滋賀県 蒲生郡竜王町島 八幡神社宝塔
竜王町の中央、役場や苗村神社のある綾戸の北西にあるのが島で、県道541号から西に入って集落を抜けると、北側の水田の中の一画に石造物が集積されている場所がある。もとは集落東方の八幡神社のお旅所があったところとされ、川勝博士の紹介文には「道端の木立の下に島の八幡神社に属する宝塔が見える」とある。今は水田の中にぽつんと取り残された小さな蕪荒地である。昭和47年の田岡香逸氏の報文では、既に現在と同様水田中にあることがわかる。また、ここは古屋敷、堂田という小字らしく、池内順一郎氏は往昔、ここにお堂があった可能性を指摘されている。小形の五輪塔の部材や石仏、一石五輪塔に囲まれ石造宝塔が中央に立っている。基礎は半ば地面に埋まり、相輪の先端を欠いた状態での現在高約150cm、花崗岩製。地面に埋まっている基礎の下半はハッキリ確認できないが、各側面壇上積式とし、羽目部分に格狭間を配し、北面のみ三茎蓮、残り3面は開敷蓮花のレリーフを格狭間内に刻出する。格狭間はかなり肩が下がった形状を示す。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)で仕切られている。軸部はやや下すぼまりの円筒形で、下端と亀腹部の曲面との境に平らな突帯を鉢巻き状に回らせ、その間に四方の扉型を薄い突帯で表現している。亀腹の曲面部は狭く、高い突帯で縁板(框座)を円盤状に刻みだし匂欄部の段形をつけずに素面の首部に直接つないでいる。首部は大きく、下が太く上が細い。西側の扉型の左右の扉面と北側の扉型間のスペースに4行にわたり「正和五年(1316年)/丙辰十月廿五日/一結衆造立/之」の刻銘が肉眼でも確認できる。笠は笠裏に2段の垂木型を設けている。軒口はあまり分厚い感じは与えず、上端の軒反に比して下端が割合平らになっている。四注隅降棟は断面凸状の三筋の突帯で、露盤下で左右が連結する。頂部には露盤が方形に立ち上がる。相輪は九輪の7輪目までが残り、それより上部を欠いている。伏鉢は側辺にさほど硬さもなくまずまずの曲線を見せ、下請花は複弁で九輪の凹凸もやや彫りが浅いがそこそこはっきりしている。全体に表面も風化も少なく、シャープな感じの彫りがよく残っている。苔もほとんどみられず緻密で良質な花崗岩の白さが、さえぎるもののない周囲の広い水田と遠くに望む丘陵の風景によく映えて眩しいくらいである。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 115ページ
川勝政太郎 『近江歴史と文化』 134ページ
池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 215~216ページ
田岡香逸 「近江蒲生郡の石造美術―竜王町・近江八幡市―」『民俗文化』109号
計測値における若干の誤差はやむないものとして、田岡香逸氏、池内順一郎両氏によれば基礎下端から相輪残存部の頂までの高さを約165cm程度と報じられてますが、川勝博士は高さ195cmとされており、約30cmの差は謎です。そばに相輪先端部分が転がっており、(写真左下参照)195㎝というのはこれを含めた計測値なのかもしれません。ただ、この相輪先端部は大きさや形状、石材の質感、概ね適当なものですが、なぜか接合面が整合しないのでやはり別物か、不整合を補う小破片が亡失している可能性があります。ここ竜王町も見るべき石造美術の豊富なところ、わけても宝塔が比較的多いところです。写真右上:ポツンと水田中にまさに島のように取り残された土壇に立つ宝塔。写真右下:銘文がおわかりでしょうか…。撮影日時が異なるので、写真の色調がずいぶん違っちゃってますね、すいません。ちなみに重要文化財指定、流石です、ハイ。