石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水

2010-02-14 14:22:18 | ひとりごと

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水院笠塔婆

笠塔婆について、文字どおりに解釈すれば、蓋屋となる笠石を備えた塔婆類は全て笠塔婆である。宝塔や層塔はもとより五輪塔や宝篋印塔などの石塔類の大部分は広義の笠塔婆であり、蓋屋付石仏龕である笠仏や箱仏もその範疇に入る。02_3こうして考えると、その概念を厳密に定義付けることはなかなか困難である。このため、広義の蓋屋付の石造塔婆から他に分類立てができるものを排除していき、残った分類しづらいものを笠塔婆として理解する程度に考えておいてもいいのかもしれない。ただ、「塔婆」は本尊ないし本尊に相当する真言や題目などを中心部分に配する点で単なる「碑」と異なる。京都栂尾の高山寺の境内にも旧蹟に建てられた木製のモニュメントが朽損したため、石造で再建した例がある。こちらも有田郡のものと同様にその旨が笠塔婆に刻まれ、現に残っている。03_4石水院門前に立つものは花崗岩製で、後補の可能性がある基礎と合わせた現高約170cm。塔身上方に小さく「バク」、その左右に「タラーク」、「ウーン」の三尊種子を配し、中央に大きく「石水院」、その下に「建保五秊丁巳/以後数箇秊/住此處後山/号楞伽山」、向かって右側面に「天福元秊癸巳十月三日造立之」、背面に「天福秊中所造立板卒都婆朽損/元亨二年壬戌十二月一日以石造替供/於梵漢之字者任古畢願主比丘尼明」の刻銘があるとされる。注目したいのは、モニュメントとして最初に採用されたものが木製であったという点、そしてその耐久年数、それからより耐久性の高い石造で作り直している点である。高山寺の場合、天福元年(1233年)に建てた木製のものを元亨2年(1322年)に再興している。その間89年、有田郡の場合は嘉禎2年(1236年)と康永3年(1344年)で108年である。この実例を踏まえれば、木製の場合、ある程度大切にされたとしても、だいたい百年くらいが耐久限度のようである。木製品はそのまま朽ち果ててしまうと残らない。ここで述べたのは石造で再建された明恵上人関連のモニュメントに関しての事例であるが、石を使ってこうしたものがたくさん作られるのは、全国に残る石造物の紀年銘に鑑み、やはり従前からいわれてきたように鎌倉時代の後半以降と考えるのが妥当であり、それ以前の鎌倉時代前半以前に石造のものはあったにせよ、仏教信仰に関連したこうしたモニュメント、経塚の標識や、墓標などには木製品がかなり採用されていたと類推することが可能ではないだろうか。平安末期と推定される餓鬼紙子に描かれた昔の墓地にも木製と思われる塔婆が描かれているのが見られることなどもその証左である。01_5そして、その内には明恵上人旧蹟のモニュメントの実例のように、木製から石造に作り直され置き換えられたこともいくらかはあったと思う。仮にそうだとすると無銘の石塔の造立推定年代が蔵骨器などの年代と合わない場合、器の伝世ということも考慮されるべきであるが、木製品の朽損による再建ということも可能性としてありうるということになる。古い時代には、造立対象物のあり方に即して、造立主(施主)の嗜好性と耐久性や経済性などが勘案されて木製、石造が併用されていたのであろう。それがやがて人間が生きた記憶や記録を後世に伝えたいという思いや考え方に基づいて作られる場合に、そこに永遠性を付加したくなるのは当然であるから耐久性ということが重視され始める。そして、中世から近世初期にかけて造塔思想そのものの普及とともに次第にそういう考え方も平行して、あるいは相互に助長し庶民層にまで拡大し、その最たるものである墓標や墓塔として、石造品の量的な需要をますます高める一つの要因になったとは考えられないだろうか。その結果、供給サイドが量的な需要に応えていくために、個々の作品のクオリティに費やすエネルギーを量産の方向に向けざるをえなくなっていき美術的な観点からは「退化」と称されるような特性となって表面化してくるのである。つまり「作品」は「製品」になり、量産化によって品質がどんどん低下し「廉価品」へと変化していくのであろう。一方、木製品は今日でも見られるように盆や年忌などのたびに立てる卒塔婆のように簡便性や経済性という属性が一層クローズアップされた用途に特化され、結局、石造、木製ともにそれぞれの特性に応じてその用途が細分化していくと考えるのである。

