Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

悲しみを受け止め,次なるステージへ

2024-03-08 | 水圏環境教育
13回目の3.11
 あの日から13回目の3.11となった。東京で単身赴任中の私にとって,沿岸部にいる大切な家族の消息が気がかりであった。多くの方が犠牲になる中で,少しでも地元に貢献したいそう強く願い,休みの日はできるだけ沿岸部に足を運び,ボランティアの方々と一緒に活動をした。その折,お会いした方が医師であり慈善活動家のウォン・アンドリュー・チー・ウェン博士である。2022年には,50年近くに及ぶ慈善活動が認められ,フィリピン政府から国際平和賞を授与された。癌治療で博士号を取得し研究者としても輝かしい業績を残し,医師としても患者さんに愛され,慈善活動でも数多くの貢献を果たしてきた。私の目標とも重なり,これからも活動を共にしようと思っていた。
だが,3月7日ご子息から残念なお知らせをいただいた。
父 ウォン アンドリューチーウェン  は 2023年 3月 3日に天の御許に召されました 地上での御交誼に感謝しここにお知らせいたします。葬儀礼拝 3月 11日 13時 於 ルーテルセンター教会

悲しみを受け止め,アレックスさんへのメール
私は大変なショックを受けた。博士が数多くの功績を残した方であるが,常に被災地のことを思い,復興のことを考えていただいていたことを思い返し,我に返りアレックスさんに返事をした。

アレックスウォン様 大変残念なお知らせをお聞きし、ただただ無念でなりません。謹んでご冥福をお祈りいたします。ウォン博士とは2011年3月11日の大震災の支援活動にてお会いいたしました。
大槌を中心にくまなく被災者をまわり、ねぎらいのお言葉や数々の御芳志をいただきました。

 忘れられない出来事があります。それは被災地の小学校に出かけた時の事です。被災から半年が経過していました。数多くの支援が送り届けられていました。しかしながら子供たちも先生たちも声を上げて笑うことができず、悲しみに沈んだ状態でした。ウォン博士は東京からピエロを連れて行かれました。校長先生には傷ついた子ども達がいるのであまり大勢ではやらないでください、静かにお願いしますと強く言われました。

 そのためお昼休みの時間帯であまり人が集まらないグランドの片隅でピエロが演技を始めました。最初は児童が一人二人と見に来てくれました。皆さんおそるおそる近づいてウォン博士とピエロのパントマイムに集まってきました。あまりにも楽しいピエロの演技でしたので、最初は一人二人の子供達だったのが徐々に増えていき、最後は全校生徒がピエロの演技を見に集まってきたのです。そして学校の先生達も集まってきました。最初はおそるおそる周りの人たちの顔色を伺って小さい声で笑っていましたが、少しずつその笑い声が大きな輪となり最後は集まった子どもたちそして先生たち全員が笑顔になっていました。先生や生徒たちが一緒になって大笑いしたのは被災後初めてだったと、小学校6年生の担任の先生から後日お話を伺いました。それ以来悲しみに沈んでいた学校が少しずつ明るい雰囲気の学校に変わって行ったと言うことです。私は,ウォン博士は被災から半年が経過し、これから新しい気持ちでスタートするきっかけの時期を見計らって、ピエロを被災地に連れて行ったのではないかなと今思い返しています。
 アンディー先生のような心の深い人物にお会いできたことは被災地の人々をはじめ私自身も幸せでした。本当にありがとうございました。大変残念ではありますが、アンディー先生の思いを受け、引き続き奉仕の心を忘れずに残りの人生を歩んでまいります。
 最後にご家族様のこれからますますのご繁栄とご多幸をお祈り申し上げ、アンディー先生への感謝の言葉といたします。                          

お別れの会での誓い
 お別れの会では,数多くの思い出が蘇った。その時の心象を振り返り日記帳に次のように書き記した。―――
 
 3月11日。お別れの会のため飯田橋ルーテル教会に行く。1953年生まれの69歳であった。私よりもちょうど13歳年上。3.11日の大震災でお会いして以来,先生と一緒に被災地の子供たちを支援しましょうと約束し,毎週のように現地へと足を運んだ。一番の思い出は子供たちとの活動を通して,私を含め被災された方々を励まして頂いたことに感謝の念でいっぱいである。ウォン博士のお考えが私自身の目指すべき目標であった。子供たちの支援を通し,地域を盛り上げていく。そのために,現場に行き,現場の声を聞き,そして自分たちができることをみんなで考え,多くの人々に伝えていく。自分を超える「超我の状態」である。そのような状態を目指して活動していた方である。足元に全く及ばないが,同じ方向を向いて歩んで来ていることにあらためて気づき,そして震えるような感動を思えた。ウォン博士は奉仕活動の師匠であり,そして大先輩であった。その先輩を目指し頑張って来た。
  ちょうど今から12年前,ウォン博士57歳。東日本大震災での貢献活動に取り組んだ。その当時は,私は44歳だった。今思えば,ちょうど私と今と同じ年に,東日本大震災に遭遇した。現在の私と同じ57歳の時に,アクティブな行動をできたのか,いや私にはできなかったかと思う。これは年齢ではなく,その人の持っている性質だと思うが,私には,ウォン博士あのような行動力を持つことはできなかった。ウォン博士の行動力の源泉は何だったのか。それは,まさしく「奉仕の心」であろう。

この「奉仕の心」が多くの人々に感動を与えてくれた。子供たちへの教育の重視し,地域貢献活動のために行動。この行動力を生み出す思いや願いが,多くの人々に有機を与え行動を起こさせてくれた。

ウォン博士も地元での様々な情報を耳にしていたはずである。今思えば,子息の友人兄妹3人がお母さんと一緒に車の中で発見された時にもウォン博士は立ち会ってくれた。私はその兄妹のお父さんと偶然,漁港でばったり出会った。じっと海を見つめ「絶対にうちの子どもたちは生きている。」「必ず生きている。」「つけたら教えてほしい。」と言われた時の光景を今でも忘れることはできない。

まだウォン博士は,私の隣で一緒に震災復興の明るい未来を一緒に語り合っているような気がしている。いつもそばにいて地域貢献のことを考えてくださるような気がしている。そのような同じ思いを持っている方は,私のそばに多くない。少なくても遠くからところから,被災地のことをいつも考えている人は私のそばにはいない。本当にウォン博士は素晴らしい方であった。

ウォン博士の69歳の年齢まであと13年となった。3.11から数えるとちょうど折り返し地点である。あと13年間にウォン博士のように自分の仕事と貢献活動の両立を図りながら自分の使命を全うできるのだろうか。
―――
足元には及ばないが,13年後を目標に被災地復興のための水圏環境教育活動を通した研究活動と貢献活動の両立を目指したいと固く決意をしたのである。

※本記事は2023年03月にコミュニティタウン誌「みやこわが町」に寄稿されたものを一部改変した。