石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

2012-06-18 00:33:29 | 奈良県

奈良県 大和郡山市矢田町 金剛山寺(矢田寺)石段ほか

矢田寺本堂前の石段、向かって右(北側)の耳石に注目してもらいたい。ちょうど鐘楼の直下になる。03_2耳石は花崗岩製の長方形の石材で幅は45.5cm、4つの石材からなっているが、このうち一番上のものと上から3つ目の石材表面に陰刻銘が認められる。04石材の上端は石段に合わせて平らになるよう斜めに切っており、表面に「貞和二二年戊子二月十五日施主…」の陰刻銘が認められる。施主以下は2行にわたり数人の交名があるようだが摩滅が激しく不詳。交名の一部は下の石材にも及んでいるようである。下の石材には「大勧進法眼実真…」とある。摩滅が進んでいるが肉眼でもある程度判読できる。石段を寄進した記念の銘を耳石などに刻む例が時々あるが、南北朝時代前半、貞和二二年、つまり北朝年号の貞和4年(1348年)銘を刻む本例は最も古い部類に入る。

この石段下の向かって左側には、大きい六字名号碑がある。花崗岩製で高さ約2m、幅約43cm。頂部を山形にして額部は二段にして中央に稜を設けた圭頭稜角式と呼ばれる典型的な大和系の板碑で、01碑面には長方形に浅く彫り沈めて輪郭を設け、輪郭内下端に蓮華座のレリーフを刻出する。02_2中央には「南無阿弥陀仏」の六字名号を大きく陰刻し、その下にやや小さい文字で二行に分けて「行尊/逆修」と刻む。左右の輪郭下方に「文禄二年(1593年)/十月三日」の紀年銘がある。石材の都合あまり薄く作るのは無理なので、正面から側面は丁寧に仕上げているが背面は粗整形のままで厚みを残している。大和を中心に良く見かけるタイプの名号板碑であるが、これ程の大きさのものはあまり多くない。

また、本堂北東側にある春日神社の社殿前石段の耳石にも紀年銘がある。石段は立派な壇上積式の基壇の正面に設けられており、やはり花崗岩製である。向かって右側の耳石に一行、こちらは風化摩滅が激しく肉眼ではほとんど確認できない。幅37cm、長さ2m程の上下端を石段に合わせて平らになるよう斜めに切った方柱状で、07段数が四段と少ないこともあってかこちらは一石からなっている。「正平二年(1347年)十一月日」、こちらは南朝年号で本堂前よりさらに数ヶ月遡る。大和では在銘最古の耳石とされる。わずか数ヶ月の間に、南朝年号と北朝年号が同じ寺院内の程近い場所にある別々に石段の耳石に刻まれているわけで、これが何を意味するのか、なかなかに興味深い。1347年の11月といえば南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起、北朝方を撃破した頃である。05翌1348年1月5日の四条畷の戦いでは逆に北朝方が勝利し、南朝は吉野を捨てて賀名生に落ち延びている。こうした当時のめまぐるしい政治情勢を反映したものと解するべきかもしれない。いずれにせよ興味は尽きない。

さて、矢田寺は中世以来盛んだった地蔵信仰の一大中心と伝えられており、そのせいか境内にはたくさんの地蔵石仏がある。その代表は先に紹介した見送り地蔵といえるが、このほかにもいくつかご紹介したい。参道を本堂に向かって進むと参道北側に一際大きい地蔵石仏が立っているのが目を引く。「味噌なめ地蔵」と呼ばれている。花崗岩製。高さ2.1m、幅約1m程の長方形の石材の正面に像高おおよそ1.7mくらいの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、全体に素朴で重厚な像容が特長である。面相表現はおおらかで悪く言うと大雑把、顔面に比して耳が極端に大きく見える。また、面白いことに衣文など細部表現が省かれており、周縁部の向かって左上には矢穴が見られるなど、十分に仕上げられていない印象があり、未成品ではないかと清水俊明氏が指摘されているのも首肯される。06下端は埋まって蓮華座は有無も含めて確認できない。印相は錫杖を持たない矢田寺型である。平坦面に大勢の結縁交名が陰刻されているようだが肉眼では確認できない。紀年銘はなく造立時期は不詳。傍らの看板には鎌倉時代と記されている。08重厚な体躯、やや肘の張った体側(「からだがわ」ではなく「たいそく」と読んでいただきたい)のアウトラインから受ける印象は、確かに鎌倉時代の石仏の雰囲気が感じられるが、面相表現や袖裾の様子などからはもう少し時代が降るように思われる。見送り地蔵よりは先行するであろうが決め手に欠ける。ちなみに清水氏は室町中期頃と推定されている。お口に味噌を塗り付けると家の味噌の味が良くなるとの伝承があるらしい。昔は各家庭で家伝の味噌を作り置いたのであろうが、今日ではたいていの家庭で市販の味噌を使うためか味噌を塗りつけられるのは稀になってしまったようだ。周囲には小石仏がいつくか並べられているが近世以降のものが目立つ。その中で向かって左端の地蔵石仏は高さ約1.2m、スマートな体型の矢田寺型で室町時代のもの。

参道北側の子院、大門坊門内すぐ東の目立たない場所にある石仏は、一願成就の北向地蔵と呼ばれるもので、舟形光背に蓮華座上に立つ定型的な表現の地蔵立像を厚肉彫りしている。ただし印相は錫杖を持たない矢田寺型で室町時代後期のもの。大門坊の庫裏の玄関前には舟形に整形した正面に像容をレリーフした立派な十三仏がある。このほか本堂裏手の墓地にも戦国期から江戸時代初め頃の地蔵石仏がいくつかあり、山門手前の道路脇にも立派な室町時代の矢田寺型地蔵がある。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実 『奈良県史』第16巻 金石文()

    〃   『奈良県史』第17巻 金石文()

 

前後編にわたりました矢田寺の石造美術はこれでいったん終了。あじさいの頃は何だかんだで毎年訪れていますがようやくにして紹介記事を起こした次第です。近世のものも含め面白い石造物がたくさんありますがとても紹介し切れません。内容は法量値も含めほとんど『奈良県史』の受け売りです。大雑把ですいません。


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