公開中 燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その28

2019-09-19 05:01:45 | 日記

2011年4月23日

  メールの送信を中断するにあたって

 災害発生時の二日後の3月14日から、県外の知人、友人にメールの送信を始めました。それは、今、私にやれることは何かの問いに対する自分の答えでした。だから期待するような反応は返ってはこなくとも良い。それはそれとして私の意は通じたと判断しています。

 そして、そのメールのタイトルを考えました。そして得た結論が「燃やしてはならない、消せない火を『私たちは』使ってしまった」という表現にしました。

 人類は「言葉と火」を使うことによって初めて『人間』となり、あらゆる生物を支配する立場にたったという逸話があります。支配者となった人間の傲慢は、言葉をたくみに使い、火を支配することによって、獣を支配し、やがては人間同士の殺戮である戦いを繰り広げていきました。 しかし、それでも飽き足らず、そして己の支配力をさらに強め、広げるために「消せない火」である「核」をつくり、そして「燃やし」ました。

 その火は、人類史上はじめてである「広島・長崎」に「焦熱と死の灰」を撒き散らし、21万人の尊い命を奪ったばかりか、今もって多くの被爆者の犠牲を生み出しています。

 そして1954年3月1日、アメリカのビキニ環礁における水素爆弾実験で降下した「死の灰」は、数百隻の漁船が被害を受け、その被曝者の数は2万人を越えるとみられの犠牲を生み出しました。そして日本における第三回目の「核の犠牲」が「第五福竜丸被爆」へと続きました。

 それだけではありません。その「消すことのできない火と死の灰」は米国スリーマイル島とソ連のチェルノブイリの原発災害を生み出しました。そして今、ちっぽけな「日本島」は、抜き差しならぬ不安と痛みに落とし込まれています。

 日本の未曾有な経済成長はエネルギー政策によることが大であり、そのエネルギーは「原発」を主体として成し遂げてきました。このことを否定するものはいないでしょう。そして、原発を「否」とする者も、自分の生活の向上を原発エネルギー〈電力〉に頼らないだけの生き方をしてきたでしょうか。いつしか「電化万能」の社会の中でその生活を甘受してきたことも事実です。また、その選択の余地の無かったとしても、それに頼らないだけの生活改善にどれだけの工夫と努力をしてきたでしょうか。むしろ、いつの間にかその「電化万能」の世界を「容認」てきたことは事実であろうと考えます。

 だから、私も含め「私たちは」という表現を使いました。

 もちろん原発の危険性を知ることの学習もしてきました。「原発誘致の反対行動」も双葉地区を中心に行ってきました。しかし、今、具体的事実を目の前にして、何すべくなく、驚き、たじろぎ、そして逃げ惑う姿も事実です。だからこそ今を生きている者の責任として、この事実をしっかりと記憶に残すことが必要であると考えました。そして記憶は、その時々の気分や社会的な現象であいまいになり、それどころか「脚色」をすることもあります。よって、「記憶を文字」が大事だと考えました。

 実現しなければならない廃炉への道もまた危険が伴います。巨大な量の「核のゴミ」の管理、処分も不透明です。アメリカのスリーマイル島の原発施設の廃棄物は、広大な「ネバタ砂漠」の真ん中の頑強なコンクリートで固められた建屋に保管をされています。しかし、その保管も「仮保管」と述べているニュースを見ました。またフィンランド西岸のオルキルオ島に建設される「オンカロ」の管理は10万年と言われています。10万年後の人類はどうなっているのでしょうか。

 そして、福島第一・第二の原発廃炉に向けた作業工程は100年、しかもその作業の無事と、そこから出される「核のゴミ」をどうするのかさえ明確ではありません。日本国民の大多数が「その終わり」の姿を見ることはできないでしょう。

   エピローグ

「国道6号線を仙台に北上する右側に巨大なセメントの山が10個ある。風雪に晒されたその山は、灰色に汚れ、異様な光景である。ボタ山であればいつかは緑が茂る。しかしコンクリートはコンクリートのままである」。

                                          2011年4月23日