アメリカにおける海洋リテラシー運動の展開
—海洋リテラシーなしに科学リテラシーはあり得ないー
Craig Strang
Associate director of Lawrence Hall of Science
University of California at Berkeley
佐々木剛
東京海洋大学
1 はじめに
<日本とアメリカの現状の共通問題>
日本の海洋科学教育の現状とアメリカの現状は酷似している。それは,海洋に関する内容が小学校において全く扱われないことである。日本も,島国日本,あるいは海国日本といわれながらも,学習指導要領に「海」あるいは「海洋」という言葉は存在しない。アメリカでも同様である。しかし,2005年に海洋リテラシーを作成し全米各地で海洋リテラシー運動が始まった。本稿では,アメリカの海洋教育の現状とそれを打開するための取組,それによってもたらされた成果と今後の実践課題について報告する。
2 アメリカの海洋教育の現状と海洋リテラシーの構築
<K—12教育における現状>
アメリカ合衆国の海洋科学は、小中高校全米科学教育基準、州科学基準、カリキュラムに特異的に存在していない。海洋についての諸概念は小中高校においてほとんど教えられず、海洋問題についての人々の関心の低下を招いている。すべての学問分野において,海や水圏に関する科学はどういうわけか,かつ不思議なことにK-12教育(幼稚園から高校3年生までの教育のこと)では不十分である。海や沿岸に関する概念や総合学習ではまったく教えられておらず,また,まったくカリキュラムや教科書,評価基準の中にも出てこない。海は我々の住んでいる地球の大半を覆い,地球上の生命のほとんどの産みの親であり,天候や気候にも影響を与え,我々の酸素の大半を供給し,多くの人類の食料供給源であることは明らかであるにもかかわらず,上述のことは事実なのだ。もし,海の科学が州や国家の科学基準から排除されることが続くのであれば海洋科学は社会的に取り残され,そしてカリキュラムに取り入れようとする努力は水の泡となってしまう。科学教育や地球の将来の健康について危惧を持つ人々は,科学教育の基準や評価についての研究を進めなければならない。
<海洋リテラシー構築のショート・ヒストリー>
このような状況の中で,海洋科学教育センター(COSEE)、ナショナル・ジオグラフィック協会(National Geographic Society)、アメリカ海洋教育者協会(NMEA)、アメリカ大洋大気局(NOAA)、アメリカ海洋政策委員会、海洋審議会は,オーシャン・リテラシーを増大するために小中高の科学教育に海洋を含めることをしきりに要請してきた。しかし、オーシャン・リテラシーがどういうものであるか、どんな概念が将来の基準の中に含まれるべきかについてコンセンサスが得られなかった。
科学者と教育者は、彼らが提示する内容に優先順位をつけることにおいて、あるいは、「幅1マイル深さ1インチ」として有名な過度に詰め込まれたアメリカの科学カリキュラムに対し、どのように適合するか決定することにおいて、指標をもたなかった。
このような背景のもと,2004年10月,2週間にわたりナショナルジオグラフィック協会がスポンサーとなってNOAA,COSEE,NMEAに所属する 100名の海洋教育者や研究者がインターネット会議を開催した。この会議は海洋リテラシーのよりよい定義づけをすること,関係諸機関からの提案をもとにした議論のプラットフォームを提供することを目的に招集された。この会議を受け,2005年にカルフォルニアのバークレーでワーキンググループによるミーティングが開催され,これらを経て,海洋リテラシー,海の概念の定義づけ,高校生以下の教育における海洋科学教育課程一覧表の作成が行われた。さらに,2006年に「オーシャン・リテラシーの範囲と流れ」の編纂を始めた。その中で、2年生、3~5年生、6~8年生、9~12年生の学年区間を通じた発展的にしっかりした学習進歩においてそれらの原理と概念がどのように形成され、様々な学年においてどの概念が適切かについて、教師、カリキュラム開発者、基準立案者や科学者をどのように導くのかが示された。
3海洋リテラシー運動の取組成果と展開
<取組の成果>
海洋リテラシーを持つことによって,私たちは次のような恩恵を受けることになった。
① 海洋教育者は,多くの重要な科学の学習内容は海洋を実例にして教えることができ,一般科学を教える上での魅力的な内容を提供してくれると常に考えているが,海洋リテラシーの構築により,現在より確かな信念がその仕事を導いてくれることになった。
② 多くの海洋科学の概念は,一般科学を教えるためのより魅力的な実例となること以上の意味があり本質的で重要な要素を含んでいることを再認識できるようになった。それゆえに,海洋リテラシーなしに,科学リテラシーを身につけることはできない。
