そこには「人はいない」・あるのは「業務」である。人件費ではない「物品費」である

2014-10-31 12:28:44 | 日記

     そこには「人はいない」・あるのは「業務」である。人件費ではない「物品費」である

 

  1970年代である。自動車産業や電機産業における製造の組み立て工場の中には「期間工(季節工)ライン」というものがあった。つまり、農閑期に故郷から出てきて働く皆さんのベルトコンベヤーである。そこは、青森弁から、秋田弁、そして関西弁も加わるにぎやかなラインであった。中には、毎年決まって出かけてくる人もいて職場の「顔」になっている。

  企業の労務担当は、秋の取入れの終わるころを見計らって村の役場を訪れる。いわゆる「出稼ぎ労働者」の募集である。そこで契約が成立すれば「支度金」が手渡される。期間工の雇用契約は、労働をする場所の会社であり、その事業所の管理監督(指揮・命令)下に入る。そのことは、不幸にして労働災害にあえばその事業所が加入している労災保険によって救済を受ける。

  さて、同年代のことであるが、当時「臨時工制度」というものもあった。文字通り「臨時の労働者」を募集し、雇用をした。その募集案内には「勤務良好なる場合、本採用の道あり」という文言がついていた。しかし、本採用の実現は極めて少なく、諦めて退職をしていくケースが多かった。一部賞与もあったが、いわゆる「寸志」の類。もちろん退職金はない。

  そして雇用された臨時工の数が、正規労働者(組合員)を超える事業所もあった。

  臨時工(非組合員)の数が、組合員を上回るということはどういうことになるのか。その一つに「時間外協定」がある。これをめぐり当該労働組合が、事業所の「労働者を代表することになるのか」ということをもって、時間外協定はできないという闘争を展開した労働組合もあった。

  そこで考えたい。

  今国会に提案されている「労働者派遣法」の改定がある。その主要な討論に「派遣期間」の問題があるが、別な角度からの論争も必要ではないかと主張したい。

  前記した「期間工」にしても、また「臨時工」にしても、会社は労働者を求めていたのである。だから「非正規」であれ、直接その労働者との「雇用契約」を結んでいる。

  しかし、「派遣労働者」は、労働者という表現されているものの、実は「人」ではなく、「業務」なのである。現に、派遣の受け入れ側(元請)は、その派遣労働者に対する賃金の支払いを「人件費」として計上していない。「物品費」あるいは「発注費」として計上をしている。つまり、受け入れ側の事業所にとっては「発注書」であり、それに対して派遣側は「納品書」となる。

  この両者の間に介在する「労働者」は「人」ではなく、どこまでも「業務」なのである。

  物品費である以上、安いことにこしたことはない。高ければ発注先を変えるまでである。

  ここからの討論を始めない限り、「派遣労働者」の問題は決して解決しない。当然「生涯派遣」はあり得る。その業務が必要とするかぎり、「顔」を変えれば良いことになる。

  別な角度から見れば、「派遣労働」の非近代的な姿が見えるというものである。考えてみよう。

 




 介護・看護。あなたか゜頼れるのは誰・・・・・・・・

2014-10-30 10:58:43 | 日記

      介護・看護。あなたか゜頼れるのは誰・・・・・・・・

  特別養護老人ホーム(特養)の個室化が言われて久しい。要介護者とはいえ、それぞれの私生活が大事にされるという意味で個室は望ましい。だが、個室化すは利用料金の問題が発生する。いわゆる「差額ベット」である。結局は、やむなく低料金、あるいは無料ということがあって特養の6割が4人から6人の相部屋となっている。その相部屋に自己負担・月1万5千円を徴収する案が出ていることが報じられている。

  勿論全員ではない。その対象は「住民税課税世帯」の入居者となっているが、次から次へと提案される「改革と称する」変更は、高齢者の今後に強い不安を与えるていることは間違いない。

  若干古い記事ではあるが、朝日新聞社が8月15日、16日の両日、コンピューターで無作為に全国の有権者を対象に調査したものがある。世帯用と判明した番号は3380件、有効回答は2030人。回答率60%。その中で、高齢者についての質問をしているのが次の内容である。

   ◆  仮にあなた自身が病気になったり年をとったりして、だれかの手助けが必要になったとき、家族や親類に頼れると思いますか。

              頼れる              57パーセント

            ・頼れない            37パーセント

   ◆ 「頼れない」と答えた人に聞きます。それはどうしてですか。

             家族や親類がいないから    2パーセント

             居ても遠方だし高齢だから  17パーセント

             迷惑をかけたくないから    72パーセント

            ・頼み事ができない関係     6パーセント

   ◆  仮にあなた自身が、病気になったり年をとったりして、だれかの手助けが必要になったとき、家族や親類以外の人や                  

      業者に頼ることに抵抗を感じますか。感じませんか。

             感じる               40パーセント

            ・感じない             53パーセント

  毎日新聞社の特集記事に「さまよう高齢者」というものがあったが、この調査によっても明らかなように、今後も、「さまよい続けるしかない高齢者の実像」を物語っているとしか言いようがないだろう。

