京都府 京都市上京区北野 北野天満宮石鳥居及び東向観音寺五輪塔ほか
北野天満宮の参道左手、西側に東面するのが東向観音寺(真言宗泉涌寺派)である。文字どおり東面するため東向というらしく、古くは参道の反対側にも西向のお寺もあったと伝えられるが早く廃絶して今はその正確な位置さえ定かではない。本堂南側のやや奥まった場所に巨大な五輪塔が見える。築山の上に建ち、一条七本松付近にあった源頼光が退治した土蜘蛛が住んだ塚から明治時代に出土したという六地蔵石幢の龕部と思しき残欠のほか、中型の五輪塔数基が築山のすぐ脇に並んでいる。菅原道真公の母堂、伴氏の供養塔と伝えられ、昔から京の人が忌明にこの大きい五輪塔に詣でる風習があったという。道真公は平安時代中頃の人なので五輪塔の年代を考えるとちょっと古すぎる。元は少し離れた北野天満宮参道の西側にある伴氏社の小祠があるところにあったものが明治時代初めの神仏分離によって現在の場所に移された。それ以前は北野天満宮の名物として有名だったらしく天満宮を描いた古い絵には必ず鳥居と五輪塔が描かれているという。川勝政太郎博士によれば、鷲尾隆康という公家の日記『二水記』に大永2年(1522年)四十九日に当たる9月8日に北野の石塔を拝んだことが記されているという。「北野の石塔」がこの五輪塔であることはまず疑いないだろう。そして鷲尾隆康は、この塔が菅公の御母の墓で、世間の人が忌明に必ずこの塔に詣でるいわれは判らないと述べているという。室町後期には既に菅公の母堂の供養塔とされていたことや忌明参りの風習が定着しており、武家や庶民に比べ有職故実に詳しいはずの公家でさえそのいわれに関する知識があやふやになっていたことを示している。このことから、忌明参りの風習が室町時代後期よりかなり遡る頃からのものであることが推測できる。本来死や葬送に伴う穢れを嫌う神社の境内になぜ忌明塔があったのかは判らないが、神仏習合や別当寺の関係、そして何らかの「結縁」が謎解きのキーワードになるだろう。そして忌明の風習のルーツには惣供養塔など個人の墓塔ではない、供養(作善)のための石塔に対する信仰のパターンが見え隠れしているように思う。五輪塔は高さ1.5mほどの築山の上に立っていることも加わってまさに見上げるばかりの巨塔である。花崗岩製で高さ約4.5m。梵字や刻銘は見られず素面。全体に空風輪が大き過ぎる観があり、しかも空輪のくびれが目立ってやや不出来な印象を受ける。鉢形の風輪はまずまずだが、空輪の重心が高いことと先端の尖りが気になる。離れた場所からの表面的な観察では石材の色調や質感に違和感はないものの、いちおう空風輪は後補の疑いをぬぐいきれないだろう。この点は後考を俟つしかない。地輪は植え込みに隠れ確認しづらいが、低くどっしりしたもので上端幅より下端幅が広く安定感のある古調を示し、下端付近は不整形で土中に埋め込む前提であったことがわかる。水輪は左右のふくらみに欠けやや背の高い印象ながら上下のカット面が大きくこれも古調を示している。火輪は全体に低く、軒反は緩く真反りに近い。軒口の厚みも適度で、軒口の厚みが隅に向かって増していく隅増しがほとんど見られない。底面に比べ頂部が小さいこともあって屋根の勾配はあまり強くない。また四注の屋だるみも顕著でないので伸びやかな印象を与えている。これらも古い特長といえる。空風輪、特に空輪に違和感があり全体のバランスを悪くしているが、総じて古い特長を示しており、鎌倉時代中期、13世紀中葉頃に遡るものと見てよいと考えられる。
元この五輪塔があった伴氏社前の石鳥居も忘れてはならない。花崗岩製で高さ約2.7mの小さいものだが、左右の柱が太く転びが小さいのでどっしりとしている。貫は外側に貫通せず、島木と笠木は反りが緩く、隅増しも小さい。こうした特長は先に紹介した大原勝林院墓地の石鳥居(2008年2月6日記事参照)にも共通するもので造立が中世に遡る可能性を示している。また、額束が島木に割り込む手法は珍しいとされている。注目して欲しいのが柱の台石である。自然石の上面に柱受座を削りだしたもので、受座に単弁反花が見られる。