おはようございます。新宿区神楽坂で研修&カウンセリングの事業を営む ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
6月9日、6月10日の2日間、ライバルが存在する喜びをテーマに記事を書いてきました(6月9日付けブログ、6月10日付けブログ 参照)。
スポーツ選手のライバル心の話題でしたが、このことを契機に私の少年期、青年期のライバルの存在を思い起しました。
私には、小学校5年生の時からM君というライバルであり知己がいました。
M君は、同じ町内で少年野球を共にしていました。
共に5年生でレギュラー、M君は背番号18のエース(当時ジャイアンツの藤田投手に憧れていた)、私はサードで背番号3(もちろん長嶋選手と一緒)の4番打者でした。
小学校6年生の時の健康優良児の選抜では私が勝利、M君は悔しがっていました。
中学に入って初めての身体検査では、M君は162センチ、私は161センチ。私の1センチ負け。
50メートル走では、私が7秒2、M君が7秒3で、私の0秒1の勝利。
共に迷うことなく野球部に入り、M君は1年生から背番号1のエース。私は肩を脱臼し、センターに周り背番号10。
ただし夏の栃木県の大会に進出した第一試合は、私が先発し、M君がリリーフし、私が勝利投手。
中学2年生の時は、私は背番号8になり、不動の4番打者。M君はエースでありながら3番、あるいは5番を打っていました。
私は時々、リリーフをやっていました。
学力では、小学校の頃から中学3年の途中までM君の後塵を拝していましたが、共に学級委員。
高校は、M君は野球を続けるため作新学院に進学、私は県立高校に。
進んだ高校は違っても、しょっちゅう会っていました。
大学は同じ大学の違う学部に進み、安アパートを2人で探し、2年間2つの部屋を共有していました。
M君は野球部に入部したのですが、当時、矢沢、荒川という花形選手がいたので、M君は数カ月で退部しました。
大学卒業後、彼は郷里に戻り、私は東京の会社。
この時以来離れ離れとなりました。
私のカミさんとの結婚披露宴でのM君の祝辞の第一声を今でも忘れられません。
「私は岩井君と2年間、同棲していたのです」
こう書いてみると、私の青春はM君の存在によって彩られていたのです。
今では、連絡を取ることがなくなっていて、10数年会っていませんが、M君の存在は、ライバルとして、青春の時の共有者として心の中にほのぼのと残っています。
M君、ありがとう。
君と積もる話を語り合いたい。
<お目休めコーナー> 6月の草花(12)

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