おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
第65回目の終戦記念日が間もなくやって来ます。 それにちなんで、部分的にしか知られていない、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見秘録を紹介します。
東京・広島間の新幹線の往路で読んだ、と私が昨日書いた『人生、良いも悪いもどんとこい!―明るくなければ人生じゃない』(佐々木の将人、KKロングセラーズ) に書かれていた一節です。
降伏文書に調印した時の外相の重光葵氏が、マッカーサー元帥が解任された後に、米国を訪れた際のマッカーサー元帥の談話で「昭和天皇のマッカーサー元帥会見秘録」です。
以下は、マッカーサー元帥が重光葵氏に語った内容で、讀賣新聞に掲載されていたようです。
初めて(天皇陛下に)お出会いしたのは、東京の米国大使館内であった。 どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。 しかるに実に驚きました(Much to my surprise)。
陛下は、戦争責任の問題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。 これにはびっくりさせられました(to my utter surprise)
すなわち、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。 また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対して直接に責任を負います。 自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない(go ahead)。 私は全責任を負います」 これが陛下のお言葉でした。
私は聞いて興奮のあまり、陛下にキスしようとしたくらいです。 もし国の罪をあがのうことができれば、進んで絞首台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官として私の尊敬の念は、その後、ますます高まるばかりでした。
この本には、次のようなことも書かれていました。
天皇陛下はマッカーサー元帥に、飢えに苦しむ国民のために食糧援助をお願いし、陛下自身は、一汁一菜の粗食であり、東京オリンピックの昭和39年まで「まだ早い、まだ早い」と地下壕で生活されておいでだったという。
気骨があった昭和天皇が偲ばれます。
「雑草といふ草はあらずといひたまひし先(さき)の帝(みかど)をわが偲ぶなり」 (平成13年の歌会始で正仁親王妃華子殿下が昭和天皇を偲んで)
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