謙のわがまま日記

マナイゲルをつくる会・手稲会・船橋歩こう会・大和山の参加記録。旅先の感想・記録。その他気楽な手記。

ブログ再開しました

2017年05月29日 | 雑記帳

随分と長いこと休みました。2015年3月14日依頼、実に2年2カ月振りの更新です

この2年間と現状を一言で報告しますと、以下の通りです。

2013年5月29日~6月1日までの最初で最後の抗癌剤治療を終えてから、抗癌剤は一切中止したのは正解だと思う。抗癌剤を止めてから医療センターでの毎月または1ケ月半毎の検査ではあまり変化はなかった。今は殆ど2カ月毎の検査だが老年なので癌の進行は2ケ月くらいでは殆ど分からない程、遅い。

2015年3月4日、滝不動病院へ入院しての痔核手術は想定外の事が起こった。

僅か一週間の入院で体力が急降下。全身がだるくて自分の身体のようでなく、食欲は全く無く、歩行力は衰え、上半身にも力がはいらない。何をやるにも無気力でうまくゆかない。排泄のほうもあまりスムーズにはゆかなくなった。

これがうつ病の始まりとなった。

その間、2015年1月~2016年2月までのネフローゼ、~16年9月までのうつ病、などを体験、克服した。 この間2015年5~7月は40日間青山病院へ点滴に通った。 (偶発的には心室性期外収縮(散発)もあった)

2016年2月以降、体力は徐々に回復し、食欲は完全に回復、脚力も良く、普通の身体になった。

だが、それ等が治りかけた頃から、大量の痰を伴う咳がでるようになり、それは日々激しさ増してきている。

その後、胸の痛み、息切れ、疲労感などの症状が出てきた。これらの症状は同じ右肺内の腫瘍が徐々に進んでいることを示す。

以上が現状です。しかし、咳と痰に悩まされる時以外は、外見は普通の健康人と同じです。

4月末から5月上旬にかけては本当に不幸が続いた。4月29日には旧友の菊池幸雄君(元気象庁長官)が、5月2日には兄嫁の成子さんが夫々逝去した。又、4月29日には府中の泉苑で療養中の妹・純子急変の報あり。重ねて見舞いに行くもどうすることも出来ず、5月10日11時15分に純子は静かに永眠した。 この間、5月4日には、菊池君のお通夜、5日には成子さんの告別式があった。純子の場合は、斎場と火葬場の関係で遅くなり、21日にお通夜、22日に告別式を行った。遺骨は納骨の日まで我が家に安置することにした。妹・純子の80年間の人生を想う時、共に暮らした日々は少なかったが、この悲しみは深い。そして長く消えないだろう。


痔疾で入院

2015年03月14日 | 雑記帳

2月の14日・15日は大和山東京東部支部壮年部の年1度の研修会があった。この前後胃の状態少し気になるところはあったが、無事通過・  そのあと肛門の異常あり。つまり痔疾が始まった。痔は私の長年の持病です。持病ではあるが、さほど苦しまずにきた。それは対処法があるからで何のことはなかったからです。私の痔疾は内痔核、所謂いぼ痔です。これが肛門の中に納まっているうちはよいが、肛門からはみ出すと非常に不快であり痛さもある。この状態を脱肛といいます。この脱肛も軽いうちは紙などで押し込むと肛門内に納まる。この状態が何十年と続くのです。

しかし、だんだん重くなってくるとこれがなかなか納まらない。ついには脱肛の状態が戻らなくなる。この脱肛状態の不快感、憂鬱感、苦痛は経験者でなければ分からないでしょう。そうなるとt、風呂に入って浴槽のなかで押し込むしかありません。これは普通の生活ではないが私は10日間ばかり実施した。他に方法はなかった。

2月18日、船橋肛門胃腸病院へいったが、手術以外に治る手はないと思い23日に手術をお願いしたが、満員で4月半ばまでは出来ないとのこと。それで24日、南美咲の滝不動病院へ行って手術をお願いし3月4日入院と決まった。

手術は翌5日に行った。痔核根治で腰椎麻酔で行ったので痛みは皆無、何をされたか待ったk分からず。時間は45分位か。術後、便がなかなか出なくて気をもんだが3日後には浣腸で路をつけてその後は順調。入院7日にして11日に退院した。手術をしてもすぐに元通りにはならないのは仕方がない。それよりも、一週刊も寝てばかりで歩いていないので、歩行力の減退には驚いています。10日も寝ていたら歩けなくなろかもと思うくらいです。歩かねば歩かねばと思い、3日程前から1時間の歩きを実施中。病み上がりの歩みは遅く、時速1.7kmくらい。これが精一杯です。

