滋賀県 高島市安曇川町三尾里 満願寺跡宝塔(鶴塚塔)
民家の庭先のような一画にこの巨大な石造宝塔は立っている。満願寺跡といっても寺の面影はない。 ただ、民家の裏手に回るとささやかな墓地があってわずかに寺院の痕跡を思わせる。相輪は後補でしかもやや短いが現高約4m、復元すれば4.2~4.5mはあったと思われ14~15尺塔で、大津市長安寺宝塔(牛塔)と並ぶ近江最大の宝塔である。花崗岩製。鶴の塔とか鶴塚と呼ばれる。ある武将が狩猟中に鶴を射落としたが首がなかった。不審に思いつつ獲物を持ち帰った。翌年再び射落とした鶴が干からびた鶴の首を羽の付け根に大切そうに抱えていた。それは去年射落とした鶴の首で、鶴が夫婦であったと気付いた武将は、鶴の夫婦愛に心を打たれ、深い悔悟の念から鶴の供養のためにこの石塔を立てたという伝説に基づいている。近江を代表する二大宝塔の別称にそれぞれ牛・鶴という動物名が冠され、それにまつわる伝説があっておもしろい。先に紹介した長安寺塔の異形に比べればこちらはオーソドクスなスタイルである。基礎は直接地面に置かれているようで側面は四面とも豪快に切り離したままの感じを残す素面で、高さ約52cm、幅は155cmに及ぶ。低くどっしりとしたものである。塔身は軸部と首部が別石で、首部には匂欄が表現されている。軸部は裾がすぼまり肩の張った釣鐘状で上部を構成する曲面(饅頭型部)のアウトラインはスムーズだが側面はやや直線的で長安寺塔のように全体的にゆるく曲線を描かない。西側に二仏並座を扉型内に薄肉彫りしているが表面の風化が進行し像容は判然としない。 残る三方は素面である。下半に匂欄を薄肉彫りで刻み出した首部の立ち上がりは垂直に近くしかも細長い感じで、巨大な笠に比較すると脆弱な印象は否めない。また、首部の横断面が正円形でなく、何となく多角形にも見える。首部と笠の間には別石の斗拱型を挟みこむ。斗拱型は平面方形で下端を水平に切り、中央に大きく首部を受ける円穴を穿ち、各辺を斜め切って繰形状に持ち送って側辺につなげる。五輪塔などの繰形台座を天地逆にしたような形状である。笠裏は一重の垂木型を設け、中央を方形にくぼめて斗拱型を受ける。笠の軒口は比較的薄く隅の反りは力強さよりも伸びやかな印象で軒中央と隅の厚みが変わらない。四柱の屋だるみも顕著でなく、隅降棟の突帯表現がない。ただし笠全体としてはそこそこ高さがあり扁平感はない。頂部の露盤は高めにしっかり表現されている。相輪はいわゆる番傘状で表面の風化も少なく明らかに後補であるので記述しない。下半を内斜に切った別石の斗拱型を笠下に挟み込む例は市内安曇川町常盤木三重生神社塔や守山市福林寺塔に、多宝塔では先に紹介した湖西市長寿寺塔や廃少菩提寺塔に類例があり、古い手法とされる。廃少菩提寺塔の仁治2年(1241年)銘がいちおうの参考になる。加えて低い素面の基礎、軒と屋だるみの形状、隅降棟突帯がない点、法華経見塔品に基づく宝塔本来の本格を示す軸部の二仏並座像など各部古様を示し、鎌倉中期に遡るものとして差し支えない。川勝政太郎博士は鎌倉中期とし「全体として鎌倉前期に近い様式を示す。…中略…近江に鎌倉時代の宝塔は多いが、その中でも形が大きく、年代も古い優作である。」と評価されている。瀬川欣一氏は「大吉寺の建長3年塔よりも以前に建てられた、県下では最大で最古に属する石造宝塔といえる」とされている。これに対し田岡香逸氏は建長3年(1251年)銘の野瀬大吉寺跡塔、志那中惣社神社塔、弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の各特徴を列記し、無銘の惣社神社塔を大吉寺跡塔と最勝寺塔の過渡形式として文永5年(1268年)頃と位置づけた上で、この満願寺跡塔を「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式であることが容易に理解されよう」とし「建治3年(1277年)ごろのものと推定するのが、合理的な編年であることに論を俟たない。」とされる。しかし報文を読む限り「惣社神社塔と最勝寺塔の過渡形式」であることの具体的な説明がなされておらず、いまひとつ説得力に欠ける。志那惣社神社塔をもう少し古く考える小生としては田岡説を支持することはできない。小生は川勝、瀬川両氏による評価がより妥当と考える。後補の相輪が美観を損なっているが大きさの割に間延びしたようなところはなく、気宇が大きく各部の均衡もとれたまさに優品である。
参考
川勝政太郎 『新装版日本石造美術辞典』 248ページ
田岡香逸 『近江湖西の石造美術』(後)-勝安寺・鶴塚・樹下神社-「民俗文化」142号
瀬川欣一 『近江 石の文化財』 48~49ページ