改めて、天秤ばかりに掛けられない重さの違い

2016-03-20 09:34:55 | 日記

  改めて、天秤ばかりに掛けられない重さの違い

 

 「天秤ばかりに掛けられない重さの違いを知る・・・だが」(2016・3・8)

 このタイトルの私のブログに数人からのメールが届いた。そのどなたも交信を続けている知人である。いわゆる「メール友」と言うのだろうが、私にとっては、「友」というより「得難い知人」と受け止めている。

 そこには「天秤ばかりの話、ずっしりと重い言葉でした。量れない、比較はできないけれど、量りたくなる。そのどちらも、本当と思うだけに」と。

 また、「津波被害がひどかった地域の記事をよく読みますが、生活再建にいたらない被災者の方達の多さに悲しくなりますと述べ、津波、地震、原発の要因にかかわらず補償を含めた救済と再建の道をめぐる違いもまた痛感する」と。

 さらに、「情報量と内容の違い、判断力の違い、置かれた立場の違い、世代の違い等などによって、同じ現象を見ても捉え方の違いが生じる。自分に近い考えを持っていると思われる人も、話してみると異なる考えを持っていることが多々あります」と。

 東日本大震災3.11は6年目に入った。しかし、未だに避難生活、仮設住まい、そして生活の道筋も定められない多くの方々がいる。「元の生活」に戻すことは、所詮無理と承知していても「戻せ」と言いたくなることも理解ができる。同時にそこにとどまっては居てはならない「新しい生き方」をという主張も一方にはある。

 21年前の 阪神・淡路大震災は、1923年の関東大震災以来の甚大な被害をもたらした。現地を経験してはいないが、その被害の大きさは5年前を経験した者として理解ができる。そして20年後の現在も「多くの傷を癒されないでいる方々」のいるとの報告を聞く。

 とするなら、トリプル災害、とりわけ「原発の廃炉」への道すじなど、未だ経験をした事の無い未知の不安を残す福島の弊害はいつまで続くのだろうかと考える。

 そして宮城、岩手両県などの太平洋の眺望を一変させる巨大な防波堤、そして海岸線や漁場の変貌。先が見えない高台移転などを抱える津波被害の地域の住民の将来はどうなるのか。

 これらの全てを、今を生きる者の大多数が先を見ることなくこの世を去っていくだろう。

 そして政治の貧困がある。国会審議の場で露呈する所轄大臣のお粗末な答弁、滔々と述べるがいつも同じことを繰り返す。それでいて外国の有名学者を招聘し「政局のあり方」に権威をつけようとする国の最高責任者。

 6年目の桜の開花を前にして、なおも考え込む今日である。

 

 


決断しなさい。自分で判断できるうちに・高齢者住宅入居の勧め

2016-03-15 08:47:38 | 日記

  決断しなさい。自分で判断できるうちに・高齢者住宅入居の勧め

 

   私の5年先輩である方のお宅を訪問する。玄関まで出てこられる姿は、杖は突いていないが壁や家具に手を添えてのそろり足である。

 1年前に、闘病生活をしていた奥様が入院先で亡くなる。とても明るい方であった。時折お邪魔をしたが、話は尽きず、つい時の経つのを忘れたことを懐かしく思い出す。その奥さまも今はいない。先輩は開口一番「いいところに来てくれた。聞いてもらいたいことがある」という。その話は今後の身の振り方であった。

 介護認定は「要支援2」である。週2回リハビリに通う。ディーサービスは利用していない。一応は毎日の食事を始め家事は自力でやっている。リックを背負って近くのスーパーに行く。幸いなことに200m程度のところに大きなスーパーがあるから助かると言っていた。そうだと思う。コーヒーも淹れられる。私は遠慮をしないことにしている。来客のためにお茶を用意することも本人のためには良いことだと思っているからである。

