謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

2月後半

2012年02月27日 | 雑記帳

例年、2月は色々あります。14日は妹の介護認定立会いで、うらら多磨へ。従って火曜ウオークは欠席。

17日は、会報2月号の印刷。18日は船橋歩こう会の総会と総会ウオーク。総会では一緒に監査役をやっている椎名さんが欠席。彼は歩きにハンデがでてきて、今は要支援 1 の認定を受けており、ケアーセンターに通っています。総会では監査報告をするべく、センターに通う傍ら毎日7kmほどを歩くなどのトレーニングを行っていたが、両腿に硬直が出始めた。硬直が出ると動けないだけでなく、10分~15分のマッサージをしなければ何も出来ない状態なそうです。「今年は壇上に上がって」とリハビリを念入りにやってきているので、両脇から抱えてでも壇上につれて行こうと思っていたのに、本当に残念でした。最近は人に迷惑ばかりかけるのでそれを避けるために人混み恐怖症のようなものがあるとも言っていました。健常な頃は、目の不自由な人を手をとってウオーキングの伴侶になるなど、ウオーキング弱者の杖ともなって尽くしてきた人だけに、何んともいたわしい限りです。  ウオークの部では、総会に参加しなかった人が続々参加して結構賑やかになりホッとしました。

17日はまた、旧制札幌一中の学友である斉藤英夫君が亡くなった日でもある。戦前、戦後を通して苦楽を共にし、また室蘭工大でも科こそ違え同期の仲だった。卒業以来、約40年間は皆夢中で働いていたのでお互いの連絡はなかったが、それぞれ閑職につきだしてから、東京周辺の同級生が集まって「手稲会」なる会をつくり、その初代幹事が斉藤君だった。永久幹事ともいわれていた。彼は世話好きでもあり、有志でオーストラリア、ヨーロッパ、北米と旅行した時も大いに尽くしてくれた。後年、腰を悪くしてからは幹事はやめたが、常によい相談相手でした。お通夜は20日夜、告別式は21日の昼(従って ほの歩の会 は欠席)、何れも参加して見送った。これで手稲会員で故人となったのは会結成以来7人、現在残っているのは12人になってしまった。

22日は、妹が近いうちにデイサービスを受けることになったので、その打合わせに うらら多磨 へ行き、翌23日は、午後あさひ苑で契約をした。

24日は3ヶ月ぶりに青山病院へ行き、内科定期診察を受け、異状なし。

25日は ほの歩の会 の皆さんにも沢山前売り券を買ってもらった、例年の友の会のコンサート。今年は加古 隆 クァルテットコンサート。 クァルテットとはどういう意味か分からなかった。相川麻里子(ヴァイオリン)南かおり(ヴィオラ)植木昭雄(チェロ)の3人が同時演奏。加古隆作曲のものばかりなので、耳慣れぬものが多かった。「パリは燃えているか」が「映像の世紀」のテーマ曲なそうで、これだけが唯一、聞いた覚えのある曲だった。それでもやはり音楽は良い。かなり胸に響いた。

26日は うらら多磨へ 行き、割りに暖かかったので、妹を近くの野川公園へ連れ出し歩行訓練を兼ねて散歩をさせた。回を重ねればもっと良くなるだろう。

27日は、午前は毎週の気功に行き、午後はこれも3ヶ月ぶりの船橋総合病院の耳鼻咽喉科受診。吸入と薬。

明日は、午前はほの歩の会、夕方は上記手稲会の月例飲み会に出席予定。