この後は、妹の用事がつまっている。自立支援と障害者手帳の更新、介護支援会議。3月末期限のものもあるので急がねばならない。


2カ月ぶり

2015年01月18日 | 雑記帳

昨年12月には一度更新したものと思っていたが、無いのにびっくり。よくもさぼってものと思いつつ2カ月ぶりに」更新します。これくらいご無沙汰すると、自分のブログを開くにも戸惑いがあり驚きでした。

12月中は、足のむくみと胃の不調は相変わらず、何の好転もない。12月12日の定期診察の際に”絶不調”を訴えたが「すべて肺癌からきていることなので」と涼しい顔。見直すわけでもなく、再検査することもなく、利尿剤を新たに処方したのみ。それでも少しの変化だ。尿の出方は少しくよくなったか?それでもむくみは一向に減らないどころか、益々腫れ上がるのみ。それでも「心配ありません」という言葉を信じて過ごした。胃の状態も変わらず、3食にⅠ食は全く食欲が出ない日が続く。この状態では歩行もだんだん困難を感ずるようになり歩みはますます遅くなる。少しの坂や階段の上りにも疲労を覚え、まことに生活がしにくい。歩みはいままで自宅から東船橋駅まで15分未満で達していたものが今では25分以上もかかる。

それで、今年1月9日(金)の定期診察の時に、足のむくみと胃の不調を再度訴えた。すると、どうだろう。肝臓は大丈夫か?とかリンパがとどこおっているとか、3日月半続けた「心配ない」との言葉は無かったのごとく、ついには「心不全」のどうのの言葉まで飛び出した。もはや、この医師を頼ってはいけない、と即座に判断した。その気持ちが通じたのかどうか、「医療センターに相談してください」ということになった。頼んで紹介状を書いてもらった。

その紹介状を持って、16日(金)医療センターへ行った。「肺癌が元だから仕方がない」と言わずに、よう調べてくれるように問診書に書いてだした。ところが、こちらの医師も同じようなことを言う。何か原因がある筈だからと言って、血液検査、尿検査、X-Ray検査をしてもらった。尿検査の結果、むくみの原因が見つかったようだ。来週、船橋総合病院の腎臓内科へ行くことになった。紹介状を書いてもらった。調べればわかるのだ。医療センターは、腎臓内科を診るのは月の最初の火曜日のみだそうな。大病院も案外不自由なことが分かった。それでも、頼めばすぐ調べてくれて、すぐ対応するところは、小病院とは違う。いままで通りだったら、衰えるに任せていたことだろう。それを脱したことはまずはめでたし。

という訳で、むくみの方は、いくらか明るい兆しが見えてきた。むくみの結果は2月3日(火)に報告することになっている。胃の方も、その後医療センターの眼で検査してもらおう。

1月11日(日)は、大和山東京教区の合同例会があったので出席。携帯電話が鳴って、娘が突如来訪し、家に入って待っているとのこと。午後の直会を欠席して、弁当を貰ってすぐに帰った。薬が変わったので持ってきてくれたものである。親孝行な娘を持って幸せです。

どうのこうのしているうちに、今年も友の会のコンサートの話が持ち上がった。昨年は何故かなかったが、今年はある。今年は天満敦子さんおヴァイリンが 2,800 円で聴かれる。

毎年家内が前売り券の売りさばきに苦労していた。一昨年までは、私が歩のぼの会に属して歩いていたので、廻りの歩友に声をかけて、幸いにも音楽愛好者が多く、また皆さんの同情もあり、多数さばけていた。今年は歩のぼの会にはご無沙汰しており、どうかと思われたが、思い切って声をかけたところ、10枚もの売れ行きとなった。これは年代を越えた友情の賜物です。一年置いたにもかかわらず、歩きに出ていないにもかかわらず、リーダーのラスプチンさん、音頭をとってくれたemikoさんには感謝あるのみ。 前売り券は27日(火)にウオークの集合場所、新津田沼駅に持参する。