 そして取り出してきた封筒の中身は「介護付き高齢者賃貸住宅」のパンフである。お一人の子どもさんの町にある施設である。子どもさんにとっては、離れて暮らす独居の父親は心配である。だからと言って戻るわけにはいかないし、同居の決断もままにならない。それに父親はそれを望まない。そこでの提案が自分の地元の施設へのすすめであったと判断する。

 先輩は迷っていた。家がある。住み慣れたところである。離れることへの拒絶はある。また、まだ一人でやれるという想いはあるが、それがいつまで続くかはわからない不安もある。どうしようかと迷う。当然である。

 私は即座に入居を勧めた。自分で判断ができる時に決断をすることが大事であろう。経済的にも受け入れる条件はある。年金そして預貯金、もう子どもに残す必要はない。それを全部使ってしまいなさいよと。あちらには銀行も無ければ、不動産業も無い。自分のために使えばよいなどの、遠慮のない会話ができる年齢でもある。

 さて、その家である。私たちは「マイホーム」の時代にあった。年々の賃上げもあった。共働きも珍しくはなかった。預金が10年間で倍になった時代である。融資も借り手有利の条件にあった。よって大方が自家をもった。それがある意味では重荷になっている。現在空き家が目立つが、その多くがマイ―ホームの夢を実現した結果である。先輩もそのことが気がかりであった。幸い、子どもは故郷に帰ってきたいと述べているという。それでも先のことでありからわからないだろうが管理を頼むことができる。市のシルバー人材センターも業務内容にそのことを盛り込もうとしている等々。久しぶりの尽きない会話となった。

 帰りにあたって、玄関まで見送りに出られた先輩の顔には「安堵」の表情があった。寄ってみて良かったと。80歳と85歳の同士の会話ができたひと時であった。このような人間関係が「高齢者同士の場」なのだということをあらためて痛感しての帰宅となった。

 

 


80歳が語りかける「保育所問題」・夏の政治決戦の的の一つに・・・・・

2016-03-14 21:11:23 | 日記

   80歳が語りかける「保育所問題」・夏の政治決戦の的の一つに・・・・・

 

   80歳の私が「保育所問題」とはこれいかにと思うだろうが、今般の政治を語るものの一つとして、しかも短時間で政府の姿勢を変えた「保育所落ちた、日本死ね」のブログを考えなければならないと思った次第である。結論は「夏の参議院選」を意識したものであることは間違いがないにしても、安倍政権、とりわけ安倍首相の姿勢の変化を見過ごすことはできないと思うが、どうだろうか。

   あらためて、80歳のものが今更と言われることを承知で次の報告をしたいと思う。

 50年前のことである。共稼ぎである私にとって、最初の子どもの保育について方針を持つことができなかった。当時存在をしていた僅かな「公立保育所」への申し込みは受付期間からも無理。そして選択をしたのが近所の「おばさん保育」に頼った。これとて受け入れてくれるまでのお願いにはかなりの.時間を要した。当然である。おばさんにしても、経験はあるものの他人の子どもをあずかる負担と責任はある。でもどうにかしてお願いをすることができた。

 そして近くに「公立保育所」の建設が始まった。私は二人の子どもつれては、その建設現場に訪れ「あなたたちが来る保育所はここですよ」と言葉をかけ続けたことを記憶している。そのためか、二人の姉弟はすんなりと新しい生活を受け入れたことを嬉しく思った。

 そして取り組んだのが「保護者会」の結成であった。何も保育所運営と対立するつもりはなかったが、結果的にはそのことは避けられなかった。その一つに「保育時間」の問題があった。当時、自家用車を所有している者はいない。多くは自転車か、路線バスである。職場によっては定刻には帰れない場合がある。当然にして時間通りの迎えが困難である。この続出に対する対応であった。保育所側は規定通りの保育時間をもってお迎えを求める。そこで取り上げたのが保母の所長昇格であった。当時は行政の管理者が所長を兼務していた。これを取り外し保母の登用を求めたのである。かなりの抵抗があったが第一号の誕生は私の子どもの保育所であった。私は新所長に求めた。「所長の管理責任において時間延長の子どもの保育にかかわってほしい」と。

