多賀大社

2017年12月13日 | 日記

さて、高月から目指した最初の目的地が多賀大社です。

先に距離的に遠い西明寺を回り、戻り工程の中での立ち寄りとなります。

 

檜皮葺の屋根が重厚で、とても落ち着きのある美しい神社です。

滋賀県の中では一番の神社ではないでしょうか。

多賀町というくらいで、町全体はとても小さなところです。

大社自体は国道から少し横道に入ったところにありますので、大社を知らない人は通り過ぎてしまいそうです。

 

と、思うのですが、よく調べていませんが、元々はこの大社前を旧道が通っていたのかなと考える方が妥当かも知れません。

お宮の前は、お土産屋さんが並ぶ通りがあります。

この通りが、もともとの道かも??

 

西日本のお宮というと、まず伊勢神宮と名が上がりますが、この多賀大社は伊勢神宮の親神宮といわれます。

 

多賀大社は、御祭神としてイザナギ、イザナミの祭神を祀っています。

この二柱は古事記によると、日本で最初の夫婦の形式をとり、数々の神々を産み出していきます。

 

そこで、伊勢神宮の御祭神である天照大神はこのイザナギ、イザナミの子供となります。

そこで、多賀大社は、伊勢神宮の親神宮となります。

 

昔の話に「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」とあります。

 

お参りをすると、お守りとして「しゃもじ」授ける「お多賀しゃくし」という習慣があります。

これが訛ったのが、オタマジャクシとか。

 

ちょうど七五三の時期でもあり、菊で文字を書いた記念撮影の場所を作ってありました。

 

絵馬堂には、有名人の絵馬が所狭しと飾られています。

大勢の人たちが参拝に訪れているようですが、さすがにお伊勢さんの親です。

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赤玉神教丸

2017年12月11日 | 日記

さてさて、湖北から湖東まで結構な距離ですが、高月から小谷山を経由し戦国大名浅井の城下町を通りました。

近江を制する者天下を制するといわれた戦国ですから、信長に反旗を掲げた浅井に小谷山の真向かいになる虎御前山に織田軍の精鋭が陣を張り圧力をかけたようです。

後に浅井三姉妹に絡む秀吉軍も虎御前山に陣を張っておりました。

小谷落城はよくドラマ化されますが、小谷山とは意外と近い距離にあります。

落城後城下の地名の殆どが長浜で使われたようですが、ご存知のように長浜は秀吉の城下町ですので、この地名変遷も何となく頷けるところもあります。

このような訳なのか、小谷は当時の城下町らしき面影は殆ど残していないようです。

 

話を戻しまして、湖東へは長浜サイドを通り彦根を抜け西明寺までのルートです。

滅多にない機会ですので国道を使わずに、醒ヶ井から中仙道に入り旧街道を行くことにしました。

中仙道は、お江戸日本橋から木曽路を通り京都三条までの街道ですが、今回はそのほんの一部、醒ヶ井、番場、鳥居本の3宿場を通り国道から多賀町へと抜けます。

 

中仙道の途中で、珍しい老舗を見つけました。

赤玉神教丸の製造元です。

 

私の田舎の昭和の前期は、現在のように街中に薬局があるような状況ではありませんでした。

当時都会といわれた、大きな町以外は殆ど同じ状況ではなかったかと思います。

そこで、当時は富山の薬問屋からの行商人が、置き薬として家々を回っていました。

その置き薬の中に「赤玉」がありました。

当時は、お腹の薬として、腹の調子がよくないといえば、親がよくこの赤玉を出して飲まされたものです。

 

富山の行商人もここからの仕入れと今回伺いました。

地元の方は、ご存知なのでしょうが、現在も健在で商売を商っているようです。

 

明治天皇が鳥居本への行幸の際、休憩所にもなったとの事です。

それにしても、懐かしい薬を思い出しました。

赤玉は土産に数箱買い求め持ち帰りとなりました。

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急遽 湖東三山西明寺へ

2017年12月10日 | 日記

己高閣から小谷城跡を通り急遽湖東三山の西明寺まで足を延ばす事となりました。

湖北から湖東へは考えていなかったのですが、連れが多賀町の多賀大社を参拝したいとの事で、多賀大社までならほとんど隣になる西明寺までとなりました。

 

紅葉に時期でもあり随分と人出がありました。

幾度か訪れましたが、いつもは早朝の開門すぐの参拝でしたので、これだけの参拝客に出会うのは初めてでした。

仁王門前は結構な階段になっていますが、湖東三山の中で一番階段の数が少ないお寺です。

門前の景色もこの西明寺が一番整っているように思います。

 

本堂に入ると、いつもの通り説明員の方が、十二神像の頭に付いている干支の説明をしています。

いつもと何か雰囲気が違うなと瞬間に感じましたが、もしやと思った悪い予感が的中しました。

 

西明寺の本尊は秘仏で通常は開帳していません。

が、西明寺を訪れる目当ては、本尊様ではありません。

 

本堂の裏側に置かれている、快慶作の阿弥陀三尊像で、鎌倉時代の作品といわれています。

この三尊像が、何故国宝でなく重要文化財なのか不思議でもあります。

長年仏教美術としての仏像も見てきましたが、この仏像が今まで見てきた中で素人なりに最高傑作と思っています。

 

2年ほど前に訪れた時に、説明員の方が東京から毎年この仏像を拝観に来る方々がいると云っていましたが、これも納得できるほどの仏像です。

 

