一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

小説「運命の端歩」

2021-03-18 00:43:56 | 小説
昨年夏に将棋ペンクラブ幹事のA氏と飲むことになったとき、A氏から「大沢さんが過去に投稿した作品を、自ブログに転載したい」との申し出があった。
それはありがたいことで、私は作品名を聞き、ハードディスクを漁った。しかしなぜか目的の原稿がない。A氏には「そのうち送信するよ」と言ったが、怠惰な私は、そのままほっぽらかしにしてしまった。
ところが今年に入り、A氏のブログで今回のやりとりが書かれ、私は苦笑した。A氏はまだ、この転載を目論んでいたのだ(言うまでもないが、A氏のブログはブックマークしている)。
私は作品名を確認するべく、当時のメールを見る。だが、メールでやりとりをしたはずなのに、そのあたりの記述がなかった。
実は、A氏がどの作品を欲しているのか、忘れてしまったのだ。恥を忍んでA氏にメールで聞くと、「○○ですよ!」と教えてくれた。
ああこれか。これは大昔、将棋ペンクラブ関東交流会でA氏と近くの席になったとき、A氏が唐突に私の作品のあらすじを述べるので、「それはオレが書いたやつだ」と言った。
「ええ、本当ですか!?」
A氏は大いに驚き、そこからA氏と私は親しくなったのである。
私は頭をかきながら、再度ハードディスクを調べる。だけどやっぱりなかった。だが、我がブログを検索すると、何と2011年11月4日~11月6日に転載していた。私のほうが先に、ブログで紹介していたのだ。
私はこの文章をハードディスクに戻し、多少の加筆訂正を行った。作品は生き物だから、いつ読んでも修正箇所は見つかる。ただここが難しいのだが、この初出は2003年で、私は30代。その時期にしか書けなかった文体みたいなのがあり、過度な訂正は当時の雰囲気を壊すことにもなる。
修正はほどほどに留め、A氏に送信したのだった。
かくしてA氏は自ブログで拙作を紹介してくれたのだが、そんなに反響はなかったようである。ヒトの評価はまちまちなので、この結果はしょうがない。
さて今回はこの拙作を我がブログにも、再掲しようと思う。約10年前に載せたものを、同じブログに再掲するとは、前代未聞であろう。
この作品は分量的にも3日分が適当なのだが、どうせ分けても、熱心な読者は2011年のブログに飛ぶだろう。よって少々長いが、一気に載せることにする。
なお転載に関しては、幹事A氏の了承を得ています。なんだかあべこべだが。


「将棋ペン倶楽部」2003年春号(会報39号)掲載

運命の端歩    大沢一公

あれは私が黒縁から銀縁のメガネに替えたころだから、中学2年の夏だったと思う。
当時ウチの近所のマンションに、昭和44年に亡くなった祖父の、姉夫婦が住んでいた。当然ウチとの付き合いも深く、奥方はよく、家に遊びに来ていた。
旦那さんは、かつて区議会の議長も務めたほどの人物で、近所ではちょっとばかり名の知られた存在だった。家にある名刺を見たことがあるが、たいそうな肩書がいくつも並び、圧倒されたものだ。ただ父は、その「肩書羅列」を快く思っていなかった。
ご夫婦とも80歳近い高齢だったがいたって元気で、生年月日がわずか2日違いのおふたりが、揃って100歳を迎えることを、私は信じて疑わなかった。
そしてこの旦那さん――おじさんが無類の将棋好きで、父をときどき自宅に招いては、将棋を指していた。
いっぽうの私は、いよいよ将棋を本格的に趣味にしだしていて、駅前の将棋センターに通って腕を磨いてはいたが、300円という席料は中学生の身分では大きく、月に2度もお邪魔できればいいほうだった。
むろん「将棋は文化」なので、父が一緒に行くときは私の席料も負担してくれたが、所詮これは遊びである。小遣いが少ないのは弟も一緒なのに、私ばかりが優遇されるわけにはいかなかった。