 次に取り上げたのが「無認可保育所」への助成であった。これについては施設側からの抵抗があった。「助成を受けることは、行政の管理を意味する」というものである。この件については、施設側も保護者側も奇妙に一致する。保育の内容の向上を求める保護者にとっては行政の助成はありがたい。しかし、それを口にすることが「我が子」に影響をしないかの意識が生れ、著名には躊躇するということを体験した。

 今でこそ「企業内保育所」の設立は一部ではあるが常識となっている。当時、私が勤める職場に「企業内保育所設立」の運動を起こしたことがある。幸いにして私は当時の労働組合の代表であった。しかし、組織内からの反対が生まれた。執行体制を擁護するための「いい格好の方針だ」というものである。そしてその2年後、職場の3割に及ぶ人員整理が強行された。その対象は「共稼ぎの女性」であった。

 今般の一つのブログが影響をした政治的運動の芽生えが政府の姿勢の転換させたこと、このことをあらためて重く受け止めるべきではなかろうか。

そのことを訴えたく、50年前の記憶を紹介したところである。参考にしていただければ.嬉しい。


私たちは「消せない火」を燃やしてしまった

2016-03-12 09:53:35 | 日記

  私たちは「消せない火」を燃やしてしまった

  東日本大震災の「記憶を呼び起こす日」2016年3月11日は風のない穏やかな春日和となった。

   「これからはじまる混乱と不安・そして仲間との対立。解決の道が見えない長い道程・原発災害は最悪・長期化は覚悟すべきだ」  

 【1000年に一度とか、世界史上第四位の大災害と言われていますがひどく恐ろしい出来事です。犠牲者数は2万5000名を超えるのではないでしょうか。そこに原発災害です。第一・第二原発は合計10基です。1号機と3号機が水素爆発をしました。盛んに、容器は安全だと主張していますが、これも史上はじめてのことであり、日本の原発技術からしてもマニュアルもノウハウもないと思います。さらに2号機・4号機と続くことが考えられます。最悪の状態を覚悟しなければならないと思います。枝野官房長官の発言も、国民のパニックを考慮しての発言と考えますが不明確です】(2011年3月14日)

 この文章は、事故後3日目の14日から全国の知人に発信を始めた最初のメールである。私は自分に誓った。これから始まるだろうあらゆる事実を伝え残そうと。記憶は時間の経緯の中で薄れ、忘れ去れていく。そればかりではない、意図的でないにしても、そこに演出が加わり脚色をして伝えられこともある。またその時代の政治によって都合よく作り替えられることがある。だから、記憶ではなく「記録に残す」ことが大事だと考えた。そして4月19日までの毎日その記録を発信続けた。そして、その送信文をあらためてまとめることを決意したのは、知人の勧めもあって3年後に編集した。その編集後記に次の文を綴った。      

 「燃やしてはならない、消せない火を私たちは使ってしまった」

 人類が「言葉と火」を使うことによって初めて『人間』となり、あらゆる生物を支配する立場にたったという逸話がある。支配者となった人間の傲慢は、言葉をたくみに使い、火を支配することによって人間同士の殺戮である戦争を繰り広げてきた。しかし、それでも飽き足らず「消せない火である核」をつくり、燃やした。・・・中略・・・最終処分場は未だ決定していない。しかも今なお原発の解体は完了していない。破壊された原発は3基である。溶解した塊270トン。しかもすべてが炉を突き破っていると想定されている。この塊の取り出しに何年かかるだろうか。そして、全ての燃料棒の取り出しと解体、高レベル廃棄物の一時保管。この解決を見るには40年とも、いやそれ以上とも解説されている。まさに「先が見えない」。それだけ長期にわたるものであり、かつ膨大な費用と大きな犠牲をともなう作業となることを覚悟しなければならない。