以上の他、大和山壮年部の研修旅行の下見や段取り、衆議院議員選挙などあり、妹の所へは12月は4度、1月はきょうまで2度行った。何れも行動はできるが、足も身体も重い。早くむくみを取り,胃を快適にしなければならないが、焦らず、諦めず、そして明るく行くつもりです。。    

 

 

 

 

 


10月の日記

2014年10月24日 | 雑記帳

夏の暑さをすっかり忘れるような季節になりました。秋は果物が美味しい。その美味しい果物も、足のむくみにはあまりよくないようなので控えめにしています。まだ今年の柿を食べていない。

10月は台風が2度来た。6日と13。何れも前触れの割には大して威力はなかった。特に2回目は夜中に通過していったのであまり実感がなく幸せなことでした。千葉県のこの辺りは本当に自然災害が少なくて感謝です。

10月7日(火)近くの青山病院で健康診断を」受けた。その結果を17日に説明を受けた。この時の胸部X-ray検査は7月25日以来の久しぶりの検査でした。その前は1カ月毎に医療センターで検査して、その度に”異常なし” だったが、この度は違った。同じ右肺の中で、癌が転移して腫瘍の面積が増えた。CTでないので数値的にはわからないが、元の癌の1.5倍程が転移しており、見た目では全体で肺の約 1/3 弱程を占めている。抗がん剤を止めてから約1年3カ月も”異常なし” できていたので、少なからずショックだった。しかし、これは自然の成り行きで基より覚悟していたこと。この後も明るく正しく生きるだけ。

10月19日(日)は比叡山延暦寺の根本中堂で、大和山献油式があり、これに参列した。これは毎年行われることであり、毎年参加し、その都度ブログにも書いているが、その趣旨は比叡山で1200年来灯し続けられてきた「不滅の法灯」を永久に灯し続けいく為に、その燃料である菜種油を献納するものです。献納したのは菜種油 546 リットル(1年分は540 リットル)、行者草鞋1200足、蓮華傘1傘です。この経緯は、大和山の初代教主が第253世天台座主山田恵諦猊下に、「この献油を1000年続ける」と約束して今年は30回目に当たります。従ってこの献油式はあと970年続くことになる。今年は30回目の節目に当たるので大和山教信徒が400~450名が参加した。この行事は、中は撮影禁止なので写真はない。参考資料となる写真は転載禁止なので掲載不可。

これに参加するために17日(金)の夜、団体バスで上野駅を出発して、翌18日(土)早朝、琵琶湖ホテルについて休憩、入浴、朝食。昼近くに比叡山に着いて昼食、午後は菜種油の搬入式(手渡しで根本中堂へ入れるだけ)をして、その日の宿泊は琵琶湖ホテルと比叡山宿舎に分かれた。本番の献油式は19日(日)の10時から11時まで1時間、根本中堂で行われた。帰りのバスは13時ころ比叡山を出発。途中混んだので東京駅へ22時頃到着。家に着いたのは23時30分頃でした。参加者は団体バスの他にも夫々、新幹線、自家用車、などで参加する人が関東の場合は略半数弱でした。

これへの参加には、私はⅠケ月前から足も腫れており、出発の日の午前に症状の変化も聞いたので、正直少し躊躇った。しかし、足のほうはドクターショールとかいう、むくみ矯正兼防止のソックスを数日前から着用していて、調子が良かったこと。また症状の方も、少し息が上がるくらいで自覚症状がないので、これが最後と思って参加しました。 このあとは11月始めの東京東部支部の大和山バザーです。今年はあまり手伝いは出来ないが、ゆっくり楽しもう。

 


9月その後

2014年10月04日 | 雑記帳

9月のいつ頃からか、足のむくみが気になりだした。毎週月曜日に気功は第2週までは続いていたので、その後だと思う。だんだん腫れがひどくなるので、9月26日近所の青山病院へ行った。その日は血液採取と尿検査だけで帰り、29日に結果を聞きに行った。腎臓にお機能が落ちているが、加齢によるものもあり心配ない、とのこと。食べ物の注意を聞いただけで、特に治療も薬もなし。心配なしということで安心していたが、足の腫れは日増しに激しくなったが・・・

その間、23日は彼岸の中日なので、被災ぶりに高尾墓苑のお墓参りをした。お墓の場所は覚えているつもりだったが、大体の感でちかくまで行ったが見つからず、兄嫁に電話して教えてもらったら、すぐ隣まで来ていた。遠いので墓参りをサボッテいたので、親不孝を恥じる結果になってしまった。