父はおじさんとの将棋も続けていたが、帰宅すると父は決まって、おじさんのマナーが悪いとこぼした。曰く、立派な駒台があるにもかかわらず持駒を握る、平気で待ったを繰り返す、形勢が悪くなってくると暴言を吐く……などだった。たしかにそれは、ホメられた言動ではなかった。父はじっくり考えるタイプなので、早指しのおじさんは、イライラしていたのかもしれない。
「じゃあボクが代わってもいいよ」
父はあまり私と将棋を指したがらなかったので、おカネがかからず将棋を指せる手段を求めていた私は、ある日父にそう切り出した。
父は驚いたふうだったが、おじさんを持て余していた父には渡りに船の申し出だったらしく、私の希望は、簡単に受け容れられた。
ある日の日曜日、いつものように電話で呼び出された父は、私を伴い、おじさんのマンション宅に出向いた。
入室すると挨拶もそこそこに、父が私を後ろに控えて一局指し始める。
おじさんは、頭はすっかり禿げて、短い白髪がポツポツ生えている程度。腫れぼったい目をしていて唇が分厚く、頬がたっぷりとたるんでいた。耳が遠いこともあってか声がやたら大きく、棋士のイメージでいうと、最晩年の角田三男八段、という感じだった。
使用している将棋盤は、六寸は優にあり木目も美しく、桐箱の裏には木村義雄十四世名人の揮毫がしたためてあった。駒台は四本脚で飴色の光沢を放っており、盤と合わせて、相当な名品であることが見てとれた。
駒のほうも銘の入った掘り駒で、数十万はする逸品だと、一目で分かった。
その将棋が終わると、父が
「実はせがれも将棋が好きでして、今後はアタシの代わりにせがれを鍛えてやってもらえませんか」
とおじさんに言った。
おじさんはびっくりしたふうだったが、まあおじさんとしては、将棋を指せれば相手は誰でもいいわけで、父の申し出は即、快諾された。
やがて父が御役御免と退室し、いよいよおじさんと私の勝負が始まった。
父の長考にケチをつけるだけあって、さすがにおじさんは早指しだった。もっとも早指しだったら、私も負けてはいない。私も数秒でポンポン指した。
「おめえはオヤジと違って早指しでいいや。おめえのォ、オヤジさんはァ、考える時間がァ、長くていけねえや」
記念すべき1局目が終わると、おじさんが、べらんめえ調のカン高い声で言った。
この勝敗は忘れたが、おじさんは思っていたより強い、と感じた記憶があるので、恐らく私が負けたのだろう。
早指し戦なので、もちろんまだまだ指す。勝ったほうの傍らにマッチ棒を置き、負けたほうは次局で先番に回る。マッチ棒の数イコール勝数というわけだ。
こうして私たちは、どんどん将棋を指していった。
おじさんの将棋は単純明快で、戦法は原始中飛車と原始棒銀、このふたつだけだった。
昭和41年に池田書店から発行された大山康晴名人著「将棋の受け方」には、これらの戦法の撃破指南が真っ先に書かれていたから、当時はこれらがよく指されていたのだろう。
しかしいまから20年前の昭和50年代では、すでにアマ棋客の戦法は洗練されており、このような奇襲戦法の使い手はいなかった。
ところがおじさんは、かくのごとくである。しかも原始中飛車か原始棒銀のどちらかならまだしも、両方得意にしている人がいることに、私は強い関心を持った。
さらにこの二大奇襲戦法、最初はナメてかかっていたが、意外に奥が深い。原始中飛車の撃退法は先の本で勉強済だったが、やはり実戦は生き物だ。銀交換後の△5七銀の打ち込みに、▲6七金△6八銀成▲同金上△5七銀▲5八歩△6八銀成▲同玉と進めて、ここまでは本に書いてあるとおり、私が指し易くはなる。
ところがそこからおじさんの左桂がポンポン跳ねてきたり、端に角を覗かれたり、右銀が応援にきたりと、なかなかおじさんの攻めが振りほどけないのだ。
原始棒銀も然りで、当時私は四間飛車を愛用していたが、△8四銀から△7五歩の攻めが、分かっていても受けられなかった。
