石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

2009-08-03 01:27:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市北桜 多聞寺宝塔

近江富士、三上山の南東麓、山裾に抱かれるようにして北桜の集落がある。集落のほぼ中央に位置するのが浄土宗不老山多聞寺である。01境内東側、本堂向かって右手の墓地北端、ブロック塀に囲まれた一画に小柄な石造宝塔が立っている。延石を並べて周囲より一段高く区画し、その中に平面方形の低い一石からなる切石の台石基壇を設けているが、この基壇は当初からのものか否かはわからない。02さらに背後に平らな自然石を屏風状に立てかけている。塔本体は基礎から相輪まで揃っており、花崗岩製、高さ約125cm。基礎は幅約38cm、高さ24.5cm。側面は紙面とも薄めの輪郭を巻き内に格狭間を配している。西側正面のみ格狭間内に三茎蓮のレリーフが見られる。中央の茎部分が不自然に膨らみ下端には逆台形がある。はっきりしないがこれは宝瓶を表現したものと思われる。この外の3面は格狭間内素面である。塔身は高さ約34cm、軸部、縁板(框座)部、匂欄部、首部を一石で彫成する。軸部は最大径が高い位置にあり、肩の張った下すぼまりの形状を呈し、正面だけに鳥居型を薄く陽刻している。縁板(框座)部は比較的厚く、匂欄部、首部と径を減じていく。笠は軒幅約36.5cm、高さ約25cm。笠裏に2段の斗拱型を刻み出している。軒口は薄く隅近くで厚みを増しながら反転する。四柱の隅棟は断面凸状の突帯があり露盤下で左右が連結する。笠頂部には幅約14cm、高さ約3.5cmの方形の露盤を設けている。相輪は高さ約40.5cm。伏鉢が円筒状に近く、下請花は複弁八葉で九輪下端との径の差が少なくメリハリがない。九輪の彫りは浅く凹凸がハッキリしない。上請花は風化が進み花弁が明確でないが単弁のように見える。上請花、先端宝珠は全体に平らな形状で側面に直線的な硬さがある。紀年銘などは見られないが田岡香逸氏は肩張の塔身や相輪の硬い感じなどから1335年頃のものと推定されている。全体の規模の小ささ、肩が下がりぎみの格狭間の形状、縁板から首部にかけてのやや野暮ったい感じなども考慮すると、田岡氏の推定よりもなお時期が下る可能性もある。概ね14世紀中葉頃から後半にかけてと考えて大過ないだろう。細部の表現に退化傾向が認められるものの、全体としては各部の均衡のとれた手堅い手馴れた感じの作風で、何より基礎から相輪まで揃っている点は貴重である。

参考:田岡香逸「近江野洲町の石造美術(後)―北桜・南桜・竹生―」『民俗文化』103号

このほか、境内には多数の一石五輪塔に交じって14世紀代の宝篋印塔の笠、五輪塔や層塔の残欠が見られます。また門前の小堂内には大永2年銘の完存する宝篋印塔があります。これらはまた別の機会にご紹介します。

どうでもいいことなんですが、参考にした『民俗文化』103号の田岡氏の報文に「定形式が進んだものとはいえ、なお、よく整備形式を留めているこの塔の構造形式を室町中期も終りに近い大永2年に比定しているのは、言語道断というべきである。」として卯田明氏を批判というより非難されていますが、いくらなんでも「言語道断」というのは言い過ぎだと思います。文章を読んだ人の心象が悪くなって田岡氏が損をするだけではありません。こんなことを言われたら地道に取り組む地域の研究者がやる気をなくして筆を折ってしまいますよ。板碑の権威、服部清道氏も若い頃はそうだったらしいですが、それで板碑の研究がしばらく停滞しまったそうです。むろん井の中の蛙でもダメですが、逆に一将成って万骨枯るようなことでは、いつまでたっても裾野は広がらないと思います、言い方ひとつのことなんですが、ま、余談でした。