  さらに、介護1・2の要介護者はその特養からも締め出される。要支援者においては介護保険の枠外におかれる。そこで出てきたのが、「雨の後タケノコ」よろしく特別有料老人ホームや「介護付き高齢者賃貸住宅」の建設である。それなりの入居一時金、さらには月18万以上の入居金が条件となる。果ては高齢者賃貸住宅においては、その事業主による「過剰介護サービスメニュー」が強要されつつあるという。

  ますます今後も「さまよわなければならないのか」

  国の責任者の「生活の豊かさが全国津々浦々まで」の言葉は、この世界には届かないのか。

 

 


 原発は今後の選挙闘争の争点になるのだろうか

2014-10-28 13:19:57 | 日記

     原発は今後の選挙闘争の争点になるのだろうか

                 

  福島県知事選については、昨日のブログに「低投票率」について書いた。そして、その責任は私たち住民の側にもあるとも書いた。

  そのところを深ぼりしてみたいと思う。まず「原発」が争点になったのかということである。どの候補も、県内原発全基の廃炉については一致していたが、県外原発の再稼働、廃炉という点では不一致があった。しかし、その件については、何よりも汚染水対策も含めた県内原発の収束と復興であり、風評被害対策もある。雇用もある、そして補償問題もあるという中で、原発輸出も含めたそれは全国的な政治課題であり、知事選にはなじまないテーマであるとして県民の争点にならなかった。それが「県民一丸となって」というスローガンに凝縮されている。つまり「目の前の身近な生活の問題」の取り組みこそ、直近の課題であるとの受け止めであり、「いろいろあるが継続の原則と、国の支援が必要だ」という流れになったと判断して、まず誤りは無かろう。

  とは言え、触れなければならないものに「放射能汚染対策と中間貯蔵施設建設」がある。具体的には健康不安である。事例として子どもの甲状腺障害がある。県は18歳未満の児童に対し全員の検査を実施し、その結果をもとに「原発事故によるものとは言い切れない」という見解を出した。この見解をめぐる行政の在り方に対する討論がある。「この結果は明らかに原発被害によるものだ。よって国と東電の責任を追及し、合わせて保障(補償)を求める」との主張、さらには「その責任は法で裁かれなければならない」とするものもある。しかし、今般の論戦の中では、要因が明確でない限り「今後も調査(検査)は継続し、経過を見ることが大事である」という点では一致している。

  そして「中間貯蔵施設」がある。自らも避難をした当時の行政の「長」であった井戸川候補も県内設置を明確に否定はしていない。地元住民に対する丁寧な説明と補償が大事であり、住民の了解が前提であると述べている。選挙政策的にはそのようになるだろう。

  私は、政治評論家でもないが「市民感覚」として述べれば、今後の福島県における政治選択の課題に、「原発事故問題」は前記の論争を続けるかぎり争点にはならないと受け止める。例えば、健康不安は原発事故が要因であるとする限り「18歳未満の健康診断およびその治療の無料化」の法律制定には国は応じてこないだろう。この間、チェルノブイリを通じた専門家が来日し、私たちにメッセージを送っていく。そこには明確な知見の一致はない。つまり国際的知見は定まっていないのである。ならば、まずは「健康診断、治療の無料化法案」を実現させることに専念すべきであろう。そこには必ず論争が生まれる。

  また「中間貯蔵施設」である。残念ではあるが今後住民間の対立が生まれるだろう。また地権者の親族の中でも不一致が生まれるだろう。それは避けられない事実である。私たちは、そのような事実を通して「これが、原発が生み出す元凶なのです」。「だから原発は作ってはならない、稼働してはならない」という視点で訴えたらどうだろうか。そこには必ず争点が生まれる。

  争点が生まれれば、そこに住民(県民有権者)の選択視が生まれる。

  今回の選挙において敗北をした候補者の、とりわけ「放射能論戦」を展開した候補者の結果を見る限り、その論点は住民の支持は得られない。その修正が必要と痛感するのだが、いかがだろうか。

 


 投票箱が閉じられた時に「当確の報道」が流れ、低投票率に終わった福島県知事選

2014-10-27 18:55:56 | 日記

   投票箱が閉じられた時に「当確の報道」が流れ、低投票率に終わった福島県知事選

 

  かつてない6人の候補者による福島県知事選の結果は、投票締め切り時刻と同時に「内堀当確」の活字がテレビの画面に流れた。

  この時刻は、投票箱が投票場から持ち出されようとしている時間帯である。マスコミの素早い報道に「早いことは良いことだ」とは言えない後味の悪さを感じたのは私だけであろうか。

  さて、結果であるが「内堀候補の圧勝・低投票率」という予測がそのまま表れてしまった。とりわけ、「投票率・過去二番目の低さ」(45.85%)となったことは残念でならない。

  3.11の地震、津波に加え、原発事故というトリプル災害を受けた後、はじめての福島県の政治選択の機会であった。県の行政トップを選ぶにふさわしい投票率を期待したが、5割にも満たない有権者の政治参加で終わったことは悔しい。