まあそれも当然で、当時の私は、「攻められた筋に飛車を回す」という受け方を知らず、飛車をずうっと6筋に据えて戦っていた。これでは攻め潰されても仕方がない。当時の私の棋力は、その程度だったのである。
それに考えてみれば、いくら奇襲戦法とはいえ、おじさんも目立った悪手を指しているわけではないので、そう簡単に優劣が決まるものでもなかったのだ。
同時に私は、奇妙な感慨に捉われてもいた。
将棋は子供からお年寄りまで、ハンデなしで戦いができる稀有な競技である。おじさんも、戦前から将棋を指していたはずだ。
そしてその将棋もいまのように、居玉のまま中飛車や棒銀で、バンバン攻める将棋だったに違いない。
その将棋が半世紀余の時を越え、60歳以上も年下の私を相手に、再現されている――。
まるでおじさんがタイムマシンで現代にやって来た感覚に陥り、私は何か、不思議な気持ちになった。
結局この日は夕方まで20局近く戦い、私の4割程度の勝率だったと記憶する。当時父の棋力が1級か初段、私がそれよりやや強い程度だったから、おじさんの棋力も、初段は十分にあったことになる。
だが私は、お年寄り相手なら勝ち越しは当然と考えていたから、この成績は正直言って不満だった。でも、とても楽しい時間を過ごすことができた。
帰り際、
「おめえはなかなか強えや。初段、初段の力はあるな」
と、おじさんが言った。「来週もまたやろう――」
とにもかくにも私はこの日、おじさんの新しい対局相手に、合格したようであった。
次の日曜日、おじさんから私に、将棋の電話があった。もちろん、NHK杯将棋トーナメント戦を観たあとのお誘いである。私は二つ返事でお邪魔した。
前回はしくじったが、今回は私も負け越すわけにはいかない。私も弱いなりに考え、棒銀のほうも対処法を見出していた。
△8四銀から△7五歩▲同歩△同銀▲7六歩に、△8六歩から8筋を破られてしまうわけで、それなら予め8筋に備えておけばいい。
そこで私は、四間飛車から向かい飛車に作戦を変更した。これなら前述の△8六歩にも、堂々と▲同歩と取れる。繰り返すが、△7五歩に▲7八飛と回る指し方を習得するのは、後のことになる。
素朴な▲8八飛作戦に窮したおじさんだったが、今度は△9五歩から攻めてきた。しかしそれこそ無理攻めで、私は堂々と▲同歩と応じる。以下△同香▲同香△同銀に、私は澄ました顔で▲同角と取ってしまう。と、おじさんが慌てて待ったをしたのが可笑しかった。
父が嫌悪していた「待った」が出たわけだが、私はそれほど憤りを感じなかった。待ったが終盤の一手違いという局面ならともかく、たいていが単純な見落としだったし、仮に終盤だったとしても、おじさんが待ったをしたときにはすでに筋に入っていて、1手や2手のプレイバックでは、とうてい形勢を覆すことはできなかったからだ。むしろおじさんの待ったが出ると、一本取ったようで愉快だった。
また、おじさんが常に持駒を握っている件も、盤面と自分の持駒を見ればおじさんの持駒も分かるわけで、とくに不便は感じなかった。
さらに言葉遣いのひどさも、おじさんのべらんめえ口調がしわがれ声で増幅されて下品に聞こえるだけで、これも痛痒を感じなかった。
このときは、指し分け程度の成績だったと記憶する。
こうして日曜日の午後になると、おじさんに将棋を呼ばれる生活が定着した。
昼過ぎから夕方まで、将棋、将棋、将棋。お互い早指しだから、何局も指す。感想戦も一切しないので、負けを悔しがる暇もなく、すぐに次の対局を始めるという按配である。それを奥方が黙って見ている、という構図だった。たまに遅い昼食をご馳走になることがあったが、ご夫婦といっしょはちょっと、居心地が悪かった。
とにかく、時間が経つのを忘れるほど、おじさんとの将棋は、楽しかった。