お墓参りの帰途、東部支部の名誉支部長から携帯に電話があった。丁度帰りのバスが見えたところなので、わけを話して、内容を聞かず電話を切って、帰宅してからかけ直した。内容は訃報で、教友の大沼美喜さんが亡くなった。私より2歳下の女性で1歳下の大沼長三さんの奥さんです。毎月の例会時に東部支部では、おにぎりを作り、希望する教友に1ケ100円で提供し、そのお金は献金としているが、その際の副食のお漬物をいつも沢山提供奉仕して頂いていた。北海道出身なので、漬物の種類は豊富で、我々も北海道出身なので懐かしい物もあり、毎月の楽しみでした。もうその漬物が食べられないことは残念だが、それ以上に彼女の死は惜しまれる。体調は不調のようであったが、家族に負担をかけるこなく、忽然と亡くなったとのことで、大往生と言わねばならないと思う。27日、28日の前夜祭と告別祭にんは参列したが、大事な教友がまた一人去った。

足の腫れが引かないので、歩きは遠慮していたが、妹のうらら多摩にはこの間、3度行った。いい方にも悪い方にも影響はない。9月の末日は”ほの歩の会”のtymdaさんの写真展の最終日なので、イズミヤ八千代店へ出かけた。東葉高速鉄道の村上駅から徒歩約12分。場所はすぐに分かった。展示場に入るとすぐ目に付いたののは多くの絨毯と壁に貼られた数々の写真。中にはブログでお馴染みの写真もある。入るとすぐにエキゾチックな美女が迎えてくれた。NPOイーグル・アフガン復興協会の理事長の江藤セデカさんだ。彼女の懇切な説明で当地の状況が手にとるように分かった。日本に来て31年というから日本語は日本人全くと同じである。tymdaさんの写真に添えた詩は彼女の作である。また、彼女はNHKラジオのアナウンサーでもある。外国語中でもペルシャ語の教師であり通訳もしていることを、後からtymdaさんから聞いた。また、絵も描く。会場に花の絵が2点展示されていた。小さい時から好きで習ったものだそうです。A5版73頁の小冊子でアフガニスタンの民話があり、これの絵も監訳もセデカさんのものでした。写真の感想やtymdaさんのことなど話しながら、会場には1時間近くも居ただろうか、 帰ると言ったら、アフガンの紅茶をご馳走してくれた。味は日本のものと変わりないが、変わっているのは、先に砂糖を口に含んでから紅茶の飲むことです。親身の説明と温かい接待を受けて感激しながら会場を辞したのは11時半頃だった。午後まで待ってtymdaさんに会ってと思ったがお腹が空いていたので、真直ぐに帰った。

       

         江藤セデカさん      写真の下の絵3点 右がセデカさんの作品

       

      tymdaさんの写真の一部       多くの絨毯、これはあまり気にならなかった


9月になって

2014年09月25日 | 雑記帳

8月は、鎮魂と追悼の月といわれるが、まさにその通りでした。歳を経る毎にその感は強く今年もその記録やノン・ドキュメントが胸に迫った。また、終戦番組で、第2次大戦の日本の相手がどこの国か分からぬ若者が多数いるのには芯から驚いた。NHKのスペシャル「憎しみと許し」では終戦直後のフィリッピンのキリノ大統領が国民の日本へ対する強烈な憎しみの中に、また、自分は目の前で妻子が日本兵に殺されているのに、まことに寛大な心をもって、日本の戦犯を許し帰国させた。それは、未来の国交や平和を目指してのことで、本当に雄大な思想ですね。それに比べて中国や韓国は未だに70年も前におことを引っ張り出してゴチャゴチャ云っています。なんとも心が狭いですね。同じ東洋人でありながら、この差には驚きます。

そんなこんな思っている中に、9月7日 元李香蘭、山口淑子さんが亡くなった。知る人ぞ知る 波乱万丈の人生を送った人ですね~  旧満州で生まれ育ち、中国人の養女(と言っても戸籍を移したわけではない。ただ中国名を貰っただけ。日常の生活は実の父母と一緒に過ごす)になり、李香蘭という名前をもらった。それが、天性の美貌と美声に恵まれ、女優や歌手として日中間で大活躍をする。時代は日中戦争の始まった頃からで、中国を宣撫する上では随分利用された。

