滋賀県 東近江市五個荘川並町 乾徳寺宝篋印塔ほか
臨済宗浄光山乾徳寺は観音寺山(繖山)の東麓、山頂付近にある観音正寺のちょうど真東、直線距離で約1㎞の場所に位置する。お寺のある山麓周辺は楓の木が多く紅葉公園として親しまれており、楓と苔が静寂な風情を醸し出す趣きのあるの境内である。石段を登り山門をくぐると正面に本堂があり、向かって左手、鐘楼の南に境内墓地がある。墓地の東端に宝篋印塔が立つ。これが昭和45年、佐野知三郎氏が『史迹と美術』407号に公表され世に知られるようになった著名な宝篋印塔である。相輪を失い空風輪と火輪を一石で作った小型の五輪塔が代わりに載せてある。表面に苔があまり見られず白っぽい花崗岩の石肌が鮮やかな印象を受ける。笠上までの現存高約118cm、相輪があれば約180cm程の6尺塔と推定される。基礎は平面正方形でなく南面と北面で幅約58cm、西面と東面で幅約61cm、側面高約38cmと割合背が高い。しかし佐野氏の発表の翌年に発行された『民俗文化』88号の田岡香逸氏の報文によれば下端から約6cmは未整形で地表下に埋める前提であったと思われ、幅に対する側面高としては6cm差し引いて考えるべきとの見解が示されている。したがって初めから台座などは伴わず直接地面に基礎下端を少し埋け込んで据えられていたと推定することができる。上端は二段式で各段とも比較的高くしっかり彫られている。基礎側面は方形に枠取りした輪郭内に格狭間を入れ、格狭間内を各面ともよく似た意匠の三茎蓮のレリーフで飾っている。格狭間は花頭部分が水平方向によく伸び側辺の曲線もスムーズで古調を示している。南面の左右の束に「右為慈父沙弥西仏」、「永仁五年(1297年)丁酉七十三□□/□□」の刻銘があるとされる。永仁五は肉眼でも確認できるが下方は確認しづらい。七十三は月日を略した表現で、7月13日である。三茎蓮の図案はいずれも左右ほぼシンメトリで茎が大きく湾曲して葉が下を向き中央茎は未開敷蓮花、つまり蕾としている。輪郭、格狭間ともに彫りが浅い。塔身は舟形光背を彫り沈め四方仏座像を半肉彫する。像容はやや上方に偏って光背上端に頭がつっかえる程だが下方に蓮華座は確認できない。西側に定印の阿弥陀像があるのが確認できる。高さ約29.5cm、幅約29cm。笠は上六段下二段。笠下の二段は笠上の六段に比べ薄い。軒幅約54cm、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がる隅飾は三弧輪郭式。8面とも輪郭内に円相を平板陽刻した中に通有種子のアを陰刻する。あるいは胎蔵界大日如来であろうか。相輪の亡失が惜しまれるが、各部のバランスがよく、意匠表現も丁重で手堅い手法を示す。また、石材の特性かもしれないが全体に表面調整はやや粗い感じがあり白っぽい色調とあいまって独特の趣きがある。さらに墓地の南端には宝篋印塔の基礎の上に五輪塔の水輪を積み、さらに宝塔の笠を載せた寄集塔がある。最上部には小さい五輪塔の火輪以上を載せている。三種類の石塔のハイブリットながら何となく全体に釣り合って見えるのは面白い。いずれも花崗岩製でよく見ると風化の度合いが違う。宝篋印塔の基礎は幅約68cm、側面高約34cm。上二段で永仁塔よりひとまわり大きく、幅に対する高さが低い。各側面は輪郭格狭間式で格狭間内は素面。彫りが浅いのは永仁塔と同様で、左右の束の幅がかなり広い。こうした特長は永仁塔と同時期かむしろ古調を示すものである。下端はやはり不整形で台座などを伴わなかったものと推定できる。五輪塔の水輪は高さ約48cm、径約55.5cmでやや裾すぼまり感があるが背が低く側線はスムーズで四方に「バ」の四転、「バ、バー、バン、バク」の梵字を浅く大きめに薬研彫している。これらの特長は、近くにある金堂馬場の五輪塔(正安二年(1300年)銘で近江在銘最古の五輪塔)よりも古調を示す。宝塔の笠は軒幅約56.5cm、高さ約38cm。頂部に露盤と四注の隅棟の突帯を刻出し、笠裏に二段の垂木型ないし斗拱部を表現する段形が見られる。軒口がやや薄く少し隅増しのある軒反で温雅な雰囲気があり、鎌倉時代末から南北朝初め頃、概ね14世紀第2四半期頃のものと思われる。さらに墓地の北西隅にも宝篋印塔の基礎がある。側面は壇上積式で四面とも格狭間内に開敷蓮花のレリーフを入れる。幅約42.5cm、下端がコンクリートで固められ確認できないが地表高現状で約28cm。上二段で羽目と格狭間の彫りが深く、その分開敷蓮花の突出が目立つ。また、上端面にあるべき枘穴があるようには見えない。佐野、田岡両氏の報文の写真では昭和45年当時、寄集塔の宝篋印塔基礎と五輪塔水輪の間に挟んであったようである。だいたい宝塔の笠と同じ頃のものではないだろうか。これらはどれも寄せ集めや残欠であるが、それぞれに古い特長や優れた手法を示す注目すべき遺品である。この墓地、あるいはここからそう遠くない場所に少なくとも13世紀末から14世紀中葉頃にかけての宝篋印塔が永仁塔の外に2基、さらに五輪塔と宝塔が1基づつ存在したことを示している。
参考:佐野知三郎「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号
田岡香逸「近江川並の乾徳寺の石造美術」『民俗文化』88号
川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
池内順一郎『近江の石造遺品』(上)
佐野知三郎氏も指摘されるように、旧八日市の永仁三年(1295年)銘の妙法寺薬師堂塔とは年代的にも地理的にも近く、規模もよく似ているにもかかわらず、隅飾や基礎の格狭間などの意匠表現に際立った相違点があり、両者を比較検討することは13世紀末頃におけるこの地域の宝篋印塔のあり方を考えるうえで興味深いことですよね。これに対し、田岡香逸氏は報文中で佐野氏を厳しく非難し「一体全体、何が興味深いのか読者に理解できるだろうか。こんなあいまいな主観的表現は、無意味というだけでなく、百害あっても一利なしというべきである。もっと具体的で、客観性の豊かな表現に努め誰でもが安心して利用できる資料を紹介すべきであろう。」と書かれています。情熱の裏返しだと思うのですが田岡氏にはしばしばこのての過激な非難癖があり、せっかくの業績に疵を残す結果になっていることは残念なことだと思います。池内順一郎氏も田岡氏のこの「悪癖」について、わざわざ1ページを裂いて列記され「次のことばを戒めとして書き留めおく。登高使人心曠、臨流使人意遠(菜根譚 後集百十三)、多言は敗多し(孔子家語 観周)」と締めくくっておられます。蓋し名言です、ハイ。