とはいえ日曜日になってもこちらからは畏れ多く将棋のお願いはできないので、おじさんからの電話を待つばかり。しかしおじさんだって毎週自宅に居るわけではないから、私も待ちぼうけを食わされるときがある。
だが私が不在のときに、もしおじさんからお誘いの電話が来たらと考えると、外出することもできなかった。私にはおじさんとの将棋が、生活の柱になっていたのだった。
ところでこの頃、私の棋力は上がったのか。
先が見えているお年寄りと、伸び盛りの中学生では、同じ将棋を指していても、吸収する力が違う。
おじさんは角筋を違えるなど指し間違いが多いのが玉に瑕だったが、実戦で鍛えた賜物か終盤は妙な力があり、一通りの寄せ形は体が覚えている感があった。ただ攻め将棋だけに、逆に攻められると案外受けが脆かった。高齢ゆえ読み抜けも多く、また私のほうも終盤には自信があったので、序中盤で劣勢でも、最終盤で私がうっちゃる、という展開が多かった。「逆襲喰らっちゃった逆襲喰らっちゃった」が、おじさんの常套句になっていた。
また、若き日の大山少年が、升田幸三青年の強烈な攻めを受け続けて受けの力を蓄積していったように、私もおじさんの攻めを受けることで、いつしか手厚い将棋を体得していった。
手こずっていた原始中飛車にも、定跡の受けには誘導せず、金銀を手厚く盛り上げ、おじさんの攻めをいなしていった。
さらに棒銀の△7五歩には、飛車で7筋を受けるということも学習したので、それなら最初から7筋に飛車を振ればいいと、三間飛車や石田流も採用してみた。
そうしたらこれが図に当たって、連投したら14連勝した。私の棋力と勝率は、確実に上向きを続けていたのである。
ある日の対局のことだった。私の▲7六歩、おじさんの△3四歩に、私がうっかり▲7八銀と上がってしまい、△8八角成と角をタダで取られたことがあった。一言「角がタダだ」と言ってくれればいいのに、おじさんはそんな甘いことは言わない。何で勝っても勝ちは勝ち。貴重な1勝として、マッチ棒を獲得できるからだ。
よしそれなら、と私も指し継いだ。ところが将棋というのは恐ろしい。このどうしようもない将棋が、おじさんの楽観と私の猛追で、何と私が勝ってしまったのである。
「信じられん…」
投了後、おじさんが呆然とつぶやいた。
そしてこの一局が、どうやらターニングポイントになったようである。
この次の日曜日におじさんと指し、はじめの数局を私が全勝したときのことだった。
「おめえ、ためしに角を落としてみるか」
と、おじさんが提案してきたのだ。「あまりにもこう負けが込んできちゃ、指してても面白くねえや」
プライドの高いおじさんには屈辱の言葉だったに違いないが、意地を張って中学生の若造に負け続けることは、それ以上に屈辱的なことだったのだ。
むろん私に拒否する理由はない。こうして、おじさんとの初対局のときには夢にも思わなかった、私の駒落ちが実現したのだった。
平手から角落ちの手合いはハンデが大きそうに思えたが、指してみると案外いい勝負になった。おじさんが棒銀で来ても、目標となる角がいないので、攻めが空振りに終わるのだ。
また、地位が人を作るというが、上手を持つと将棋が強くなった気がして、ゆったりと局面を見ることができた。中原誠名人になった気分で手つきを真似したりすると、不思議といい手が浮かぶのだった。
そしてこの後おじさんと将棋を指すときは、はじめの数局を平手、以後は私が角を引くというスタイルが定着したのだった。
早いもので、おじさんとの初対局から、1年余りが経過した。対戦成績は、私が角を引いても、勝ち越しをキープしていた。
ところがこの時期、ある問題が静かに進行していた。このとき私は中学3年生。当然高校受験を控えていたが、日曜になるたび私が将棋を指しに行くので、母がヤキモキし始めたのだ。そろそろ受験勉強に専念しなさい、というわけである。
だが私は学校の成績は悪くなかったし、平日には学習塾にも通っていた。日曜日ぐらいは羽を伸ばしたかったのだ。いや、本当は休みの日こそ受験勉強をしなければならないのだが、私は当時から、ちょっと異質な考えをするところがあった。
