石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

2010-09-04 23:44:58 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジの北約250mにところに妙法寺町の会所がある。すぐ南には光林寺の山門があり会所の西側の広場には袴腰付の鐘楼か太鼓楼のような面白い建物がある。01_2元は薬師如来の古仏を祀る薬師堂が会所に利用されたようで、会所の南側、辻に面して道路より一段高く周囲を石積みにした一画があり、その上に小祀や石仏などとともにこの立派な宝篋印塔が祀られている。02昭和40年、光林寺の宝篋印塔の調査に来た川勝政太郎博士らにより偶然見出され、『史迹と美術』誌に発表されて以来広く知られるようになったものである。花崗岩製で塔高約204cm、全体に表面を粗叩き風に仕上げている。基礎は上二段で各側面ともに輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。輪郭の彫りがかなり浅い。また、左右の束部分の幅が広く、格狭間左右端と輪郭の内際との間もやや広めにしているので、横幅のある基礎側面の割りに格狭間は少し寸詰まったような観がある。肩はあまり下がらず脚間が狭い。基礎幅約67.5cm、高さは約49cm、側面高約39cm、基礎下端が不整形で測る場所により数値が違う。基礎下端の状況から基壇や台座を伴わず直接地面に埋め込んでいたと推定される。塔身は幅約32.5cm、高さ約35cmと高さが勝る。西側面のみに高さ約26cm、幅約16.5cmの舟形光背形に彫り沈めた中に像高約23cmの定印の阿弥陀仏座像を半肉彫りしている。03蓮華座があるとの記述もあるが肉眼では確認できない。像容はやや頭が大きく表現は少々稚拙ながら親しみの持てる優しい表情が見て取れる。残りの3面は素面で各3行の刻銘に当てている。像容面の向かって右に「永仁参年乙未」、左に「二月十九日」、北面に「右志者為過/去幽霊成/佛得道石」、東面に「塔一基造/立之仍當國/吉田四良次郎西円」、南面に「安主野神/雑賀三ヶ所/寄進也」と川勝政太郎博士により判読されている。04_2文字は大きいが特異な字体で判読に苦心したと川勝博士も述べておられる。肉眼でも紀年銘などところどころ読める。永仁三年(1295年)2月19日、西円という法名を名乗る吉田四良次郎なる人物が願主となり近親と思われる物故者の供養のためにこの塔を造立し、安主、野神、雑賀の三ヶ所の田地を寄進したとの趣旨である。笠は上六段下二段、軒幅約61cm、高さ約52cm。隅飾は一弧素面、軒と区別しない延べづくりで真っすぐ立ち上がり基底部幅約18.5cm、軒下からの高さ約33.5cmを測る長大なもので古風な様相を示す。相輪は高さ約66.5cm。九輪の5輪目の上で折れている。05昭和40年頃には上半のみが残り下半は行方不明であったらしくその後下半部分も発見されてうまく接いである。上下とも請花の花弁が確認できない。浅い単弁の蓮弁が彫ってあったものが風化摩滅した可能性も残るが、川勝博士は古い手法と解されている。九輪の逓減は顕著でなく太い沈線で各輪を区切る。この九輪の手法は日野町北畑八幡神社塔や近くの光林寺塔と共通する。ただし、これらの相輪に比べると全体的にやや粗製の感は拭えない。塔身の阿弥陀如来や願文の内容を踏まえれば、川勝博士が指摘されるように宝篋印塔という密教系のスタイルを採用していても、造塔の趣意は浄土系信仰に基づくものと考えられる。なお、寄進された造塔供養料田の3ケ所の地名を比定できるには到っていないようであるが、造立供養料田寄進の刻銘は竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔にも見られこうした石塔造立の背景を考えるうえでたいへん興味深い。吉田四良次郎西円については在俗出家した富裕層、在地有力者であろう。川勝博士は愛知川を隔てた現在の犬上郡豊郷町付近、かつての愛知郡吉田庄に拠を置いた佐々木氏の支流とされる吉田氏ではないかと推測されている。また、妙法寺町という地名から何らかの寺院の存在が想起されるが残念ながら詳しいことはわかっていない。この薬師堂が地名の由来になったと思われる古い寺院の後身ではないかとも推定されており、隣接する光林寺にも前身を妙法蓮花寺といったという伝承が残る。ともに平安後期の古仏を本尊とし、鎌倉時代後期の宝篋印塔が残ることを考慮すれば、立派な宝篋印塔を造立し供養料田を寄進する藤井行剛や吉田四良次郎のような在地有力者の崇敬を集めるだけの寺勢を誇った古寺がこの付近にあったと考えることができるだろう。それが「妙法寺」の地名の由来になったと考えても不都合はないだろう。身近にあって物言わぬ石造物は、幾百年もの間、地域の移り変わりを見てきた生証人として時に失われた中世の歴史を紐解くヒントを与えてくれるのである。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」『史迹と美術』356号

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25

 

これも川勝博士が注目されて以来たいへん著名な宝篋印塔で、今更小生がとやかくいうようなものでもありませんが、光林寺塔を紹介してこちらをご紹介しないわけにはいかないと思い駄文を弄する次第です。例によって文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。さて、どちらも原位置を保っているという確証はありませんが光林寺の宝篋印塔とは直線距離にして50m余しか離れていません。造立の時間差はわずか11年です。距離も造立時期も近い両塔ですがその作風はずいぶん異なるように思います。本塔の一弧素面の長大な隅飾や基礎の作り方は古いスタイルを踏襲しているようで細部を見てもあまり装飾的でなく、むしろ少し野暮ったい感じがあります。一方の光林寺塔はシャープで装飾的、たいへん洗練された趣きを示してします。同一の石工の手になるとはちょっと考えにくいのですがどうでしょうか。この作風の違いを地域の違いや時期の違いで説明するのはちょっとムリなので、この付近では13世紀末から14世紀初頭のこの時期に異なる系統の石工(厳密にはその“作風”)が共存しあるいは競合していたと考えるほかないと思われますがいかがでしょうかね。それから旧愛知郡の吉田氏ですが、佐々木秀義の息子で宇治川の先陣争いで著名な佐々木四郎高綱の弟に当る吉田冠者六郎厳秀を祖とするとされ、降って室町時代には弓術師範として佐々木本家の六角氏に仕え、その頃の本拠は現在の竜王町付近だったらしいです。なんでもその吉田家の弓術は日置吉田流と呼ばれ近世弓術の主流だったんだとか、戦国末から江戸初期の京都の豪商、角倉了以もその末裔だと伝えられているそうです。吉田某という刻銘だけでそこまで考えるのは所詮憶測の域を出るものでなく牽強付会ですがいろいろ興味は尽きませんね。流石に川勝博士は可能性を指摘しておられるだけで吉田冠者がどうだとか日置吉田流や角倉了以が何だとかそんなことまで述べておられるわけではありません。事実と想像の境を見失わないことは大切ですが、あれこれと”空想”を膨らませるのも石造の楽しみです、ハイ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。