ところが、近年寺院での落書き、油かけなどの悪戯が続き、文化庁から人の多く出る季節には拝観させてはいけないとのお達しがでたとかで見る事ができませんでした。

 

いわばこの仏像見たさに、湖北から湖東の西明寺まで行ったのに、なんと理不尽な事でしょうか。

もう一つ、人出の多い季節にこのお寺を訪れる参拝客は、残念ながらこの素晴らしい仏像がある事すら知る事もできずに参拝を終え帰路につくことになります。

なんと不幸な事でしょうか。

それでも今回は、三重塔の壁画が公開されていましたので、運よく見る事ができました。

かなり歴史のある壁画で、貴重な事は一目でわかりましたが、説明が系統だったところから少し離れ、入場者が有る毎に元に戻りランダムであり、分かりづらかったのは残念でした。

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湖北 鶏足寺から己高閣へ

2017年12月09日 | 日記

今回は鶏足寺から己高閣へと向かいます。

己高閣はもともと己高山(こだかみやま)に創建された寺院になります。

前回で書きそびれましたが、現在の鶏足寺は旧飯福寺と示されているように、鶏足寺の別院であった飯福寺のようです。

鶏足寺の前身は、行基が常楽寺という寺を十一面観音を本尊として創建したことに始まります。

この常楽寺は次第に荒廃してしまいますが、その後最澄が己高山に入った時、雪に残る鶏の足跡に導かれ十一面観音の頭の部分を発見し、観音像を復元、再興したことからこの変わった名前がついたようです。

 

さて、滋賀県での寺院の代表は比叡山延暦寺ですが、己高山はこの叡山よりも古い歴史を持つ信仰の聖地とされていたようです。

鶏足寺から己高閣へは1Km弱程ののどかな山道を行きます。

 

意外ですが、この辺りはお茶の栽培が行われているようです。

大々的なものではありませんが、周辺の案内板に茶畑と並んで薬草畑が描かれているところを見ると、その昔は案外とお茶も薬草として扱われていたのかも知れません。

この散策道は、本当に心をゆったりとできる気持ちのよい山道です。

散策道を半分ほど行くと、山が開けてこれまた気持ちのよい平地が広がります。

周りを眺めながら進むと、野菜やら木の実などを並べた無人の露店が幾つか置かれています。

何かと世知がない世ですが、この様に信用商いが出来るのは眺めていて気持ちがいいものです。

現在の己高閣はこの平地を行くと、少し高台の丘の上にあります。

ただし、名前こそ己高閣となっていますが、外見は明らかに収蔵庫といった感じです。

 

周りは与志漏神社の境内かと思うのですが、この境内に薬師堂、大日堂が置かれていますが、これは神仏習合と見たほうがいいのかもしれません。

この己高閣に鶏足寺関連のものが保管されています。

記録では、鶏足寺は昭和になって一度火災に遭っていますが、幸い本尊様はじめ寺宝は、与志漏神社や己高閣に移され保管されていたため消失を免れたようです。

ここまで紹介してきたお寺の仏像の数々は、撮影禁止のため本ブログ上での写真はありません。

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湖北 鶏足寺

2017年12月07日 | 日記

石道寺横手の小高い丘を登り、少し下ると右手に長い参道が目に入ってきます。

滋賀でも数少ないとされる紅葉の中で、指折りの名所となる鶏足寺参道です。

 

「観音と薬師の里 古橋周辺案内図」という看板があったので掲載しておきます。

この案内板を見ると位置関係が分かりやすいと思います。

調べてみると、鶏足寺はもともと飯福寺というお寺が前身で、724年の創建で開基は行基となっています。

行基というと、吉備真備と共に奈良東大寺の大仏開眼を行ったことで有名ですが、その当時のお寺ということになります。

室町期には湖北の仏教文化の中核をなしたとありますので、相当に歴史のあるお寺のようです。

 

山中にあって、広く開けた敷地に、現在でもその名残は十分に見て取れます。

ただ、このような場所(地理的によくない)ゆえに逆に衰退もはやかったようです。

 

鶏足寺のこの時期は、参道の紅葉模様がみどころです。

今年は寒さが早かったので、11月下旬ではピークから少し遅れたようです。

桜は時期がずれてもそれほどの影響はありませんが、紅葉は見え方にかなり違いがでるようです。

やはりちょっと遅かったかな?といった感じです。

 

参道を登って行くと高台に本堂があるようですが、私どもはこの位置から次の目的地となる己高閣へと向かいます。

前回、白州正子の「かくれ里」を思い出し、ふと書き込みましたが、待てよと思い確認してみますと、驚いた事に、知らず知らずに白州正子が歩いたところをなぞっているようでした。

湖北は観音の里といわれますが、正子は湖北を次のように位置付けているようです。

「湖北とはいうまでもなく、琵琶湖の北をさすが、はっきりしたことはわからない。が、西は比良山をはずれて安曇川を渡る頃から、東は竹生島が見え隠れするあたりから、琵琶湖の景色は確かに変わってくる。空気が澄んで透明になり、伊吹山は南からみるのとまったく違う山容を現し、北国めいた風景になる。」

そして、司馬遼太郎の「街道を行く」で初刊は、湖西の道であり、西近江路の安曇と朽木街道から始まっています。

湖西、湖北と奥琵琶湖には、どこか人を引き付ける魅力が隠されているようです。

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