ドナウ川の白い雲

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バロックのラグーサと古都シラクサ … 文明の十字路・シチリアへの旅 10

2014年07月02日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

   ( ラグーサの丘の上の「下の町」 )

 シチリアの4日目。曇り。

 今日は、バロックの町ラグーサを徒歩で観光し、その後、バスで東海岸のシラクサへ行く。古都シラクサ見学後は、この旅の最後の宿泊地タオルミーナへ。

         ★

< 大震災の後、バロック様式で町を再建したラグーサ >

 ラグーサは、17世紀末の大地震の後、碁盤目状の都市計画で再生させた「上の町」と、そこから東へ下っていく「下の町」とに分かれている。「下の町」はイブラ地区と言い、迷路のような中世の街並みを残しながら、そこにバロック様式の建物を建てて再建した。ただ、「上の町」とか「下の町」とかいっても、全体として丘の上の町であるのは、シチリアの他の町と同じである。

 宿泊したのは「上の町」。ホテルから徒歩で、奇抜な彫刻のある建物や、バロック様式の大聖堂を見て歩く。

 

       ( 店の外で小さな朝市 ) 

  ( 上の町の大聖堂 )

   ラグーサで一番の絶景ポイントはここ。「上の町」の東端から、「下の町」のイブラ地区が一望できる。

 

   ( イブラ地区を見下ろす )

   イブラ地区へ降りていく途中には、磨崖仏ならぬ磨崖のマリア像も。

 

   ( 洞窟のマリア )

 下の写真は茶系統の色合いと構図が良い (自画自賛)。ただ、点景として、階段の奥から、赤、或いは青の服の美女(らしき女性) がこちらへ降りて来ていたら、もっとよい。赤い風船を持った少女とそのパパなら、さらによい。

 

 ( 中世の趣の濃いイブラ地区 )

 「下の町」は、サン・ジョルジョ大聖堂のあたりが一番賑やかな所。

 この三層からなる大聖堂を設計したのはガリアルディという建築家で、大震災の後、被災・倒壊してしまったいくつかの都市の市民たちに、バロックの町として再生させようと、運動の中心になった人だ。

 

  ( イブラ地区の大聖堂 )

 震災の後、民主主義で、わいわいがやがやと、各自が自分の利ばかりを言っているうちは、何も起こらないし、良い結果は生まれない。誰かプロフェショナルな人を中心に据えて、わが町の「誇り」を再生しようと、みんなが心を一つにすることが大切なのだ。

  歴史を下部構造から説明したがる学者もいる。間違っているわけではないが、誰かがいないと大きなことは起こらない。その誰かが大切なのだ。坂本龍馬を歴史教科書から削除したい歴史家は、本当には歴史というものがわかっていないのだ。

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< シチリアの古都シラクサへ >

   ラグーサから、バスで1時間半ばかり。シチリア島の東海岸に出て、古都シラクサへ。

 シチリア島において、パレルモが東京なら、シラクサは千年の都・京都である。ただし、時は気が遠くなるほどさかのぼるが …。

 BC734年、シラクサはギリシャの植民市として建設された。

 BC4世紀に、地中海の雄カルタゴが大攻撃をかけてきたときには、セリヌンテもアグリジェントも滅ぼされたが、シラクサだけは持ちこたえた。

 その後、人口も50万人に達し、地中海世界の最大の都市となる。

 BC264年、シチリア島の争奪がきっかけで、地中海の雄・カルタゴと新興国ローマが激突した。戦いは20数年に及び、ローマが勝利して、シチリアはローマ世界の一員となる。(第1次ポエニ戦争 BC264~241)。

 ところが、20年後。カルタゴの将軍ハンニバルは、スペインで兵を養い、アルプスを越えて、北部イタリアに侵入してきた。ホームグランドでこれを迎え撃ったローマだが、2回の会戦のいずれにも壊滅的大敗北を期する。

 ローマの元老院は、この大敗の事実を市民に伝え、全市民が3日間だけ喪に服したあと、国家総動員令を発して、引退していた老雄ファビウスに総司令官を委任する。(第2次ポエニ戦争 BC218~201)。

 老雄ファビウスの取った戦術は、天才ハンニバルとは戦わないという作戦であった。「金魚の糞作戦」と言ってもよいし、「ヒット・アンド・アウェー戦法」と言ってもよい。 国家総動員令で招集された決死のローマ軍は、金魚の糞のように、ハンニバル軍2万数千人の後ろに付いて行軍し、ハンニバル軍が向き直ると、… 逃げる。ハンニバル軍がイタリアの町の一つを落としても、彼が他の町へ移動すれば、たちまちその町を奪還する。怖いのはハンニバル1人で、本来、ローマ市民軍は強いのだ。

