Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

武蔵野台地にて思う。

2016-12-31 | 水圏環境教育
平地とスクラップ工場とショッピングモールが林立する武蔵野台地ーーー

流域に宿る神々、その先には、大いなる山々と、流れの行末には恵まれた水産資源。山を敬い、恵みを育み、恩恵に授かる。海の民は山を観る。

銀座のカレー店主ノエルさん 「インド人から見た日本」

2016-12-30 | 水圏環境教育


ノエルさんにお会いした。岩手文化大使の集いにて。ノエルさんは銀様の有名なカレー屋の店主である。具材はほぼ100パーセント岩手産を使っている。岩手の具材は本物だよ。私の父親はインド人だ。昭和8年にインドから京都大学に留学した。その当時のインドはまだインドではなかった。父は何とか連動独立させようと考えていた。その時に自分の息子を出したいと願った。そこで選んだのが日本である。なぜ日本なのか。当時は欧米列強に唯一勝った国が日本だった。203高地では乃木希典将軍がロシアを倒した。バルチック艦隊に東郷平八郎が勝利した。欧米に勝ったのは唯一日本だけだったのである。そこで留学先として選んだのが日本であった。父親は京都大学を終えた後に満州の建国大学の教授となった。東大と同じで帝国大学だ。自分は新京で生まれた。終戦の日に満州は日本でなくなるとのことで日本へ急いで戻った。ホントは新京で新生活をしたかった。その父も願っていた。そしていつかはインドの独立のために戦おうと機会を見計らっていた。そして自分の息子私の兄そして私を日本の農業水産業を学ばせ本国インドへ戻りたかった。兄は東京水産大学卒業し、国連大学の教授として、私は父親の後を継いで店主となった。政治情勢が変化しとうとう戻ることができなかった。
父親の故郷は、カタール州という南のほうの海のそばである。なのでよく帰っていた。将来はカタールに戻って自分の子供を活躍させたかったと。東京裁判を唯一批判したのはインドのパール先生である。パール先生に教えたのが父だ。確かに日本には罪があったかもしれないが、裁判のやり方は本当におかしかった。日本の軍隊は海軍があってそこに参謀本部その上に統合本部があった。その仕組みが良くなかったのである。今でも日本はアジアの誇りだと思っている。

大槌を訪問、中里鮮魚店の鮭とイトヨ

2016-12-24 | 水圏環境教育
学生と2人で、大槌町訪問。来年度実施する予定の水圏環境教育プログラムの開発の準備である。
当初、数多くの思い出が語られた大槌川、小槌川の合流地点、東和さて、、あさりを取り、海苔を取り、毎朝の食卓には欠かせない場所だった。その場所は大槌の栄華を象徴する場所である。
しかし、戦後防潮堤が建設され、そして現在14メートルの防潮堤建設のため、今跡形もなくなってしまった。
それでも、なんとか地元の子供たちに伝え残そうと現地の調査に訪れた次第である。大洲市川河口には、その名残である砂礫が堆積していた。
しかし、越知川の防潮堤は急勾配で小学生が上り下りするには一苦労するだろう。
他にもあっても探したがなかなか見つからなかった。
町方周辺にはどうやら親水区域はさがし出せなかった。だが、イトヨの生息地である源水を学生に案内した時である。学生は歓声を上げた。こんなに美しい場所があるのでしょうか。生まれて初めてですこのような環境は。
どうやら小中学生の環境学習には絶好の場所である可能性が高い。

帰り、中里鮮魚店さんの新巻鮭を購入。大変美味しかった。

言霊コトダマという縄文の風習

2016-12-17 | 水圏環境教育
縄文人は言葉を大事にした。とは、人類学者尾本恵市博士の言葉。言葉のことを言霊と言った。言葉には力を持つものがあるという意味である。言葉を発するという事は、ものすごい影響力を相手に与える魔力を持っているという。縄文人はできるだけ余計な言葉を発しないように気を使っていたのではないか、と付け加えた。もし、私たち東北人が縄文人に近い子孫であるとすれば、あまり言葉を発しない理由はそこにあるのではないか。言葉ではなくて黙々と仕事をすること。そこに価値があるということを私自身も親の背中を見て教えられた。



本日の懇親会場。おなかま。すべて有機野菜で料理を作る。

尾本博士から著書を購入。大変読みやすく面白い。