アメリカの海洋教育―SGEプログラムについて―
はじめに
今年(2007年)4月に「海洋基本法」が成立した。同法は、海洋が「人類をはじめとする生物の生命を維持する上で不可欠の要素である」という認識の下に、「海洋の平和的かつ積極的な開発及び利用と海洋環境の保全との調和を図る新たな海洋立国」をめざして、策定された。(同法第1章総則第1条)そしてこの目的を実現するための方法のひとつに、「海洋に関する国民の理解の増進」が掲げられている。(同法第3章基本的施策第28条)具体的には、「学校教育及び社会教育における海洋に関する教育の推進」、「海洋法に関する国際連合条約その他の国際約束並びに海洋の持続可能な開発及び利用を実現するための国際的な取組に関する普及啓発」、「海洋に関するレクリエーションの普及」などが挙げられている。
本稿は、これら「海洋基本法」にもみられる、現代社会(わが国及び国際社会)における「海洋教育」研究の必要性にかんがみ、その一環として他国(アメリカ)における海洋教育について考察するものである。以下、先ず海洋を含む環境保護運動の歴史を概観し、それから海洋教育の現状についてみることとする。
- アメリカの環境保護運動の歴史
アメリカの環境保護運動は、自然保護から始まる。1872年、イエロストーンに世界最初の国立公園がつくられる。(わが国では、1934年に瀬戸内海、雲仙、霧島が最初の国立公園に指定されている。)1892年には、自然保護活動の創始者といわれるジョン・ミューアが自然保護団体「シェラ・クラブ」を設立、1936年には環境教育を主な目的とする「全米野生生物連盟」(NWF)、現在全米最大の環境団体、が発足している。戦後、1951年には、貴重生物の生息地や原生的自然を寄付金で買い取りサンクチュアリー(自然保護地)とする活動を行う「ザ・ネイチャー・コンサーバンシー」(TNC)、現在民間では世界最大の保護地域保有団体、が設立されている。また、生物多様性と生態系の保護を目的とし、たとえば熱帯林や珊瑚礁の保護活動など国際的な活動を展開している「コンサベーション・インターナショナル」(CI)が1987年につくられている。
こうした、自然保護を中心とする環境保護活動に対し、戦後新しい運動が起こる。それは科学文明がもたらした人間や自然に対する脅威を告発するものである。代表的な人物として、農薬、殺虫剤、殺菌剤などの化学物質による自然破壊、健康被害を指摘したレイチェル・カーソン(『沈黙の春』1962年)があげられる。
こうした活動により、環境問題への関心が高まり、1969年に連邦政府の事業に関し環境影響評価書の作成を義務づける「国家環境政策法」が制定され、翌年にはニクソン政権下環境保護庁(EPA)が発足している。(わが国でも、公害関係14法案が審議、可決された1970年の「公害国会」の翌年環境庁が発足している。ただし、いわゆる環境アセスメント法が成立するのは1997年で、OECD諸国の中では最も遅い。)また1970年には第1回目の「地球の日」の催しが全米で行われた。1971年には「アメリカ環境教育学会」が設立された。1978年のニューヨーク州バッファロー市のラブ・カナル地域における化学廃棄物汚染が契機となり、80年には企業に汚染物質の浄化を命じる「包括的環境対策補償責任法」(通称スーパーファンド法)が、カーター政権下成立した。規制緩和と経済活動の自由化を推進する「レーガノミックス」の下で、環境行政は後退するが、それへの反対も強く、1986年にはスーパーファンド法が改正され、工場からの化学物質の量を報告、公表することを定めた「有害化学物質排出目録制度(TRI)」が設けられた。「環境大統領」を自任したブッシュ大統領は、90年に「大気浄化法」(通称マスキー法)を改正し、五大湖周辺の工業地帯から排出される硫黄酸化物による酸性雨対策を強化した。また88年の国内での異常高温現象を契機に地球温暖化問題への関心が高まり、国連の気候変動に関する条約交渉会議の第1回をホワイトハウスで開催することとなったが、産業界への配慮から条約の強制力を緩和する方針を採った。すなわち、「先進国に対して温室効果ガスの排出を2000年までに1990年レベルに戻すことをめざした政策・措置をとることを求める」もので、排出量規制に法的拘束力はなく、努力目標とした。1992年のブラジル、リオでの地球サミットでのこの気候変動枠組み条約には署名したが、同会議でのもうひとつの重要な条約であった生物多様性条約は、技術移転や資金負担への懸念から署名を拒否した。次のクリントン大統領が翌年この条約に署名しているが、しかし97年開催の、2000年以降の排出量規制の取組みを審議した気候変動枠組み条約第3回締約国会議(地球温暖化防止京都会議COP3)の決定、先進国および市場経済移行国全体で2008年から2012年の5年間に1990年に比べ温室効果ガスを少なくとも5%削減する(アメリカは7%、日本は6%)という京都議定書に対しては、共和党が多数を占める議会の反対にあって、批准していない。