例えば,科学改革の動きの中で最も初期に書かれ,また最も影響のある2つの書物Science for All AmericansとBenchmarks for Science Literacyの中にも,科学リテラシーを持つ者は,「自然界に親しみを持ち,その多様性と調和の両方を認識する」としている。また,研究により,海洋は私たちの世界の調和を持続させる重要な役割を担っていることが示されている。
③ 海洋リテラシーによって,地球規模の海洋環境問題を理解することが可能となった。例えば,広大な海洋なしでは,地球は火星のように不毛の地になり,金星のように息苦しい温室のような状態になる。一方,海洋と大気の相互作用はマイナスの影響を与える。空気中の化学合成物質は,発生源から数千kmも離れた北極圏に運ばれ, 海洋で吸収される。それらの汚染物質は,魚やアシカなどを食料とするシロクマのような上位の捕食者の体内で発見される。沿岸域に住んでいるかどうか,魚介類を食べているかどうかに関わらず,人間は海洋に密接に関わっている。
<海洋リテラシー運動の広がり>
海洋科学教育センター(COSEE),アメリカ海洋教育協会(NMEA),アメリカ海洋大気局(NOAA),探求大学(College of Exploration),ナショナルジオグラフィック協会(National Geographic Society),カリフォルニア大学バーレー校ローレンス科学教育研究所(LHS,UCB)によるサポートで実施された海洋リテラシーキャンペーンの影響は,全米の海洋科学者や海洋科学教育者に広範に行き渡った。
① このキャンペーンで発行された資料である『海洋リテラシー:初等中等教育における海洋科学の基本原則』は,多くの会議で提示され,全体協議(CoOL:Conference on Ocean Literacy,June 2006;and the New England Ocean Science Education Collaborative〔NEOSEC〕Ocean Literacy Summit,October 2006)の主題ともなっている。これらの基本原則は,カリフォルニア州全体で行われたメディア活動("Thank You Ocean")や新たな教科書(Life On An Ocean Planet)の開発にも影響を与え、NOAAやアメリカ科学基金(NSF)のような主要な資金提供機関の資金獲得優先権を左右している。
② 現在、カリキュラムの材料や博物館や水族館の展示,プログラム,全米で実施している教員のワークショップは,地域社会が海洋リテラシーを本当に必要なものとみなすことに合意しているという海洋リテラシーの考え方をとりいれて再編成されつつある。
③ それらの数多くの取り組みによって,海洋科学は、科学教育の本流に―或る意味では最前線に―もどってきた。最も大切なことは,海洋リテラシーキャンペーンにより,教育者が海洋科学教育について考えを改めたこと,つまり海洋科学を教えることは,単なる知識の強化ではなく,科学リテラシーにとって必要である、と考えを改めたことである。
<海洋リテラシーのマトリックス作成>
さらに,海洋リテラシーのマトリックスを作成した。このことによって次のような効果を生むことができた。
① 2006年NEOSEC Ocean Literacy Summitにおいて専門家の委員会は,科学リテラシーは,科学教育を集約的に行える場として海洋を利用することによって改善することが可能であり、また改善されるべきであると結論づけた。② 海洋リテラシー(The Essential Principles of Ocean Sciences K-12)は,コンセプト・マトリックスを利用し、全米科学教育基準 (NSES)と連携している。この方法は,既存の科学基準に内容を付加するためではなく,適切な海洋の内容を利用することで,教員が全米科学教育基準をもとに授業に取り組めるようにするために考案された。
③ この連携したマトリックスは,学習の基礎の半分以上が海洋を例に教えることができる、または教えるべきであるということを示している。例として次のものを上げることができる。
・気候の流動性やサイクルの中における海洋の役割について教わらずに気候
について理解することはできない。
・海洋の光合成や化学合成について教わらずに生産性について理解すること
はできない。
・海底の伸張について教わらずにプレートテクトニクスを理解することはで
きない。
・海洋の生態系について教わらずに生物の多様性を理解することはできない。
・海底の等深線図について教わらずに,地理学を理解することはできない。
4 海洋リテラシー運動の今後の展開
<海洋リテラシー活動の次なるステップ>
COSEEやそのパートナーは、海洋リテラシーが広く行き渡った社会を形成していく長い道のりのゴールを目指して,広い視野での評価法や海洋科学の教材の開発を行いながら、NSESや州の科学基準の改訂(日本では学習指導要領)に戦略的に影響を与えていく必要がある。短期的には,海洋リテラシーの原則を改良するための同士が必要である。COSEEは,以下の重要な支援方法の開発を行い,支援することを計画している。
