燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その15

2019-09-06 04:37:57 | 日記

         
 2011年3月27日

原発エネルギーの恩恵を私たち全国民は受けてきたはずです。

 揺れの間隔が長くなりました。しかし揺れは続いています。津波のつめ跡も除々にではありますが復旧しつつありますが、福島の避難地の実情の厳しさは変わりません。それでも一部においては仮設住宅建設の動きが出てきました。しかし原発の不安でいっぱいです。帰る土地と家があるにもかかわらず帰れないのです。そこで生活ができないのです。現に原発から58キロ離れた郡山市も揺れによりブロック塀は倒壊し、屋根瓦が崩れ落ちています。家の中もめちゃめちゃです。緊急な後片付けや修繕はしていますが、「原発が再度爆発しないか。そうなれば避難をしなければならないかもしれない」と言う不安が、次の修繕を差し控える家庭が増えています。

その郡山市に「双葉・富岡・川内の皆さん約1200名」が避難しています。その避難所は「ビックパレット」というイベント会場です。一時は2500名が避難しました。段ボールの上に毛布と言うのが避難者の部屋です。その毛布も薄汚れてきました。トイレには「備えのスリッパがあり、履き替えて下さい」と言う張り紙がありますが、履き替える人は少ないようです。当然です。長いこと共有のスリッパです。私もためらいました。そして気になるのが「弁当の差し入れに頼る毎日」です。もちろん財布の中身もありましょうから「外で好きなもの」というには躊躇もあるでしょう。しかし、このままの生活では人間が駄目になってしまいます。

いずれ70代以上は戻ることはできないでしょう。このようなことを政治家が発言したら問題になるのでしょうが、現にそこにおられる高齢者の方々はそのように言っています。私は正しい判断だと思います。それだけ長期で不透明な先行きと言うことです。このような避難状態はそれこそ緊急措置です。期間はせいぜい10日、長くとも1ケ月でしょう。

また「いわき市」です。37万人の都市です。ここでも同様なことが起きています。電気・水道、そして油、加えて原発放射能の不安です。災害発生時からの二晩で、万単位の市民が脱出しています。これは前にも書きました。

さらに避難地区から出た10万に近い皆さんの誰一人として、被爆の全身状態を示す人はいませんが風評によって被爆者扱いにされています。

原発は国の政策でした。そしてそのエネルギーがもたらす経済成長の恩恵を受けてきたのも私たち日本人でした。その原発立地県の私たちへの同情と援助はあっても、差別されることには納得できません。「悔しい」の一語に尽きます。