昭和18年(1943年)私は、「誓いの合唱」という映画で初めて李香蘭を見た。当時15歳の少年だったが、女性の美しさに初めて打たれたのを覚えている。女性とはこんなに美しいものか、李香蘭とはこんなに綺麗な女優だったのかと、感激して魅入っていた。 それが動機となり続けて「白蘭の歌」とゆうのを観に行った。 実は当時の中学校では、学校推薦の映画以外は、映画館に出入りすることを禁じられていた。見つかったら罰を喰らう。それでも、李香蘭見たさに観に行った。映画のあらすじ等は殆ど忘れてしまったが、「白蘭の歌」は往年の名優長谷川一夫との共演で、この美男・美女の演技を感動をもってみていた。この映画はもうDVDも手に入らないが、主題歌「白蘭の歌」「いとしあの星」は”なつかしの歌声”などのCDやyou tubeで聴くことが出来る。

戦後は、本名の山口淑子を名乗り多くの映画に出ていたが、私は「我が生涯の最良の日」「暁の脱走」を観にいった。従来の日本女優にはない野性味と、なんとも知れぬ美しさと迫力があってどちらも名作といわれている。 映画のほかでは、色々な女優さんが、李香蘭の大陸時代をドラマで演じたし、劇団四季ではミュージカルを何度も上演した。一度私も友達を誘って観にいった。一度本人も観に行ったそうです。

その後、彫刻家のイサム・ノグチと結婚して、4年で別れたり、「3時のあなた」で司会をしたり、外交官大鷹氏と再婚したり、参議院議員で活躍したのは、皆さんご承知のとおりです。94歳のご高齢ではあるが、私の初恋にも似た李香蘭・山口淑子さんの死はやはり悲しい。

         

                この3枚は 李 香 蘭 時 代

       

         白蘭の歌(長谷川一夫と)         暁の脱走(池部良と)

              

            山口淑子                 大鷹淑子

9月20日(土)、自動車運転の高齢者講習に行ってきた。もう、そろそろ止める時期だが、なんとなく免許証返納の決心がつかないので行ってきた。前回同様、記憶力の検査もされたが、3年前に比べてかなり落ちていた。動体視力は明るい所から暗い所へ入った時の視力が非常に悪かった。もう夜の運転は止めよう。       


8月

2014年08月18日 | 雑記帳

8月は終戦の月。毎年今更のように戦争の悲惨さが心に沁みる月です。あれから69年も経つのに初めて聞く話や、いままで全く気付かなかったような事柄が分かったりするのもこの月です。1945年(昭和20年)8月は広島・長崎への原爆投下、ソ連の侵攻、玉音放送。歴史を変える出来ごとが次々起り、日本は大揺れに揺れて変身した。

8月という月は本当日忙しい。個人的に忙しいわけではないが、終戦記念日があり、盂蘭盆があり、高校野球がある。あの忌まわしい戦争を忘れぬ為の行事があり、テレビもそれに応える番組が多くなる。日本人は決してこの戦争は忘れないだろうが、それと並行して盂蘭盆の帰省を楽しみ、高校野球に熱中する。その中にも、結構感激も感動もある。8月という月は忙しい。また、僅かの期間でも夏休みあり、それなりに忙しい人もいる。

私の8月は、10日(日)に、大和山東京東部支部長、宇田川礼子さんの長男、隆一郎君の結婚披露宴があった。思えば、33年前に礼子さんが故宇田川隆史氏と結婚するために、意を決して沖縄から上京して、旧道場で披露宴を行った。それから33年、色々の事はあったが、その長男が晴れて結婚することになり、故宇田川隆史氏を偲び、胸迫るものはあった。この日は、台風11号が直撃するかも知れなかったが、幸い台風は北寄りに進路をとったので、少し雨が降ったくらいで助かった。それもあってか、出席者みな大喜びでとても良い披露宴だった。新郎、新婦も伸び伸びとしており、皆の祝福を率直に受けてとても感じがよかった。新婚の二人は、とにかく仲が良い。若い二人の新生活に幸あれ。

          