 こうして、ローマは、10数年間に渡ってイタリア半島からハンニバルを追い出すことができなかったが、ハンニバル軍がイタリア半島を制圧することも許さなかったのだ。わずか2万数千人のハンニバルの軍勢では、2度の会戦の圧倒的な勝利にもローマが屈せず、次の手の各個撃破も阻止されたら、如何ともしがたい。見事な、老ファビウスの勝利である。ローマの結束がそれだけ固かったとも言える。

 この歳月の間に、1人の若者が成長する。スキピオと言う。父も、ハンニバルとの戦いで戦死している。

 若者は、アレキサンダーやハンニバルのような天才ではないが、秀才だった。どうしたらハンニバルに勝てるか研究し続け、ハンニバルの戦法を徹底的に分析し、学習し、マスターしたのだ。師は知らなかったが、言わばハンニバルの第一の弟子がローマ側に生まれたのである。

 国や企業の衰亡の要因の一つは、情勢の変化にもかかわらず、自らの成功体験に固執し続けることにある。

 勝てないけれども負けないという「金魚の糞作戦」で成功し続けていたファビウスと元老院は、1人の若造の主張をバカにする。これに対する青年スキピオの演説が、私は好きである。

 「私の考えでは、これまでに成功してきたことも、必要となれば変えなければならないということである。私は、今がその時であると考える」。…… 今こそ決戦の時、私に軍を与えよ!!

 こうして若きスキピオはハンニバルに決戦を挑む。スペインで、また、アフリカで。

 同じ戦法を駆使する者同士なら、敵国の地で心休まる時もなく、既に10数年間も戦い続けてきたハンニバルとその兵士よりも、若く、新鮮なスキピオ軍の方が強い。ローマは圧倒的に勝利し、以後、カルタゴの名は地中海世界から消えた。

 さて、この第2次ポエニ戦争の過程で、シラクサは、連戦連勝していたカルタゴ側に組するのである。

 だが、ローマは強い。ハンニバルがいないところでは、断固、攻勢に出る。ローマに背いたシラクサを包囲し、2年間に渡る攻城戦の末、シラクサを陥落させた。

 このときのシラクサ市民のなかに、あの「アルキメデスの原理」で有名なアルキメデスもいた。 伝説では、彼は次々と新兵器を発明して、ローマ軍を悩ませたと言う。

  シラクサ陥落の時、ローマ軍の司令官は彼を助けるよう命令していたのだが、結局、混乱の中でローマ兵によって殺されてしまう。

 だが、今、町には、アルキメデスの名を付けた立派な広場がある。当然のことだが、シラクサの町の誇りなのだ。

 さて、その後もシラクサは、ローマ時代、ビザンチン時代と、シチリアの州都であり続けるが、9世紀のアラブ人の侵入に対して徹底的に抗戦したため、州都はパレルモに遷され、県都でさえもなくなり、小さな一地方都市として細々と生きた。

  シラクサが再びシチリア島の東海岸の中心都市になるのは、19世紀のイタリア統一後である。ただ、東海岸の中心都市と言っても、現在の人口は12万人。古代の50万人には遠く及ばない。

         ★

シラクサ散策 >

 シラクサはもともとオルティージャ島という島に築かれた町であった。ただし、島と言っても、本土との間はヴェネツィアの運河程度の幅しかなく、2つの良港があった。ごく小さな島だから、周囲を分厚い城壁で囲めば、ローマ軍でさえ悩まされる難攻不落の町になった。

 海岸の岸壁に立ち、この海をローマのガレー船が埋め尽くし、城壁の中からは、アルキメデスの考案した新兵器も使って激しい抵抗が続けられた、遠い歴史を想像してみる。人間の歴史が茫々と霞んでくる。

 ( かつてローマ軍に包囲されたシラクサの海 )

 周囲を海に囲まれたごく小さな島なのに、なぜか清水がこんこんと湧き出て、籠城しても水に困ることはない。

 アレトゥーザの泉も、海岸から数メートルしか離れていないのに、真水が沸き出している。それで、古代ギリシャ人の伝説もあるのだが、パピルスが茂っていることでも有名である。

