滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その1)
竜王町の北端を東西に通る国道8号線が、中世の東山道、近世の中山道にあたるとされている。鏡は街道沿いの宿場町として古くから栄えた場所である。国道沿いの鏡神社には南北朝頃の社殿や石燈籠が残り、付近には源義経の元服の場所と伝えられている場所がある。南方には歌枕としても有名な鏡山(標高384.8m)があり、山麓一体に古代の窯跡群が分布することでも知られる。鏡山から北に派生する尾根の先端にあるピークは「星ヶ峰」と呼ばれ、佐々木源氏の一族とされる鏡氏の城跡と伝えられる遺構が残る。この星ヶ峰の東麓、ちょうど最近できた道の駅付近から山腹にかけての西側一体は星宿山西光寺という寺院の跡とされている。西光寺について正確なことはわかっていないが、平安時代の創建の天台寺院で、往時は300坊を数える程の寺勢を誇り、幾度かの焼亡と再興を繰り返した後、元亀年間の兵火によって廃滅したと伝えられている。さて、道の駅西側の小道を登っていくと小堂があり、ここに石造金剛力士像が1体祀られている。西光寺の遺物と考えられている。本来仁王さまは一対のものだがもう1体は行方不明。土砂崩れによって山麓の池に梵鐘とともに沈んでしまったとの伝承があるらしい。閉ざされた戸の格子から覗いた石造仁王像は、花崗岩製と思われ、概ね等身大の厚肉彫で金剛杵を持つ右手を高く掲げた阿形。目鼻の大きいなかなか力のこもった表情で、恐らく室町時代は降らないものと思われる。能勢丑三氏によれば、この仁王像は元は少し南に離れた場所にあったらしく、そこが山門の跡地である可能性を指摘されている。また、吽形のものと思しき枘のある台座もあったとのこと。さらに小道を上っていくと突き当たりに吹きさらしの覆屋で保護された変形石燈籠が立っている。西光寺の鎮守社とされる八王子神社(赤宮、八柱神社、若宮王子神社とも…)にあったものを保存修理のため平成13年にこの場所に移建された由である。現地は確認していないが八王子神社の社殿は大正末頃に倒壊し廃されたらしく、今は行方不明となった棟札に、天文11年(1542年)と寛永2年(1625年)の再建修理の記録が記されていたという。石燈籠は高さ282.4cm。花崗岩製で基礎から笠まで平面八角。一見すると重制の石幢に見える。真新しい基壇は修理に際して設置されたものと思われる。基礎は各側面輪郭を区画して内を浅く彫り沈めているが羽目部分は素面で格狭間や近江式文様は確認できない。側面上は低い一段を経て上端を複弁反花としその上に八角形の竿受座を設けている。反花は膨らみを持たせた細長く傾斜の緩いもので、各辺の中央に主弁、各コーナーに主弁と遜色ない大きさの間弁をそれぞれ1枚づつ配している。竿は異常に細高く、素面の八角柱状で通常石燈籠にみられるはずの節がない。西側の一面に大きめの字で「応永廿八(1421年)辛丑八月八日願主敬白」と刻んだ銘が確認できる。中台は下端に低い竿受を刻みだし、側面を持たない蓮台式。丸みをもたせた大ぶりの単弁請花を大きく表現し、花弁の先端近くに山形の線刻を施して弁間には小花を配している。上端は八角形の低い火袋受を中央に置き、その周囲は請花の弁先の形のままにギザギザの凹凸をつけている点は面白い意匠である。火袋は縦3区に区画し、大きい中央区に火口を設けた面と、縦長の長方形に浅く彫り沈めた区画内に蓮華座に立つ半肉彫の立像を配置し、上に火口面と通有の小区画を設けた面を交互に配している。 火口面の上小区画は縦連子、下小区画内には格狭間を入れている。また、像容面の上の小区画には東側のみ散蓮、残りを花菱文のレリーフで飾っている。像容は頭が大きく稚拙な表現で風化も手伝って尊名の特定は難しい。地蔵菩薩という説もあるが如来像にも見える。この点は後考を俟ちたい。笠は蕨手がなく、全体にあまり背が高くない。軒の軽い反りと突帯のない隅棟部分や素面の笠裏があいまって非常にすっきりとした印象を与える。笠頂部には低い円形の受座を刻みだし別石の請花付宝珠を受けている。請花付宝珠は平面円形である。請花は覆輪付の単弁で小花を挟み上端を弁先にあわせたギザギザの凹凸にしているのは中台と共通する意匠である。請花と宝珠の間には下拡がりの首部を設けている。宝珠は重心が低く整った曲線を描いてスムーズに先端の尖りにつながる。特長をおさらいしておくと、①平面が八角形である点、②竿が異様に高い点、③竿に節がない点、④笠に蕨手がない点などで、特に③、④は石燈籠というよりも重制石幢に多い手法で、石幢の手法を取り入れたあまり例のない特殊な石燈籠といえる。重要文化財指定。(続く)
参考図書は後編にまとめて記載します。写真右上:仁王様です。石造の仁王様は大分県に多いようですが、このあたりでは珍しいものです。というか、この石幢風石燈籠も、後述する「鳥影」宝篋印塔も珍しさでは引けをとりませんね。写真上から2番目:基礎の様子、写真左中:中台と火袋部、写真上から3番目:中台の上端、ギザギザが面白い、写真左下:笠上方の様子、写真右下:請花と宝珠、川勝博士も指摘されるように室町時代にしては出色の出来でここもギザギザになってます。それにしても近江というところは山岳寺院というか山手にある中世の寺院跡とされる場所がたくさんあって、そこには関連しそうな石造物が豊富にある。しかも城跡などがセットになっていて何とも興味の尽きない土地柄です。それらにまつわる史料や伝承が混在して残っている。伝承の類はたいてい後世の怪しい付会が多いんですが、(西光寺にしても最澄創建で嵯峨天皇勅願、往時は300坊云々などははなはだ怪しい…)近江では何というか、まんざらでもないところが多い。そしてそれらの実態が今日でもあまり解き明かされていないわけで、底知れない潜在性に鑑み将来が楽しみであると同時に現時点においては保存保護に一層の配慮が必要だと痛感します、ハイ。