだろう。

僕にはそうした様々な意見のなかで、特定のどれかのみに与することはできない。それぞれ一理あると思う。ただ、春樹さんは自分が「巻き込まれた」シチュエーションのなかで、最善とは断言できないまでも、かなりベターな言動をとったのではないだろうか。今回の彼を批判することはたやすいことだ。だが、そもそも彼にしたって、エルサレム賞の受賞は、よいニュースとよくないニュースが同時に飛び込んできたようなものだと思う。誰だって、彼の立場に置かれたら、相当に悩むと思う。外野は、外野だからこそ好きなことを言えるのだ。そのなかで彼なりに何らかの決断をしなければならなかった。それは彼が村上春樹であるから起こった出来事なのであり、彼が置かれたような状況にいきなり襲われるようなことない我々が、高みからああだこうだというのは無責任なことでもある。

本件を報じるニュースの中でも、ネットニュースという観点から見ると、ITmediaのそれが特によかった。記事にはリンクが張られ、スピーチの内容の翻訳を試みたブロガーのサイトにジャンプできるようになっている。オーセンティックさには欠けるかもしれないが、大手新聞のサイトがとおりいっぺんの報道しかしていないのに比べて(ていよくスピーチの内容を当たり障りなく小さくまとめている)、その気になれば読み手が情報を掘り下げられる点に好感をもった。英語の原文やブロガーによる訳文の全文を読むことができる。また、イスラエルの新聞の記事を参照することもできる。

ブロガーなる人々(しかし、ブロガーの定義ってなんだろう? ブログを書いている人はみんなブロガーなのか?)の翻訳の質には見るべきものがある。そもそも、こうして速報的な情報にすぐさま反応して訳文をサイトにアップするという行為自体は、むしろ本来、翻訳者が率先してやるべきことなのかもしれないのだから、翻訳プロパーではない人たちが早々に行動を起こしていることについては、自分も翻訳者である以上、多少後ろめたい気持ちになったりもする。

彼らの翻訳の質は決して悪くはない。むしろ、かなり良い方だと思う。部分的に見れば、プロと自称する人でもここまでできる人はそうそういないだろうというものもある。もちろん、翻訳慣れしていないだけに、慣れていればそうは訳さないだろうという点も散見されるが、プロではない彼らの訳文の一字一句をあげつらって、どうこうしようという気持ちにはならない。むしろそこからプロが学ぶべきは、彼らが翻訳が持つべき本来の役割――すなわち多くの人々が知りたがっている情報を、タイムリーに、原文の意味をできるだけ損なわないように、母語に変換すること――を、軽やかにやってみせたことだ。そういう意味では、彼らこそ真の翻訳者だと言ってもいい。彼らを見ていて思うのだが、そもそも私などが翻訳のプロと名乗るはおこがましい。実際は、翻訳を「専業としている」だけの話なのだ。

ブロガーの訳文から感じられる「ハルキ的なナイーブさ」には(僕自身もかなりかぶれていることは認めるとしても)、若干鼻白むものは感じるし、そう感じている人も多いかも知れない(それにそもそも春樹さんの今回のスピーチだって、かなりナイーブだったと言えなくもない)。だけど、「遠い」イスラエルの問題を身近に感じさせてくれたこと、そして個人的には翻訳が持つ本来の役割をあらためて考えされてくれたことについて、今回の春樹さんのスピーチに対してと同様、ブロガーたちにもに心から拍手を送りたい。

文責:「イ」