写真:高山寺石水院門前の笠塔婆。こちらは花崗岩製で、少し笠が小さい感じです。同様のものがいくつか境内の山中深く残っている由です。写真左下:明治時代に現在の場所に移築された石水院が元あったとされる場所。現在は何もない平坦地になって石段だけが残っています。なお、付近には同じような子院跡と思われる平坦地がたくさん残っています。樹下で座禅を組む有名な明恵上人の姿を描いた絵の舞台がまさにこの山中だったことを考えると感慨深いものがあります。明恵上人は夢記を残され心理学の方面でも有名な方です。そのストイックな信仰の姿勢はもとよりですが、反面何というかちょっとシニカルなところがあって非常に人間的な魅力に溢れる人物です。貞慶上人と並ぶ南都系仏教界のエースで東大寺華厳宗の学頭。密教に加え、禅と戒律にも造詣深く、光明真言の土砂加持を研究されたりしています。また、専修念仏を痛烈に批判されたことでも知られています。一方歌心豊かで短歌も多く残された容姿端麗な方だったらしいです。小生などは「あかあかやあかあか・・・月」の歌が気に入っています。かの時代にこんな歌を作られる感性に驚きを禁じえません。それから高山寺といえば有名な「高山寺式」宝篋印塔を忘れるわけにはいきませんが、上人廟所の一画にあり、残念ながら立入が制限されて至近距離までは近づけません。