 「人間がコントロールできないものを、私たちは生み出してしまった」。いやいやそれは違う。原発の建設と稼働は国策であり、国・東電の責任だ。私たちの責任ではないと。もちろん、責任の追及は緩めてはならない。しかし、それで済むのだろうか。私の意識の中では、今後もこの問いを続けることになるだろう。

「エピローグ」

 国道6号線を仙台に向かう右側に「巨大なセメントの山が10個ある。風雪に晒されたその山は灰色に汚れ。一部ひび割れも生じている。異様な光景である。ボタ山であればいつかは緑が茂る。しかしコンクリートはコンクリートのままである」。

                                        2014年7月28日

 


「保育園落ちた・日本死ね !」の言葉が政治を動かす

2016-03-11 12:36:24 | 日記

 「保育園落ちた・日本死ね !」の言葉が政治を動

  乱暴な言い回しであるが、そのブログが日本中を駆け巡った。そして開催中の参議院予算委員会で取り上げた民主党の山尾委員の発言に対し、答弁に立った安倍首相は「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と述べ突き放した。さらに自民党席からは「やめろよ」「本人出てこいよ」「誰が言ったんだよ」「うぜえ」など汚いヤジが飛び出した。

  この事実に対する市民の反応は素早かった。保育園に子どもを入れられなかった母親らが9日、国会内で塩崎恭久厚生労働相に保育園の整備加速や保育士の処遇改善などを求める2万7682人分の署名を手渡した。それは「保育園落ちた日本死ね!」と題したブログをきっかけにネット上の署名サイトで集まったものである。

  また、常に自民党席の最前列を指定席としている平沢勝栄議員も、そのヤジ飛ばしの責任をとってマスコミに登場し謝罪をするなど右往左往の舞台演出となった。

  さて、次の舞台は塩崎大臣の演技に移った。

    署名を渡した東京都渋谷区の女性は、1歳2カ月の長男を抱きながら「認可(東京都の独自制度の)認証、認可外保育所の全てに落ちた。今月末で育休が切れ、復職できないと退職せざるを得ない。いつかやるではなく、いつまでに何をどうするか明確にしてほしい」と訴えた。塩崎大臣は「しっかりと受け止めたい」と応じた。また、これに先立つ衆院厚労委では、山尾委員の質問に答え「入園選考で有利になるよう、働き方を短時間からフルタイムに変えたり、保育園近くに引っ越したりするなどの『保活』の実態を調査する」ことを表明していた。

  そこまでは良い。しかし、セリフを読み違ったのかそれともその通りであったのか、署名を受け取った塩崎大臣は、自分の息子夫婦の「保活の苦労」にも触れ、認可保育園に入るまでの4カ月間は区外の認証保育園に月20万円近くかけて通ったことを紹介したのである。

  5カ月の長男を連れているため委員会の傍聴が認められず、国会内で中継を見ていた東京都中央区の女性(35)は「20の保育園を問い合わせをしたがダメだった。このままでは退職になる。入園でき、20万円払えるだけ恵まれている」と。

  20万円の保育料を払っても仕事を優先させる女性とはどのような人なのだろう。その言葉を聞いた母親は怒ったという。当然である。保育料20万かけても働きたいのではなく、働かなければ暮らしが成り立たない家庭が数多く存在するのだ。

  そこで思い出す。かつて安倍首相は「夫の月収50万、パートで働き始めた妻の月収が25万円」と言う例示の発言をしていた。政治家の感覚とはそういうものである。その政治家が「国民に寄り添う政策」をという言葉を口にする。貴方たちの感覚からする「寄り添う」とは、そういうものですかと。

  そのような政治家は辞めてもらわなければならない。変えなければならない。そのすべてが夏の参議院選にかかっている。そのことを肝に銘じたいものである。