これは携帯電話で撮ったので写りはよくないが、左はケーキーを切っているところ。右はそれを食べさせているところ。

14日(木)は、例年通り、千鳥が渕戦没者墓苑に戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典に参列した。36万96柱のみ霊が昨年まで祀られていたが今年幾柱合祀されたたか。式典は18時から行われたが、今年は始めからひどい雨降りで傘をさしての参列なので、かなりこたえた。来賓や役員は天幕の中にいるが、一般参列者にはそれがない。この行事は新日本宗教団体連合会の主催であるが、新宗連は考えなければならない。予報で降雨が分かっていたならば、天幕の数を増して一般参列者にも雨除けの気遣いをすべきである。雨は時々激しくもなったが、式の終わりごろには止んでいた。式は最後に”平和へのメッセージ”が読み上げられた。これが毎年のクライマックスであるが、今年は、ことは集団自衛権にも及び反戦、不戦の決意が明示された。

              

                式中、教団別礼拝の一例。この頃、雨は小止みだった。

15日(金)終戦記念日のこの日、病院へ行った。先日の診察の際には、予想もしていなかった不実な対応を受けたので、この日の受診の前もって、医師に手紙を出し、誠実な対応を促しておいた。それが功を奏してか、心配無用の関係となった。このような場合、相手が無頼の徒でない限り、人権を主張して話をすれば話は分かる。仕事ににおいても何においても、相互連絡と理解は必要ですね。それ以上に愛情が必要!

妹の所へは、6日(水)16日(土)と医者の往診に合わせて行った。この後は20日(水)29日(金)に行く予定。


病院二題

2014年07月31日 | 雑記帳

この7月に病院二題。

その1、 治療なき闘病

 医療センターで肺がんと判定されてから、約1年半ばかり医療センターでお世話になった。その間、昨年の3月から6月に亘って四回の入院で抗がん剤の投与を受けた。

 その結果は、癌が拡大しなかったことを以て“良し”としながらも、体力に予想以上のダメージを受けたので、以後、抗がん剤は中止し、同時に癌に対しての一切の治療は停止して、自然に任せることにした。だが、自然でいると、咳と痰が激しく出るので、咳止めと去痰剤は続けている。

 医療センターでは1度/4週間のX-Ray検査と血液検査を行ってきた。

 その結果は、この1年間に何れも目立った変化はなく、6か月ごとのCT検査で僅かに推定3mm程の変化が見られるのみ。それで天野医師は「病状は落ち着いている」と診たのであろう、

 「この後は、青山病院で診てもらってもよし」として、紹介状にデーターを添えて、青山病院へとさし戻した。私は、青山病院の方が近いので喜んでいた。

 ところが、これでについて、驚いたことが5つある。

  1.  紹介状が病院受付から担当医に廻るまでに、開封されていたこと。
  2. 紹介状の趣旨が “おたくから紹介された患者なので、落ち着いたから、おたくへ差し戻す” 程度のもので、詳細な申し送りが一切無かったこと。
  3. 添えられたデーターが、この病院では解読できなかったこと。
  4. 最後の際の苦痛緩和処置をお願いしたら、断られたこと。
  5. 自信がないなら、それでも良いが、「緩和ケア病院はネットで探せ」と言われたこと。

     4と5は特に ガツン と来た。

  「医は仁術なり」の精神は何処へ?!

  病院の理念などと堂々と掲げているが、そんなものは「看板に偽りあり」 でしかない。

  以上、簡単に廻してくれた医療センターにも不誠意を感ずるし、青山病院でも、嘗ての患者を受け入れるに、難色を示して、実も蓋もない挨拶をされたことには落胆した。まるで厄介者扱いでこちらは立つ瀬がない。

  しかしながら、こちらは患者、向こうはお医者様 逆らって勝ち目はない。

  あまりに多くは望まないことにしよう。これが普通なことなのだろうか? しかし、すべての病院がこうではないでしょう。

その2. 尿管結石全快

 尿管結石はこれが4度目(この他に腎臓結石が2度ある)。しかし、こんなに長くかかったのは初めてです。痛みを感じて青山病院へ行ったのは、3月13日。約4~5mm角の石があることが分かった。薬で下ろそうとした が、2週間経っても下りず、船橋クリニックへ紹介されて破砕することにした。4月22日入院して破砕して23日に退院。その後2週間くらいで1mmm角の欠けら4個、その他若干の砂を採取したが、残部が砂状に残って排出されなかったので、その後、約2カ月の薬餌療法でやっと完治した。7月30日にやっと全快を告げられたが、この間142日。全治するまでに今までの数倍の日数を要した。これは加齢により、回復力がこんなに遅れたものか?  しかいながら、これはその1と違ってとても目出たい話です。

全快の前日、私が不在の時に歩く会の T さんからから電話があった。この日は火曜日で例のの火曜ウオークが終わった時点だったらしい。夕刻、改めて電話したが、いつも変らぬ友情がとても嬉しかった。早く体力を回復して皆さんと一緒に歩きたいという気持ちが沸々と湧いてきました。でも、いまは 暑い! 涼しくなったら出来るよう頑張ろう!