だけど親の意向には逆らえない。そこで両親との話し合いをした結果、私が高校に合格するまで、おじさんとの将棋は中断することにした。後日父がその旨をおじさんに告げに行くと、おじさんも了解してくれたようである。
これでコトが丸く収まりよかったが、私が受験勉強に励んでいる間、おじさんに新たな好敵手ができて、私がお払い箱になったらどうしよう――。そんなことを、当時は本気で心配した。
翌年春、私は運よく志望校に合格した。この間は父が代理で将棋を指しに行ったこともあったが、おじさんには新たな好敵手も定着しなかったようで、私は再び、おじさんと将棋を指せる運びとなった。
ところが……。
そんな矢先の、ある日曜日のことだった。例によっておじさんに電話で呼ばれ、私はマンション宅に出掛けた。この日が結果的に、マンションを訪れる最後の日になろうとは、このときは夢にも思わなかった。
おじさんと数局戦ったところで勝敗が偏り、定跡どおり私が角を引いて、対局が再開された。
その何局目かで、事件が起きた。
その将棋は、序盤早々おじさんに悪手が出て、早くも私の必勝形となった。しかしその後、私の楽観とおじさんの追い上げで、あれだけ良かった将棋を逆転されてしまったのだ。私はかなり、アツくなっていた。
ところがおじさんも寄せをグズり、将棋は一手違いの終盤戦となった。
私がおじさんの玉に必至を掛けると、おじさんの王手ラッシュが始まった。私は丁寧に応接し、玉を1四まで逃げのびる。
もうおじさんの持駒は歩だけで、後続はない。▲1五歩打は、打ち歩詰めだ。よし、何とか猛追を凌いだ……と、勝利を確信した、そのときだった。
何とおじさんは、▲1五歩と打ってきたのである。
「お、おじさんこれ、打ち歩詰めですよ!」
私は興奮して叫ぶ。ところがおじさんの次の言葉は、私を慄然とさせるものだった。
「端の歩はいいんだ!」
何ィ!? バカな! 何を言いだすんだ!?
「そ、そんなルールはありませんよ! 打ち歩詰めはどの筋も禁止です!!」
私は再び叫ぶ。しかしおじさんも負けてはいなかった。
「いやいいんだ、端の歩は詰みなんだ!!」
私の主張に耳を貸さず、おじさんは妙な理屈を持ち出して、自分の勝利を主張してきたのだ。
端の打ち歩詰めは有効――。
ローカルルールならそんな決まりもあるかもしれない。しかし、打ち歩詰めはどの筋も禁止である。「待った」ならいくらでも許すが、勝手なルール変更は許せない。ましてや自分が勝ちの将棋を、負けましたと頭を下げるわけにはいかない。
いやこの将棋が、序盤から私の敗勢で、打ち歩詰め以外でもこちらが負けだったなら、私も穏便に済ませていただろう。
しかし本局は、一手違いの終盤である。しかも必勝の将棋が二転三転し、私も相当頭に血が上っていた。冷静さを失っていたのだ。おじさんだって、似たような心理状態だったと思う。
しばらく同じやりとりをしたが、埒が明かない。いままで、おじさんのマナーはひどかった。私もこれまで冷静に対処はしていたが、本当は心のどこかに、不満を溜めこんでいたのかもしれない。いよいよ逆上した私は、言ってはいけない言葉を、おじさんに吐いた。
「何だよ!! こっちはただでさえ角落ちで指してやってるのに、ヘボ将棋!!」
私はそう叫んで立ち上がると、呆然としている奥方の脇を抜け、マンションを飛び出した。言ってしまった! 言ってしまった! しかし、吐いた言葉はいまさら回収できない。私は帰宅の道すがら、早くも後悔の念に苛まれたが、もう遅かった。
帰宅後、この一件を家族に話すと、父は「お前だってヘボ将棋じゃねえか」と苦笑した。また母は「たかだか将棋のことで……」と呆れた。
以後、おじさんから将棋の誘いはパッタリとなくなり、結果的にあの一局が、おじさんとの最後の将棋になったのだった。