 この島の中心は大聖堂。夜はライトアップされ、海岸沿いのプロムナードと並んで、今ではこの辺りも、オシャレなカフェやレストランで賑わうそうだ。

  

   ( シラクサの大聖堂 )

 大聖堂の西正面はバロック様式。

 だが、堂内に入ると、古代ギリシャ時代の巨大な石柱が並んでいて、この大聖堂がもとは古代ギリシャ神殿であったことをうかがわせる。

 BC5世紀に建てられたアテネ神殿を、AD7世紀のビザンチン時代にキリスト教の聖堂に転用し、17世紀の大震災後に西正面をバロック様式で再建した。

 それにしても、ビザンチン時代の柱と比べるとき、古代神殿の柱の巨大さに驚かされる。これがBC5世紀の柱かと、手で触ってみた。

 

 ( ビザンチン時代の柱と壁 )

  ( 古代ギリシャ時代の柱 )

         ★

   人口が50万人にも達した古代のシラクサは、当然、島の外へと発展していった。

   島を出て、丘の方へ上がって行くと、古代ギリシャの野外劇場、ローマの円形闘技場、「天国の石切場」などがある。

   ギリシャ時代の野外劇場は、BC470年ごろに造られた。座席や階段は、すべて岩盤を彫り整えたもので、直径138m、15000人が収容できるという。客席の上の方からは、シラクサ市街と港が望めたそうだ。

 

          ( ギリシャの野外劇場 ) 

   イタリアには各地にこのような遺跡があり、夏になると、遺跡を利用して演劇やコンサートの催しがある。

   今、ここでもその準備で、今風の装置が置かれているのは、観光客にとって少々興ざめだ。だが、星空を見ながら、風に吹かれて鑑賞する演劇やコンサートは素晴らしいに違いない。 古代人がうらやましいくらいだ。 

 「天国の石切場」は、古代の採石場の跡である。そのうちの「ディオニュシオスの耳」と名付けられた石切り場跡が観光ポイントになっている。

  良質の石材が得られるところばかりを選んで掘り進んだため、深い洞窟になっており、洞窟内の反響がすばらしく、洞窟のてっぺんの小さな穴から、洞窟内の話し声がよく聞こえるという。ディオニュシオスは古代の僭主の名。政治犯をこの洞窟に閉じ込めて、彼らの内緒話を聞いたという伝説を受けて、このような命名をされた。

   ( ディオニュシオスの耳 )

 洞窟の前に100人くらいの小学生が遠足?に来ていた。引率の男の先生が、「中に入ったら、皆で声を合わせて大声で叫ぶんだ」 と言って、子供たちに声を合わせて叫ぶ練習をさせている。

 そのフレーズの中の1つ。「皇帝フェデリーコⅡ世

 シラクサの若い女性ガイドに聞いてみた。

 「皇帝フェデリーコⅡ世は、今、シチリアの人々に愛されているのですか?」

 彼女はうれしそうに答えた。「はい。とても」。

 こちらもうれしくなって、笑った。

 ここは、カソリックの国だ。フェデリーコは、その先進性のゆえに、ローマ教皇と対立し、戦い、キリスト教から破門された。彼が生きているうちはまだよかったが、死ぬと、その後継ぎたちは、教皇の意を受けた勢力に攻め滅ぼされた。

 それでも、シチリアの人々は、フェデリーコを自慢している。

 フェデリーコがやったことのなかでもすごいのは、時の教皇の再三の要請を断り切れずにだが、神聖ローマ帝国皇帝として第6次十字軍を率いて出征し、イスラム教徒のスルタンと話し合って、一滴の血も流さず、エルサレムを回復したことだ。もちろん、イスラム教徒のエルサレムにおける権利は認める。

 もっとも、教皇は、怒り狂った。イスラム教徒の血を一滴も流さずに講和を結んで帰ったことが許せないのだ。第1回を除いて、これ以前も、これ以後も、唯一、成功した十字軍だというのにだ。「反対の声は常に高く、賛成の声は常に低い」 (塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』から)。

 それにしても、時のスルタンも偉かった。開明的なリアリストだと思う。

 教皇には内緒だが、それ以後……、いや、既に出征するまでに、キリスト教徒の世俗界のリーダーである皇帝フェデリーコと、イスラム教徒の世俗界のリーダーであるスルタンが、肝胆相照らす仲になっていたことは確かだ。

 21世紀にもできないことをやってのけたのだから、偉い人たちと言うほかはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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