和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

2010-02-14 13:28:21 | 和歌山県

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆

有田郡は明恵房高弁上人の郷里である。洛西栂尾の地を下賜され高山寺を中興する前、20代の頃郷里に戻り、人里離れた山中に草庵を結んでひたすら修業に励まれた時期があり、その旧蹟8ヶ所に弟子が建てたモニュメントのうちいくつかが残っている。01_4そのうちのひとつ、白上峰の遺跡について紹介したい。湯浅町栖原の海辺に近い山腹に施無畏寺がある。上人の母方の実家に当たる在地の有力武士であった湯浅氏が建てたとされるのもので、落慶法要には明恵上人も駆けつけたという。この寺の背後に続く山塊の頂上付近が白上峰とされる。東西2ヶ所に分かれる白上峰の旧蹟のうち海寄りにあるのが西白上で、湯浅湾を一望に見下ろす景勝の地にある。山頂付近は潅木の中に見上げるような巨岩が露呈する。建久6年(1195年)、最初に上人がここに草庵を結んだとされる。岩山の一角に笠塔婆が立っている。笠塔婆というのは、塔身の上に笠石を載せた簡単な構造の塔婆で、塔身には普通、方柱状ないし板状の縦長の石材を用い、笠は寄棟ないし宝形造で頂部に請花・宝珠を配するもの。02構造・形式が簡易であり、刻銘可能なスペースを広くとることができ、供養塔や町石などいろいろな用途に使われる。露呈する岩盤上の狭い平坦部に、径2m程の範囲にごつごつした自然石を不整形に敷き並べ、その中央に笠塔婆の基部を埋け込んである。03周囲には鉄製の保護柵が方形に回らされている。表面茶褐色の硬質砂岩製とみられ、宝珠から塔身まで全て一石彫成。現状での全高約156cm、塔身部は高さ約129cm、幅約26cm、奥行き約17.5cmのやや扁平な方柱状で、北側正面上方に「マン」の種子を平底彫で大きく配し、その下の中央付近に「文殊師利菩薩」、さらにその下に「建久之比遁本/山高尾来草/庵之處」、「十一月十九日造立之/嘉禎二年丙申/比丘喜海謹記」と3行(割付た干支の行数を加えれば5行)2段に陰刻している。04さらに背面には「嘉禎年中所立木卒都婆朽損之間今勧進一族以石造依之此結縁各預上人之引導可令成就二世願望者也、康永三年(1344年)甲申九月十九日勧進比丘弁迂」の造立・紀年銘、向かって左の側面に「願主沙弥安部六氏女」、向かって右側面にも「沙弥□□」の刻銘があるという。背面と側面の刻銘は光線の加減で肉眼でははっきり確認できなかった。埋け込まれた基部は平らに整形された塔身部分より若干太くなっており、敷き並べた石材の間にしっかりとくい込んで倒れるのを防いでいる。笠部分は軒の幅約32.5cm、軒の奥行き約24.5cm。軒の厚さは中央で約5.8cm、隅で約6.5cm。頂部は13cm×11cm。下部に高さ3cm、径約12cmの首部を設けた宝珠は高さ約11cm、径は約17cmである。宝珠の先端の小さい突起は少し欠損している。種子を平底彫とする点、一石彫成とする点が特徴である。ここから東に約400mの尾根のピーク付近にも同様の笠塔婆がある。01_3こちらは東白上の旧蹟とされる。はじめ西白上に草庵を構えたが、波の音や漁師の声が修業の妨げになることから東に奥まったこの場所に移ったという。こちらも巨大な岩盤が露呈し、東側に連なる山並みを一望にできる勝地である。西白上と同様に岩盤上に自然石を敷き並べ笠塔婆を立てている。やはり一石彫成で石材や大きさ、形状は西白上とほとんど同じ。塔身正面には「ウーン」、以下「金剛蔵菩薩」「建久之比蟄居修練之間文殊浮空中現形之處」とあり、嘉禎二年云々と背面の再建銘は西白上と同じ、側面には「願主藤原宗貞」とある。願主は藤原を本姓とし、「宗」を名に付することから湯浅氏と考えられている。02_2世俗の栄達から決別するため、仏眼仏母像の前で自分の片耳を切った明恵上人が文殊菩薩の顕現を見たのがこの場所だとされている。時に建久7年(1196年)上人24歳の時のことという。このほか有田川流域に残る明恵上人の旧蹟をしのんで建てられた笠塔婆は、おそらく京都栂尾高山寺の上人旧蹟でも木製のものを石造に再建したのに倣ったのであろう。高山寺、有田郡とも一連の明恵上人旧蹟のモニュメントである笠塔婆が、一様に一石彫成である点は注目される。通常、笠塔婆は塔身、笠、宝珠と3石に分けることが多く、笠石以上が落下亡失して上端に枘のある柱状の塔身だけが残っているのをよく見かけるが、一石彫成というのは珍しい。単なる簡略化とは別に、朽損した初代の木製のものを石造に切り替え再建していることを勘案すると、上人の旧蹟をなるべく永久に後世に伝えたいという造立主の思いに基づき、部材がばらばらにならないよう、あえて一石彫成の手法を採用した可能性も考えられる。

 

参考:巽三郎・愛甲昇寛「紀伊國金石文集成」

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」

     〃   「石造美術の旅」

     〃   「京都の石造美術」

   川勝政太郎・佐々木利三「京都古銘聚記」

施無畏寺の境内と裏山の墓地には観応、永徳の在銘宝篋印塔が残っていますがこれらは別途紹介したいと思います。写真左上:西白上峰の笠塔婆のロケーション。こうして海を見下ろし雨の日も風の日も幾百年立っているんですね。写真左上から2番目:笠と宝珠の様子、写真左上から3番目:嘉禎年間の木造当初の碑文部分、写真右下:東白上峰、写真左下:東白上峰の平底彫のウーン種子です。なお、木造のモニュメントを造立した喜海さんは明恵上人の高弟です。