石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)

2017-12-30 23:54:58 | 層塔

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)
 石塔寺は、石塔(いしどう)町集落の北側の丘陵麓にある古刹である。北側の石段を上った丘陵上の石造
層塔は、我が国最古にして最大の三重層塔として古くから著名な存在である。


 花崗岩製で高さ約7.5m。方形の土檀の中央に、無数の五輪塔に
囲まれて悠然と建っている。11世紀初頭の寛弘年間に土中から発見され再建されたと伝えるが、その詳しい場所はわかっていない。
 相輪は後補で、先端には五輪塔の火輪と空風輪のようなものが載せてある。軸部と笠石を別石とし、軒の出が大きい低平な笠石と縦長の軸部が外形的な特長である。鎌倉時代以降に普遍化する軸笠一石づくりの石造層塔とは明らかに一線を画する構造形式である。基礎は大半が埋まって全容が確認できないが、幅は優に2mを超える自然石で、平らな上端部には軸部受の方形の窪みと排水溝の造作が認められる。初層軸部は縦方向に組み合わせた二石からなり、高さ約1.4m。初層笠石は高さ約59㎝に比して幅は約2.5mと幅が広く低平で、軒口は薄く軒反りはほとんどないに等しい程度である。軒口をやや内斜に切っているのは、分厚い軒口を垂直に切る鎌倉時代以降の石塔と異なり見逃してはならない特長である。二層目と三層目の笠石も概ね同じ形状で軒裏には薄く垂木型を表し、中央には方形の塔身受の窪みがある。上端は薄い段を設け、初層と二層目には内側には塔身受の窪みがあるらしい。二層目、三層目の軸部は一石で三層目軸部の中央やや上寄りの南側には方形の穴(目測だいたい20㎝くらい)が見えるが奉籠穴だろうか。
 造立時期について、奈良時代前期説と平安時代後期説がある。今のところ奈良前期説が有力である。朝鮮半島に残される百済系の石造層塔との類似点や、『日本書紀』天智天皇8年(669)にある百済からの渡来人が蒲生郡に移住した記事から、渡来人の子孫によって造立されたとものと考えられている。平安時代説では、手本となったとされる韓国の長蝦里塔の造立が10世紀代まで降るのではないかという点と、平安末期頃の阿育王八万四千塔信仰の高まりや土中から発見された阿育王塔が11世紀初め頃に再建されたという伝承を踏まえた考え方である。いずれにせよ、石塔が定型化する以前の非常に古い石塔であることは疑いがない。重要文化財指定。
 石塔寺についての文献資料として、平安時代末の
『後拾遺往生伝』に「蒲生郡石塔別処…阿育王八万四千塔…」という記述が、同じく『兵範記』に「詣蒲生西郡石塔…」の記述があるというから平安時代末にはこの地に阿育王の石塔信仰があったことは確認される。また、『源平盛衰記』や鎌倉時代前半の紀年銘のある大般若経の識語に、石塔寺あるは石塔院という言葉が確認されているという。鎌倉時代末までに原形ができたとされる『拾芥抄』には「蒲生石塔、阿育王八万四千塔…」の記述があるというから、石塔寺が遅くとも鎌倉時代前半頃には存在したことは疑いない。それが現在の石塔寺と同じ場所にあったかどうか、寺が原位置を保っているならば、遺構や遺物から証明されなければならないが、この点は今一つ明確でない。これはとりもなおさず層塔が原位置を保っているのか移建されているのかという点とも関わる今後の課題である。石塔集落の南方数百mの綺田町には、奈良時代の古代寺院跡が確認されている点は示唆深い。
 軸笠別石の層塔は同じ滋賀県内や京都などにも確認されているが、遡ってもせいぜい平安末期で、規模も小さいものが多い。石塔寺の層塔は規格外のサイズで、外形的な印象も合わせ少々趣きが異なるように思われる。また、
2つの石材を縦方向に継いだやり方は、五個荘金堂馬場の五輪塔地輪(正安2年(1300)在銘)に共通するが、石塔寺の層塔が影響している可能性もある。(続く)

※ たいへんご無沙汰をいたしておりました。ぜんぜん記事UPができない一年でしたが、せめて大晦日までには何か書いておこうという悪あがき、情けない次第です。今更ながらの石塔寺、何度も来ているところですが、休暇を利用して久しぶりに訪れました。暮れも押し迫る平日、晴天の下で貸し切り状態でした。割合に暖かい日で、無数の石塔に囲まれてまったりと石造三昧の午後でした。参考図書は続編にまとめて記載します。