間弁(小花)が大きく蓮弁は高く抑揚感があるが、南北朝期以降に石塔の台座や宝篋印塔の基礎上などに多々見られるようになる複弁で「むくり」が目立つ反花とは一線を画する意匠である。川勝博士は鎌倉時代の作風を示すものとされており、なるほどおっしゃるように、先に紹介した滋賀県野洲市の御上神社本殿の縁束石(2008年3月30日記事参照、建武4年(1337年)銘)などに比べると、反花が定型化に至っていない意匠であることが観取される。また、川勝博士によると、北野天満宮を描いた古い絵図のうち、観応2年(1351年)に描かれた西本願寺所蔵の絵巻物『慕帰絵詞』巻六に五輪塔の前にある鳥居が見られるそうで、これは木造のようであるとのこと。もし絵が実物の写生であれば、石鳥居はそれ以降のものと考えなければならないことから、台石と鳥居本体の石材の色調や質感の違いを考え合わせ、初めは木造の鳥居が柱の台石上に建てられ、室町時代に耐久性のある石製のものに取り替えられたのではないかと推測されている。したがって鳥居が当初から五輪塔とワンセットのものであったと仮定するならば、この台石も五輪塔と同じ鎌倉中期頃のものということになる。石塔と石鳥居が共存する例がまれにあるが、こうした石鳥居のあり方を考えていくうえからも貴重なものといえる。なお、北野天満宮にはこのほかにも石燈籠の古いものがある。社殿前の向かって右手、回廊前の柵の中にある石燈籠がそれで、六角型、花崗岩製だが風化が激しく基礎の蓮弁が辛うじて認識できる程度である。高さ約1.8mと小形で、宝珠と請花は小さ過ぎるので別物と思われる。笠の勾配が緩やかで中台が薄く瀟洒な感じを受ける。宝珠と請花を除くと全体のバランスがよく、古来茶人や庭園家の間で模造品の手本「本歌」として珍重されてきたもののひとつ。北野天満宮の摂社白太夫社の名を冠する「白太夫型」燈籠と呼ばれるもののモデルになったものである。川勝博士は香川県白峯寺の文永4年(1267年)銘の石燈籠に類似することから、同じ鎌倉時代中期末頃のものと推定されている。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』141~144、216、236~237ページ
竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 100~105ページ
川勝博士の博識にはいつもながら舌を巻きます。大きい五輪塔は不出来な空風輪が全体の印象を損なっていますが、それ以外はよく見ると笠置の解脱上人塔や生駒の鳴川墓地塔など古いタイプの五輪塔と似ています。石燈籠の写真はピンボケ&手ブレで掲載できるようなものが撮れませんでした。すいません。この石燈籠には、まつわる伝説があって、渡辺綱が一条戻橋に出没する女鬼に空中に拉致され格闘の末にその腕を切って脱出、墜落したところが北野天満宮の回廊の屋根で命拾いしたお礼にこの石燈籠を奉納したというもの。渡辺綱は嵯峨源氏の出で源頼光四天王の筆頭として知られる豪傑。10世紀後半から11世紀初め頃の人なので石燈籠より約250年程も前の人物で時代があいません。したがって所詮は根拠のない付会でしょうが、そういって否定するのみではつまらない。そこは割り切って伝説はあくまで伝説として大切にする奥行きのある鑑賞態度が必要かと考えます。石鳥居の写真もどうもイマイチですので、なるべく近いうちに撮り直してきたいと思っています、ハイ。
補遺:大きい五輪塔の法量について、元興寺文化財研究所「五輪塔の研究」平成6年度調査概要報告の51ページ、京都府分の補遺に数値を記載していただいておりました。ご紹介いたしますと、塔高403cm、地輪幅159.5cm、同高73㎝、水輪幅182cm、(132cmの誤植か?)同高123cm、火輪幅147.5cmとのこと、火輪の高さ、空風輪の数値がありませんが、大きいので登らないと計測できなかったのかもしれません。従前から人口に膾炙している高さ4.5mという数値よりは高さがやや低いようです。それとやはり地輪が低いことがわかります。採寸実測したという話を知らないないので、この数値は非常に貴重です。元興寺文化財研究所様の学恩に深く感謝するものです。