① 州と国の科学教育基準アライメント
海洋リテラシーのパンフレットにあるマトリックス基準にある各`X`の意味を説明するために海洋リテラシーの基本的な概念と様々な科学基準との関連を詳しく説明したもの
② 初等中等教育のスコープ&シーケンス
基本的概念が全ての学年区分(K-2,3-5,6-8,9-12) を通してどのように発展し構築されるのかを図に示したもの
③ 教師ガイド
上記2つの文書にサンプルユニットの概略と海洋リテラシーの概念を教えることの探求活動を含んでいるもの
④ 評価教材
各学年区分のための標準的評価が含まれている;これらのものは発展的なつながりと構造をテストすることができる。
⑤ カリキュラム教材の一覧表
海洋リテラシーの基本原理と科学基準の概念を関連づけさせるための最も広く使われている教材と全てに関連した指導用教材を含む。
<合意形成へのアプローチの必要性>
海洋リテラシーキャンペーン活動は,短期間で,特筆すべき展開となった。
これは,多くの組織,機関,ネットワークや個人の協力の結果である。指導者は現れたものの,海洋リテラシーには,本部や明確な業務範囲,予算,それを運営する人がいない。社会が海洋リテラシー社会の理想だけでなく,活動のゴールのために必要な困難をも受け入れることが必須である。この「合意形成」へのアプローチが,海洋リテラシー社会の創造というゴールにとって計り知れないほど重要となるであろう。
5 まとめ
以上のように,アメリカの海洋リテラシー運動の実践的取組,その成果,今後の課題を概観したが,このような取組はどのような背景の元に実施されてきたのか?その特徴をまとめてみた。
その特徴の一つ目として,アメリカ海洋大気局(NOAA) の所管するシーグラントオフィス(SGO),アメリカ海洋教育協会(NMEA),海洋科学教育センター(COSEE)などが一体となって取り組んでいることである。これらの組織は,研究者や教育者らによって提案され組織化されたものである。SGOは,1960年代,海洋汚染が深刻化する中,水産学会スパイハウス会長の「これまで国が実施した中での一番の投資が必要である。それ(宇宙開発)と同じ種類の創造,先行投資は海洋の探求に適用されるべきである」という提言から始まった。NMEAは1070年代,海洋科学は一般科学を教える上での魅力的な内容を提供してくれると考える高校教師らにより設立された。COSEEは,1999年にNSF(全米科学財団)の海洋科学部門の研究者により,研究者に対し一般人への教育の重要性が強調され,その重要性に賛同する研究者や教育者によるワークショップを受け,NFSから支援を受けたかたちで設立するに至った。このように,研究者,教育者の働きかけが多くの同志の賛同を得,ネットワークが構築され,組織的な取組へと発展していった。
二つ目として,これらの組織に所属している海洋研究者が,K-12教育(高校生以下の教育)や一般人を対象とした教育を重要視していることである。研究と教育との連携を保つことは海洋リテラシー運動を展開する重要な柱である。
三つ目の重要な視点は,科学リテラシーを理解するために海洋リテラシーを身につけることが重要であるとしていることである。科学教育を視野に入れることによって,他教科への広がりを得ることができ,より多くの一般市民が必要とする科学リテラシーへと近づくとしている。
さらに,四つ目の視点として,海洋リテラシー運動が未だ続いていることである。最後に掲げた5つの内容は進行中であり,現在5つのうち2番目に取り組んでいるところである。これも,上述の組織の中で,全米の研究者と教育者の協力によって形作られている。
最後に,海洋科学の研究・教育における政府の予算措置である。SGEでは上部機関である商務省から,年間約50億円が研究教育活動のために,COSEEではNSFから年間約1億円が教育活動を支援するために投資されている。
以上のように,アメリカにおける海洋リテラシー運動の背景と特徴をまとめたが,海洋研究者と教育者が組織的に実施ところに大きな特徴があるといえよう。それらを支えているのは,K-12教育における海洋教育を実施する重要性の認識である。日本では,平成19年に海洋基本法が発効し,その中で国民の海洋に対する理解の増大が求められている。海洋リテラシー普及のためには,研究者と教育者が研究と教育の連携の重要性を認識し,政府機関は研究と教育の連携のための体制を整えるための支援策を考えることが求められるであろう。
財団法人新技術振興渡辺記念会 平成19年度科学技術調査研究助成(下期)、交付番号 19-168 期間:平成 20 年 3 月~平成 21 年 2 月 研究報告書 我が国における海洋リテラシーの普及を図るための調査研究 研究代表者 角皆静男 (特定非営利活動法人 海ロマン21 副理事長) (日本海洋学会教育問題研究部会 部会員)
https://www.ur21.net/_wp/wp-content/themes/UR2021/pdf/2009zenpen.cyousakennkyuhoukokushopdf.pdf