この2カ月、台風などもあった

2014年07月23日 | 雑記帳

前の更新から2カ月も経っていた。こんなに空けたとは思わなかったが、月日の経つのは早いものですね。思い出しながら書いてゆきましょう。

先ずは尿管結石。5月28日船橋クリニックに検診に行ったら、まだ石は残っていた。それでも腎臓には影響なしとのこと。2か月分の薬の処方箋をもらって、2ヶ月後の7月30日にまた検査することになった。今回の結石は本当にしつこい。

6月の上旬、テレビが突然見えなくなった。購入先に電話したところ、4~5日してメーカー(ビクター)から技術者が来た。部品を2個ばかり取り替えて見えるようになったが、夜、気が付くとテレビを切っても灯りが残る(バックライトというそうだ)ので、また来てもらった。この時も部品を取り換えて良くなったが、ちょっと手間がかかったようだ。それでやれやれと思ったが、録画する段になると全く機能しない。また来てもらおうと思ったが、これは電話で操作の仕方を指導されながらやって、ようやく録画可能になった。このやり方は取説などにはなく、本当の専門家でなければ分からない。もう一度やれと言われても絶対に出来ない。何やかにやで約10日間くらいでテレビは元に戻った。特に最初の4~5日はテレビ無しの生活をした。ラジオと新聞があれば大勢に影響はない。ただ、中継は見られない。

妹のところへは、最近は1回/週のペースになったが、この度は自立支援医療受給者証(精神通院)の行き違いや、年金関係の手続きで、府中の市役所や社会保険事務所などに行く機会があり少しばかり社会ベ勉強をさせてもらった。

7月の第2週に体調を崩した。何年か振りの下痢です。原因は分からない。家内と同じものを食べているのに私だけが下痢。寝ているときに下っ腹を冷やした為かも知らない。病院にも行ったが、薬の他は、とにかく何とかいう栄養あるり缶詰の液体やら、重湯やら、お粥やらで一週間を過ごして治った。体重が1kg減った。

7月の初め、台風8号が来るという脅威があった。九州や西日本に大雨をもたらし、今までにない強力な台風とのことで気象庁もかなり強い語調で警戒を呼び掛けていた。心配なのはベランダのゴーヤです。摩擦に極端に弱いので、台風で一揉みされると簡単にやられてしまう。去年は台風は6月に来たので、新しい苗を植えかえればよかったが、今年はそうはいかない。もうかなり生長しているので取り替えはきかない。そこで、台風からゴーヤを守るためにブルーシートに支柱を付けて、それをベレンダの手摺に取り付けるこつにした。シートの大きさは1.8m×2.7m。7月7日に作成し、10日に取り付けた。

          

 ひもは手摺にくくりつける          手摺に設置済み(横寸法が少し不足)

             

                  この辺りはよく守られている 

台風8号は10日の夜から11日の朝に亘って来た。しかし、どうした訳か、何時来たのか分からないようなもの。とても来襲などと云えるものではなかった。まあ被害がなくて良かったと云うべきでしょう。シートは翌12日に撤去した。

大和山関係では色々あった。先ず6月8日(日)は全国統一行動日でした。これは例年に行事でWFOniに協賛して世界の恵まれない子供たちの為の食糧支援の献金を呼び掛ける街頭募金活動です。時間は短い。11時から13時までの僅か2時間です。私達は小岩駅前で2班に分かれて道行く人に大声で呼びかけた。関心のない人の多いなかでも、善意の人は必ず居るもんです。このほかに、平井駅前と船堀駅前でも同じことが行われた。6月22日(日)は壮年部の例会。7月19日(土)7月20日(日)は本部にて例年の慰霊祭があり参列した。丁度、3連休の乗り降り自由のフリー切符がありそれを利用した。今年の慰霊祭については色々あるが、それは書かない。書くと紙面を取り過ぎるし、大和山以外の人には全く関係のない話である。

        

 右の光霊殿に至る参道には鎮魂の提灯が並ぶ   光霊殿(亡きみ霊を祀る所。

                                      慰霊祭もここで行う)  

