おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
ユング派の分析家のジェイムズ・ホリスの『ミドル・パッセージ―生きる意味の再発見』(コスモス・ライブラリー、1,600円+税)を読んでいたら、次の文章に出合いました。
ミドル・パッセージは、人生行路上の時間軸に沿ったひとつの出来事というよりは、心理的な経験である。「時間」を表すふたつのギリシア語、クロノス(chronos)とカイロス(kairos)がこの違いを説明するのに適切である。
クロノスが連続的で一直線上の時間であるのに対して、カイロスは奥行きをもった次元で示される時間である。
「クロノス」と「カイロス」については、6月13日のブログで紹介したアルフォ ンス・デーケン先生(上智大学名誉教授)の『よく生き よく笑い よき死と出会う』(新潮社、1,400円+税)にも出ていて、デーケン先生は、次のように書いています。
クロノスは、いわば時計の針が刻む量的な時間です。一方のカイロスは、1回限りの独自で質的な「時」を意味します。「大切な時、決定的な瞬間」のことです。
人生には、折に触れて、いろいろなカイロスが訪れます。一度だけで二度とこないチャンスです。
こうして2人の説を読んでみると、人生には、量的な「時間」(=クロノス)と質的な「時」(=カイロス)があるようですが、私には、人生後半の奥行きをもった次元で示される時間、「大切な時、決定的な瞬間」、質的な「時」である「カイロス」の持つ意味ががとりわけ充実感を持ちます。
ここで話をホリスに戻しましょう。
彼は、人生半ばの通り道の「ミドル・パッセージ」に関して「はじめに」でこう書いています。
ミドル・パッセージは、自分の人生を再検討する機会を提供し、次の疑問を投げかけてくる。
時にぎょっとさせられる、しかしつねに解放をもたらすその問いは、「今までやってきたことや、演じてきた役割を別とすれば、一体私は何者なのか」というものである。
自分がこれまで偽りの自己(a false self)ともいえる人生を生きてきたこと、非現実的な期待に駆られるまま大人というものを演じてきたことに気づいたとき、第2の成人期、すなわち真の人生を生きられる可能性が開かれる。
「偽りの自己」とは・・・・。ああ、イタ・タ・タ・タ
<お目休めコーナー> 柱にも映った花