石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

2012-03-28 23:40:18 | 宝篋印塔

滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その2)

国宝の多宝塔(最近修理が終ったばかり、伸びやかな軒やメリハリの効いたプロポーション、素晴らしいの一語に尽きます・・・)のすぐ西側に一段高く生垣で区画された一画がある。ここに2基の宝篋印塔が東西に並んでいる。06_5源頼朝と彼の乳母の亀谷禅尼の供養塔と伝えられる。01_2どちらが頼朝でどちらが亀谷禅尼のものか、またなぜそのように伝えられているのかについては詳しくないが、頼朝らが活躍した時期までは遡るものではない。どちらも延石を方形に組み合わせた基壇を地面に設え、その上に建つ。これらの基壇が当初からのものかどうかは不詳だが、サイズや見た目の質感からは一具のものと考えて特に支障はなさそうである。どちらも基礎から相輪まで揃っており、ともに花崗岩製。同じくらいの規模でよく似た印象であるが、よく見ると細部の意匠が異なっている。東側、つまり向かって右側、多宝塔寄りの方は高さ約147cm、基礎上複弁反花で、四隅と側辺中央に主弁を置き、主弁間に大きい小花を配する。側面は壇上積式で四方の羽目部分に格狭間を入れている。格狭間内は開敷蓮花のレリーフで荘厳する。開敷蓮花は平板でなく厚みをもったタイプ。02_2格狭間は羽目いっぱいに大きく作られ花頭中央が広く整った形状を示す。葛部、地覆部、左右の束の幅を狭くして羽目部分を広く作っている。05基礎幅は葛部で約46cm、地覆部で45.5cm、束部の幅は約1.5cm程小さい。高さは約37cm、側面高約27cm。塔身は幅、高さともに約22.5cm。各側面には線刻月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は軒幅約42cm、高さ約32.5cm。軒の厚みは約4cm。上六段下二段の通有のもの。軒と区別し少し入って立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面である。相輪は高さ約56cm。九輪の凹凸は明瞭。下請花は小花付複弁八葉、上請花は覆輪付単弁のようである。先端宝珠はやや大きめで重心が高く、先端尖りを大きめに作っている。伏鉢下端の径が17.5cmで笠最上段の幅約15.5cmを上回り、別物の疑いが強い。一方、西側、向かって左手のものは高さ約161cm、基礎上二段、幅約50cm、高さ約33cm、側面高は約25cmとかなり背が低い。各側面とも輪郭を巻き、内に格狭間を入れる。格狭間は概ね整った形状で彫りはやや深く、左右輪郭との間に隙間がある。格狭間内は素面。塔身は高さ幅とも約26cm。線刻月輪内にア、アー、アン、アクの胎蔵界の四仏の種子を薬研彫している。04笠は上六段下二段、軒幅は約48.5cm、高さ約37.5cm。軒の厚み約5cm。03_2軒から少し入って若干外傾する隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。相輪は高さ約63.5cm、九輪上端近くで折損しているのを上手く接いである。九輪の凹凸は明瞭で下請花は覆輪付単弁八葉、上請花は小花付単弁八葉に見える。宝珠はやや重心が高いが整った曲線を描く。2基ともに無銘であるが、造立時期について、田岡香逸氏はそれぞれの外形的特長から西塔がやや古く鎌倉時代末の1325年頃、東塔は南北朝時代初頭頃で1330年を遡らないと推定されている。妥当な年代観と思われるが、西塔はもう少し古いかもしれない。西塔は重要文化財指定。また、田岡氏は東塔の意匠の特長から蒲生郡日野町蔵王の石工の手になるものと推定されている。石山寺にはもう一基、古い宝篋印塔が残されている。悪七兵衛ないし悪源太の供養塔とされるもので参道を北の本堂に上らず、西側の谷筋を奥に進んだ八大竜王社のさらに奥にあるようだが、残念ながら一般参拝客は立入禁止の区域で見学は叶わなかった。田岡氏の報文に基づき概略だけ紹介する。相輪を失い五輪塔の空風輪を代わりに載せ、笠上までの高さ146cmというからかなりの大型塔である。花崗岩製で基礎上二段、基礎側面は3面が輪郭格狭間、1面は素面。塔身には胎蔵界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。笠は上六段下二段、隅飾は二弧輪郭。鎌倉時代後期の中頃のものと推定されている。相輪代わりの五輪塔の空風輪もかなり大きい立派なもので鎌倉時代後期のものらしい。ちなみに悪七兵衛というのは平家の勇者であった平(藤原or伊藤)景清、悪源太というのは源義平であろう。頼朝の庶兄である義平は平治の乱の後、石山寺に潜伏していて捕縛されたと伝えられる。彼らの活躍した時期は宝篋印塔の造立時期とは100年以上の隔たりがある。(続く)

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江石山寺の石造美術()」『民俗文化』第144号

 

伝・頼朝&亀谷禅尼供養塔はともに150cm前後なので五尺塔と思われますが、塔高が147cmと161cmでちょっと中途半端な数値です。それぞれ相輪を入れ替えるとともに154cm前後になりちょうどよい数値になりますのでいちおうその可能性を考慮してもいいかもしれません。ここもコンベクス計測は憚られ、法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めました。緑の苔が映えて美しい宝篋印塔ですが、生垣が少々邪魔なので生垣の葉が少ない冬場が観察に適しています。一見すると同じように見えますが、基礎上二段と反花、輪郭式と壇上積式の側面や格狭間内素面と開花蓮、塔身の胎蔵界と金剛界の四仏種子とけっこう相違点があります。この違いがわかる人はちょっとした石造通と言えるでしょう。それと種子がショボめなのは近江の特色で大和などの種子との単純比較はできません。

伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔に行こうと奥に進むと立入禁止の看板が・・・。たまたま通りかかられたお寺の作業員と思しき方に尋ねると、この奥は作業小屋があるだけでそんなものは知らないなぁとのこと。鷲尾座主の監修の下に作られた公式解説書ともいうべき『石山寺の信仰と歴史』(お寺でも売っています)にも記載があるのに・・・残念ですがまぁ仕方がありませんね。

 

東塔が頼朝、西塔が亀谷禅尼のものとされているようです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。