イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

代筆

2009年02月11日 19時24分06秒 | 翻訳について
昨今ではあまりその存在を見聞きしないけど、昔は代筆業という仕事があった。「あった」といっても、僕とてそれほど昔の人間ではないので、実際に誰かに代筆を頼んだり頼まれたりしたことはほとんどない。映画とかドラマで見たことがあるだけだ。

たとえば、読み書きのできない人が、故郷の家族に手紙を出したいとする。するとその人は読み書きのできる人に代筆を頼んで、手紙を書いてもらう。「お父さん、お母さん、お元気ですか。私は毎日元気でやっています。......」みたいな感じだ。代筆業者はそれを聴きながら、ポツポツとタイプライターのキーを叩くのだ。

ふと思ったのだけど、翻訳は代筆に似ている。僕の場合は英語から日本語への訳しかできないのだけど、英語の書き手から、「こんなことを相手に伝えたいのだけど、これを日本語にしてくれませんか」と頼まれているような気がすることがあるのだ。特に、相手に自分の思いを伝えようとしている手紙などを訳す場合。

もちろん、原文の書き手に直接会う機会などめったにないし、書き手本人から依頼されるのではなく、間を複数の人間が経由するのが普通だ。それでも、英文に込められた思いがなんだかとてもヒシヒシと伝わってくる文章を訳しているときは、切実な表情を浮かべている書き手を脇にキーを打つ、古き良き時代の代筆業者になったような気がする。書き手のせつない思いをなんとかしてうまく日本語に乗せてあげたいという気持ちになる。

仕事でラブレターの翻訳を依頼されることなどまずないだろうけど、やはり代筆の王道といえば、ラブレターのような気がする。依頼側は真剣だ。手紙の出来によって、恋が成就するかどうかが決まるかもしれないからだ。代筆する者の責任は重大だ。自分も恋をしている気持ちになって、精一杯、いいラブレターになるように努力する。文章を書いている間は、その人も少しだけ手紙の読み手に対して恋に落ちているのかもしれない。依頼側の気持ちが代筆者に乗り移ったとき、きっと手紙にも愛が込められるのだろう。

オバマのスピーチライターが若干27才だったということが話題になった。彼が直接「代筆」という言葉を使っていたわけじゃないけど、彼曰く、彼がスピーチを書いたのではなく、オバマの言葉が少しでもよくなるように手助けしただけだ、ということらしい。もちろん、彼自身の才能には疑いはない。だが、その謙虚なセリフの根底にあるのは、書き手としての本音かもしれない。書き手にとっては、何を書くかということよりも、どう書くかということが重要である場合もある。誰かの恋の手助けをするという目的を与えられた時、書き手はその制限のなかでむしろ言葉を自由に紡ぎだし得る。まったく自由に何でも書いていいといわれたときよりも、彼の筆がいきいきと動きだすこともあるのだ。

書くべき内容はすでにある。あとはそれをいかにして書くか。それが代筆業者の、翻訳者の仕事なのだ。自分で何かを書くことは楽しい。だけど「かれこれこういうことを書いてくれ」と頼まれることもまた楽しい。そこにはいかにうまく書くかという私は存在しても、何を書くかという私は存在していない。私の一部は無となり、誰かが言いたかったことを書くために、誰かの心を自らのうちに宿らせる。そこに快感を覚えるからこそ、人は翻訳者になりたいと思うのかもしれない。

というわけで、テレビのない僕はサッカーの試合も見ずに(見れずに?)、今日も深夜までラブレターの代筆を黙々と行う予定。今日の案件は本当に書き手の熱意がこもっていて、こちらもそれに応えなくては!という気持ちにさせられているのでした。

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