このようなアメリカの環境保護運動の歴史に対し、すぐれた自然や貴重な動植物を保護することには積極的であるが、地球環境に大きな影響を与えている、多生産―多消費―多廃棄というアメリカ的生活様式を見直すことに関しては消極的であることが、指摘されている。
- アメリカ海洋教育の展開―海洋基金大学における教育・啓蒙活動SGEに注目して―
2-1.海洋基金大学の成立とSGE
ここでは、アメリカ海洋教育の発展の上で重要な役割を果たした「海洋基金大学」(sea grant colleges)に焦点をあてたい。同大学が成立する契機となったのは、1963年にアメリカ水産学会でのスピルハウスAthelstan Spilhaus教授(ミネソタ大学)の提案による。彼の発案は、農業などの応用科学分野研究を中心とする大学設立のために連邦の土地を各州に供与した19世紀の「土地基金大学制度」(land-grant college system)にならったものである。1966年にはペルClaiborne Pell上院議員(ロードアイランド州選出)とロジャースPaul Rogers下院議員(フロリダ州選出)の提案で「海洋基金大学計画法」が成立する。同大学の管理責任は全米科学財団NSFに委任された。同大学の活動は、教育・研究・広報(extension)からなるが、ここでは、大学の外部に対して広く教育・啓蒙を行う広報活動(sea grant extension program、以下SGEと略)に注目したい。SGEは、継続的かつ組織的に多様な教育過程・技能を用いながら、目標にそった行動変化をもたらす計画的活動と定義される。たとえば東南部海域の小エビトロール漁において、多くの対象外魚が網に掛かり死んでいたが、SGEが中心となり4年間で50%の削減目標をたて、漁獲方法の研究に取り組んでいる。
全米海洋基金大学プログラムNSGCPは、商務省内の全米海洋気象庁NOAA、海洋気象研究局OAR内の全米海洋基金部NSGOにより管轄されている。
2-2.SGEの具体例
SGEは,先述した全米そしてプエルトリコの沿岸域を含め五大湖や沿岸域の30カ所にある海洋基金大学と密接な関わりを持ちながら発展してきた。SGE職員は,それぞれの地域でSGコミュニケーターや教育者と連携をはかりながら,大学で研究された資源を地域に還元する役割を果たしている。SGE職員は,それぞれの地域ごとに一般市民向けのワークショップ,パンフレット,講義などを提供し,海洋に関する複雑な問題を解決するためにわかりやすく提供するインタープリター的な役割を果たしている。さらに,漁業資源の管理,持続可能な養殖,水質汚染,海洋保全のための規範意識の確立などにも取り組んでいる。現在およそ300人の教育プログラム専門家が五大湖を含む沿岸域で活躍している。今日まで,数千人の専門家が関わってシーグラント活動に貢献してきた。海洋基金は異なる方向からのアプローチを駆使するための特別な技術を持っているSGE専門家の集まりであるということができよう。
また,SGEの仕事は,短期的な仕事ではなく,長期的継続的な活動であることを強調しておきたい。例えば,元SGE専門家が市長,連邦議会議員,漁船安全プログラム基金設立者など幅広い分野で活躍しているのは,地元地域の大学,工場,組織,政府等と長年の信頼関係を築いていた成果である。
SGEプログラムの大きな特徴として特筆すべき事は,連邦政府レベル,州政府レベル,地域レベルと組織的な構造を持っており,地域ごとのSGE活動に重点が置かれていることである。例えば,フロリダ海洋基金大学は,フロリダ大学内に州全体のマネジメントを行うマネジメントオフィスがあり,ここには9名のスタッフが常駐している。また,大学教員12名が広報専門家として学内外で活動する。さらにSGE協力研究機関(大学も含む)として,16機関が登録されている。フロリダ州沿岸域36地域のうち,29地域にSGEプログラムを展開する専門職員が常駐している。フロリダ州の最西端の地域エスカンバにはSGEプログラム専門職員としてアンドリュー・ディラー氏が常駐し,海洋環境教育,沿岸域生物のワークショップや大人子ども向けのウミガメ教育を実施している。