  15日のブログにも書いたことであるが、「時の為政者にとって一番嫌のことは、国民の政治参加が高まることである」と。それを選挙で考えれば高い投票率ということになるだろう。その意味では、今回の知事選の結果は、自民党の本音からすれば最高の結果ということではなかろうか。

  この投票率の市町村別の実態を見てみる。最高は260年もの間、受け継がれてきた檜枝岐歌舞伎の名でも知られている桧枝岐村である。前回も89%でトップであった。そこで考えさせられるのは最下位のいわき市であり、二番目の郡山市である。ともに県内最大の有権者を有する地区である。そして前回も同様な順位となっている。

  さて、いわき市である。ここには双葉地区からの避難者が集中している。震災前は地価の安い都市部の代表であったが、今や高騰の一途をたどり、加えて不動産不足が叫ばれている。また郡山市である。福島市と並び他県への避難者を多く出している地区である。いずれも、原発基地から70キロ離れている地域ではあるが、低線量からの健康不安を強く叫ばれてきた地区でもある。現に、福島市・郡山市から自主避難をしている数は28.000人とも言われている。それだけの問題を抱えている地区でありながらも、政治の刷新に臨む行動が伴わなかったのは何故なのだろうか。ちなみに県庁所在地である福島市の投票率も59市町村中の47位(47.24%)であった。

  県政の期待する課題を多くかかえているであるにもかかわらず、有権者が投票場に足を運ばなかった。

  この原因は政党にも責任はある。候補者もその責めは免れない。しかし、ひとえに国民(県民)有権者の責めは大きいと私は考えたい。  そのことの究明が無ければ、福島の実情からからする「低投票率」は説明できないと考えるが、どうだろうか。

   来年は、統一地方選挙の年である。身近な行政の選択を可能とする。にもかかわらず、またぞろ「低投票律」の再現は許されない。

  肝に銘じたいものである。


 避難先での、故郷の放射線情報を得るための「知恵と経験」とは

2014-10-22 11:49:22 | 日記

   避難先での、故郷の放射線情報を得るための「知恵と経験」とは  

 

  東京都内でも「放射能線量の危険がある。子どもを持つ親は、子どもの健康を守るためにも避難すべきである」。このような知見のもとに「被ばく不安」を発進している方がいる。また、福島県内、とりわけ福島・郡山を中心とする中通り地区は避難の対象地区であると論ずる方もいる。

  しかし、原発事故3年半を経過した今日、元気に学校に通う小学生の姿もあり、避難地区から実家の福島に戻り出産する母親も増えている。そして徐々にではあるが、自宅に戻ってきている母子も増えてきている。

  今回の福島県知事選の課題のひとつに、この避難生活に対する問題が提起されている。その事例として、子どもの健康を留意し今も県外に避難続けている母子の実情をあげている。夫である父親は、職場の関係で別居生活を余儀なくされているケースである。この実態は多い。そこで二重生活を続けることの異常と、経済的負担に悩む。子が両親を必要とすることは当然であり、そこに正常な家庭生活が存在する。また若く、健康な夫婦の別離はリスクをも生む。

  そこで避難している者の悩みとして自分の町の安全が見えないことをあげている。学校給食は安全か、学校の校庭やプールの線量は大丈夫か、通学路の除染は進んでいるのかなどの情報が不足していると訴える。だからその情報が欲しい。自治体はその情報を、県外に避難している者に発信すべきだというものである。それが知事選の政策課題であるという提起である。

  それを見て、私は「一寸待てよ」と足がつまずくのを覚えた。

  私は、次のような事例を知っている。避難をした母親が自分の子どもが通っていた学校の行事や、校庭、校舎の除染。通学路の除染などの取り組みに避難先から参加をしている。いずれは「戻ることを」を意識しての、保護者仲間との交流関係を維持したいとする判断からである。いわゆる「ママ友」の絆づくりである。そしてその母親は、避難先にあってもきちんと情報を得ている。まさに「知恵と経験」による賢い対応というものであろう。

  情報が無い、見えない。それを補うことを自治体に求める。それは間違ってはいない。だがそれでよいのだろうかという疑義を持つ。また行政の会報やニュースの情報を、どのように受け止めるかもあるだろう。そこに信頼関係が無ければその情報も無意味である。

  以前、ブログに書いたことである。「避難する、しないは最終的には本人の選択であり、決断です。よって避難を選択される方は、それはあなたの決意です。残ることを選択した方に、そのことを強要しないでください。間違っても『それで子どもへの責任が取れるの』などの言葉は発しないでください。また、残ることを決意した者は、避難する方に対して帰ってくるな、などの言葉を述べないでください。是非、見送る、見送られるの関係をつくってください」と。

  子どもを通した「ママ友」の情報こそ信頼できるものであろう。そのような人間関係を大事にしていきたいものである。一人の母親の「賢い対応」は学ぶべきではなかろうか。