        

      光霊殿の側面              光霊殿の斜め裏、

                            亡きみ霊の名前が刻まれる石碑(慰霊碑)

           

 


尿管結石やら風邪やら

2014年05月27日 | 雑記帳

4月~5月は病気のなかに過した。その中でも病気にめげず、きゅうり、なす、ゴーヤの定植、うらら多磨へは8回行ったし、5月15日は札幌のクラス会へ出席した。ただ、この間に船橋歩こう会の”さわやかウオーク”が2回あったが、これに参加する元気は、まだなかった。

尿管結石がなかなか降りず、船橋クリニックの世話になる。青山院長の紹介状を持って4月14日初診、22日に入院・破砕と決まった。22日、朝入院して13時ころから破砕手術(正式には体外衝撃波結石破砕術)を受けた。20年前の時と違って腹部から衝撃波を受け、かなり痛い。それで麻酔をしてもらった。その為、術後4時間くらいはふらふらしてトイレに行くにも付き添いが必要だった。しかし、18時ころには麻酔も覚めて付き添っていた家内は帰り、その後は痛みもなく翌日12時に退院した。退院の時にストーンスクリーンというものを買った。これは排尿時に降りた石を捉えるものです。なかなか石は降りてこなかったが、4月27日(日)に1mm角のものが3個と砂が若干出た。これで全部出たと思ったがそうではなかった。5月3日(金)術後の検診に行ったがX-ray検査で、まだ残っていた。石が降りた日意外は全く痛みがないのに、本当に今回の結石はしつこい。5月28日(水)にまた船橋クリニックへ行くことになった。

次は風邪です。全くの油断で、5月11日(日)大河ドラマ軍師勘兵衛を見た後、テレビをそのままにしてうつらうつらと眠ってしまった。それrほど寒くはなかったが、翌朝、咽喉が痛くて目が覚め、早速葛根湯を飲んだが、遅かった。15日(木)には札幌でクラス会があるので急ぎ治さなければならない。娘に電話して薬を選択してもらった。抗生剤のフロモックスとトランサミンを飲み、咽喉の痛みは2日間で治った。だが、困ったのは咳と痰の激しさです。咳止めと去痰剤は常時飲んでいるが、これが全然効かない。腫瘍も関係しているので簡単に治らない。仕方がないからこれは自然に任せることにした。14日(水)に羽田発。15日のクラス会の時までには、いくらか鎮まっていた。クラス会は13人が出席。他に夫人が5人加わって計18人。この内、13人が2次会のカラオケに行った。もう2次会で酒を酌み交わすこともなくなっているので、2次会といえばカラオケです。よほど楽しかったのか、延々4 時間も続き、風邪引きの身にはかなりきつかったが、楽しかった。

札幌での宿は藻岩下の義妹宅。5月中旬の札幌は八重桜が満開。約1月遅れの花見をした。

              

クラス会翌日は1日静養して、17日(金)に帰った。しかし、咳・痰は依然として多発するので、翌週の予定は18日の支部修業会、19日の気功、20日のパソコン(15日の補習)、21日のうらら多磨、22日のパソコン など総てを休んだ。

医療センターの定期診察はこの度は少し変則で、4月から5週間あけて、5月13日(火)にCT検査、23日(金)に定期診察をした。CT検査の結果はやはり6ヶ月間には3mm程度の拡大は見られた。腫瘍は今後もこのレベルの速度で大きくなって行くものと見える。他に、咳・痰が烈しかったので肺炎を起こしていないか心配なので、X-rayを撮ってもらったが、それはなかった。咳止めに更に強い薬を所望したが、これ以上強い薬はないとしのこと。咳・痰とは今後も付き合うことにした。

この間を縫って、ベランダの作業を着々と行った。今年も緑のカーテンを作るべく、ゴーヤ、きゅうり、なすの定植とネット張りを4月18日から28日の間に8分どおり完成。あとは来るべき台風にどう対処すべきか。

         

          左きゅうり、右ゴーヤ           な す

大和山の東京東部支部には、毎月の例会、その他は車で行っていたが、この度、駐車場の関係で、これからは電車で行くことになった。今までも電車で小岩駅まで行き、あとは徒歩20分くらいの歩きまたはバスで何回か行っているので、どうということはない。5月4日の例会の時、久しぶりに徒歩の途中、新中川の辰巳橋の畔で見た鯉のぼりです。