2-3.海洋基金教育者ネットワーク
海洋基金教育者ネットワークは,海洋基金教育として重要な役割を果たしており,K-12教育に関連する生徒や教員に限らず,大学教育,大学院教育の他,一般人を対象とした教育においても利用可能である。
代表的な海洋基金教育者ネットワークとしては,BridgeやCOSEEと呼ばれる海洋基海洋科学教育センターがある。Bridgeはインターネット上で利用可能な数多くの良質な海洋教育教材を公開している。国内外の話題に限らず,地域の海洋科学のトピックスに関連した内容で,有益で正確な情報を盛り込んだ教材が用意され,研究者には教育に関するアウトリーチ活動の接点を提供している。COSEEは,インターネット上にある海洋科学教育センターで1.研究者と教育者とのパートナーシップを推進し, 2.海洋科学教育者に対して良質の教材を広め,3.より科学的な素養を持った人々を生み出すための学際的な伝達手段として海洋教育を推進する,という3つの目標を掲げている。2004年にはCOSEEに所属するメンバーが中心となって,「海洋リテラシー」が構築された。これをもとに全米科学教育スタンダードに対応した教育課程表を作成し,K-12教育における科学教育の推進に力を入れている。海洋リテラシーは,「私たち人類が海から影響を受けていること,そして人類は海に影響を与えていることを理解すること。海洋リテラシーを持った人は海洋の仕組みの基本概念を理解し,かつ有効な方法で海洋に関して伝達することができる。そして,海洋やその資源に対し,見識の広い責任ある決定を行うことができる」としている。内容として7つの大項目と44の小項目に分けられている。すべての海洋リテラシーを持つ人はこれらの必要不可欠な原理を理解すべきであるとしている。7つの大項目としては,1.地球には多くの特徴を兼ね備えた大きな海がある 2.海やその海に生きる生物は地球の特徴を形作っている 3.海は天候や気候に大きな影響を与える 4.海のおかげで,地球には生物が生息できる 5.海は多種多様な生物や生態系を支えている 6.海と人間は切っても切れない深い関わりを持っている 7.海の大半は探検されていない,が掲げられている。これらのリテラシーをもとに,全米海洋教育者会議(MNEA)のメンバーはそれぞれの地域で海洋教育普及活動を実施し,毎年7月に活動報告会にて活動発表とファシリテーションが行われる。
おわりに
アメリカの海洋基金の発足から今日までの海洋教育を概観したが,一言で言えば,現在の海洋教育は,海洋に関する科学的なリテラシーを高める事に大きな主眼が置かれているといってよい。これに対し,日本の海洋教育は水産高等学校を中心とした水産に関する技術者養成といった意味合いが強い。そもそも,教育課程として海洋教育という言葉は存在していない。また,
日本人の海洋に対する考え方は,アメリカ人と異なり科学的に捉えるというよりもむしろ生活の場所や食料生産の場所といったとらえ方をする傾向が見られる。こうしたことは,海洋との関わり方に大きな原因があると考えられよう。そのため,日本人は,乱獲の問題や海洋汚染など海洋環境問題に対して,無頓着過ぎる場面がある。環境技術に関しては世界一流でも,海洋環境教育に関しては遅れているといわざるを得ない。そこで,本学でも来年度から海洋科学に関するリテラシー教育(水圏環境リテラシー教育)をスタートさせることになった。これは,海を科学的に理解し,一般の人々にわかりやすく伝える能力を高めることを目的としている。将来的には,水圏環境教育推進リーダーとして学校現場やNPO等で国民の水圏環境リテラシーを高めるために活躍することが期待される。
参考文献
- 松下和夫『環境政治入門』平凡社新書(2000)
- Fundamentals of a Sea Grant Extension Program
- NOAA National Sea Grant ; http://www.seagrant.noaa.gov/index.html
佐々木剛(2007). 海洋リテラシーを高めるには,楽水. 817, 27-35.
http://www.rakusui.or.jp/book/page_detail.php?bm_id=5709
佐々木剛(2007). 海を読み解く力(リテラシー)のすすめ, 世界と日本, 共同通信社, 3月12日号
佐々木剛(2007). 日本列島囲む海が危ない, 世界と日本, 共同通信社, 7月30日号