イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

いつの日か超人に

2009年02月10日 23時21分53秒 | 翻訳について
翻訳会社でコーディネーター兼チェッカーをしていたとき、社内で密かに「神」と呼ばれていた登録翻訳者の方がいた。たしか還暦を超えているベテランの男性で、ITをはじめとする技術系の英訳を専門にしていた。なぜ彼が神と呼ばれていたかというと、その英文の質もさることながら、おそろしいほどに仕事が早かったからだ。とても人間とは思えない速さで、訳文を仕上げてきてくれる。無理な仕事が次々と舞い込む翻訳会社にとって、彼ほど貴重な人材はいなかった。夕方に膨大な量の翻訳を発注すると、朝方にはファイルが上がってきている。午前中に膨大な量の翻訳を発注すると、夕方にはファイルが到着する。10枚、20枚、30枚...。彼にとって納期は彼の都合ではなく、こちらの都合で決められるものであることが前提にされているかのようだった。

電話で仕事を依頼するとき、彼の基本的なセリフは2つしかなかった。

「お安いご用です」と「なんとかしましょう」だ。

通常ならちょっと無理っぽい依頼内容でも、彼にかかればほとんど「お安いご用です」になった。頼むこちら側が冷や汗をかいてしまうほどに相当に無理な案件の場合、彼は少し間をおいてから「なんとかしましょう」と答えた。電話を切って、仲間うちで今回は2つのセリフのうちどちらだったかを報告して、彼の偉大さを称えた。あまりのすごさに、思わず笑ってしまうこともあった。そしてファイルは必ずといっていいほど、納期より前に送られてきた。納品ファイルが来た瞬間「もう来た!」とまた思わず笑ってしまうことも度々だった。そしてわれわれは神に感謝した。

もちろん、神とて万能ではない。どうしても無理な場合(そもそも彼だって別件を抱えているときがある)依頼を断られることも何度かあった。だが、僕のなかで彼に対する神話が色あせることはなかった。

以前にも書いたけど、ただ単に英文を日本語に置き換えるだけなら、それをできる人はたくさんいる。だけど、それを超人的に早く、そして上手くできる人は、めったにいない。めったにいないからこそ、その人の仕事には価値が生まれ、プロとして周りから認められるようになり、正当な報酬を得られるのだ。600ワードのプレスリリースを依頼されたとき、それを1日かけて翻訳しているようでは仕事にならない。できるだけ早く、そして上手く翻訳ができるようになることを意識して作業しなければダメなのだ。この人はすごいと依頼される側から思われるようにならなければダメなのだ。

たとえば、僕がサッカーボールを蹴る。オーストリア代表相手の試合で、直接FKが与えられたと思って蹴る。だか僕のキックにはなんの価値もない。誰も、そんなへなちょこシュートを観たいと思わないし、それに対して金を払おうなんて人はどこにもいない。僕の蹴るボールは、寒いグラウンドを、寒くかぼそく飛んでいく。僕の心も、通りがかりでたまたまそれを見た人の心も、寒くしながら。だが、それを中村俊輔が蹴るとしたらどうか。そこには無限の価値が生まれる。下手をしたら、日本中の人たちが息をのんで彼のキックに集中する。ゴールが決まれば、日本列島が沸騰する。youtubeで数百万人が繰り返しそのシーンを見る。なぜなら、彼が日本一のキッカーだからだ。ボールを蹴ることに価値があるのではない。うまく蹴ることに価値があるのだ。翻訳も同じ。翻訳をすること自体に大した価値はない。うまく翻訳してこそ、初めてそこに価値が生まれるのだ。どんな仕事であれ、それは同じだと思う。だからこそ、職業人たちは毎日倦むことなく自らの仕事を極めようと努力しているのだ。その気持ちを僕は忘れてはならない。

会社を辞める前、いつの日か僕も神(彼)のような存在になりたいと思っていた。圧倒的な仕事力で、依頼者をすら魅了してしまうほどの翻訳超人。フリーになる前に、いいお手本に出会えてよかった。あまりにも遠い存在だったけど、目指すべきひとつのモデルは、彼に違いないと思った。

もちろん、現在の僕は神ではない。一人前でないという意味においては、人間ですらない。類人猿には悪いが、せいぜい類人猿翻訳者といったところだろう。だが僕は目指している。超人になることを。真のプロとは、どんな分野においてもきっと超人と呼べる存在であるに違いない。超人になるには、超人的な努力が必要だ。その努力を続けられたとしても、凡人の僕が超人になるにはおそらく10年でも足りない。20年、否、もっとか。でも構わない。翻訳超人の道は、それほどまでに遠く険しいものなのだ。

もし超人になれたら、――同じ超人である筋肉マンの眉間に刻印された文字が「肉」であり、ラーメンマンのそれが「中」であるように――、その証として、眉間に「翻」の文字を刻みたいと思う。そして超人オリンピックに参加してみたいと思う。といいつつ、こんなくだらないことを書いている暇があったら仕事しろっつーの。

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2 コメント

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Unknown (enya)
2009-02-11 09:44:32
そういう人いらっしゃいますよねー!集中力もすごいんでしょうね・・そういう方にはいつも仕事をお願いしたくなっちゃいますよね。私もだんだん仕事始めたくなってきました。
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Unknown (iwashi)
2009-02-11 11:22:09
彼は相当のベテランの方でしたから、長年で培った技とう感じが伝わってきました。翻訳は経験を積めば積むほどうまくなるということかもしれませんね。その意味では、他の職業に比べて恵まれていると思います。お互い頑張りましょう!
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