それから数ヶ月が経ち、私は高校2年生になった。おじさんとの後味の悪い別れ方は、しこりとして常に私の頭に残っていた。しかし意地でも私から謝るわけにはいかない。暴言を吐いたことは悪かったが、打ち歩詰めの件は、こちらに非はないのだ。
しかし落ち着かない私は、翌年の正月、おじさんに年賀状を出した。年頭の挨拶のあと、高校では将棋部の部長として頑張っています、と当たり障りのないことを書いた。
するとしばらくして、おじさんから返事が来た。その豪放な性格からは想像もつかない、綺麗な字だった。あるいは、奥方の代筆だったかもしれない。
年賀状には、型どおりの挨拶が書かれていた。だがそれだけで、私は十分満足だった。これで私は、自分自身の心に、ひとつの整理をつけたのだった。
それから1、2ヶ月経ったころだった。私が高校から帰ってくると、机の上に、湿布薬のビニール袋が置いてあった。中を開けると、1969年の黒革の手帳と、米長邦雄棋王の将棋の本が2冊入っていた。
手帳を開くと、週刊誌に掲載されていた大山十五世名人の詰将棋が貼られていた。肩書が永世王将や十段だったので、昭和48年から49年にかけての発表であろう。数えてみると、計35題あった。
そして米長棋王の著書は、「角換わり」と「振り飛車」の、「必勝定跡集」だった。
祖母に聞くと、珍しくおじさんが訪れ、これを置いていったのだという。だがスクラップによるお手製の詰将棋本は、本人の愛着も強いはずで、こんな貴重品を貰っていいものかどうか、私も戸惑った。
しかしおじさんは、私から年賀状を貰って、とても喜んでいたと人伝に聞いた。これらは、その御礼の意味もこめられていたのかもしれない。私は、ありがたく頂戴した。
昭和61年10月、私の祖母が闘病の末、死去した。現在は葬儀場でお通夜や告別式をやるのがほとんどだが、むかしは自宅で行うことも多かった。ウチももちろん後者で、おじさんには葬儀委員長をお願いした。
おじさんがウチに来るのは久しぶりだった。そして私とは、あの一局以来の再会となった。おじさんが弔辞を読み、葬式が終わり一段落すると、おじさんは私を見つけて、将棋やってるか、と言った。
私が、はいと答えると、ウン、ウン、とおじさんは言った。
その目は、あのときのことは水に流そうや、と語っているように思えた。そしてこれがおじさんとの、最後の対面になった。
その数年後、おじさん夫婦は静かにマンションを引き払い、田舎に居を移した。
平成4年4月16日、おじさんが亡くなった。享年92歳。その5年後の平成9年2月、奥方も97歳の天寿を全うした。夫婦そろっての100歳は叶わなかったが、おふたりとも大往生だったと思う。
今でも考えるときがある。
あの最後の将棋、おじさんは本当に打ち歩詰めのルールを知らずに、歩を打ったのだろうか。
あの瞬間、早指しのおじさんが少し考えた。そして躊躇しながら、私の玉頭に歩を打ったように見えたのだ。
序盤早々必敗の将棋になったのを、必死の勝負手で盛り返し、最後は勝ちまであった。この将棋を再び負けにするのは納得できん――。
そう諦めきれなかったおじさんが、禁じ手を承知であえて歩を打ったことは、十分考えられたことだった。
だがそのおじさんも亡くなり、その真相は、永遠の謎になってしまった。
おじさんが愛用していた木村十四世名人揮毫の六寸盤は、今どこにあるのだろう。私が譲り受ける資格は十分にあったと思うのだが、全然声は掛からなかった。
最初は平手から始め、最後は私の角落ちまでいった将棋だが、おじさんの私への棋力認定は、最後まで「初段の力はあるな!」だった。
結果的におじさんの形見になってしまった、大山十五世名人の詰将棋集と米長永世棋聖の著書は、当時の湿布薬の袋に入ったまま、今も私の机の、抽斗の中にある。
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