「より薄く・より広く・そして暫時少しづつ」

2013-09-30 09:50:30 | 日記

 「より薄く・より広く・そして暫時少しづつ」

 

去る8月に解散した「税と社会保障制度改革」国民会議の責任をあらためて問いたい想いである。

ブログ7月31日に「絵の具代の見積もりは許せない」というタイトルで、国民会議の責任を追及した。いわゆる「新しい未来が見える制度」をつくることを放棄し、現状制度の赤字解消を求め、国民には負担を強いる答申を提起して去っていったからである。

さて、10月から実行される年金の減額である。それは減額すべきであったのを、今日まで手をつけてこなかったというのが理由である。

まず10月から1パーセント減額される。2014年度さらに1パーセント。そして2015年に0.5パーセントであり、合計して3年後は2.5パーセントの減額となる。2012年度の厚生年金受給者の平均は277万円と言う。月額にして23万9.000円。初年度は2.300円。そして3年後の2015年度には5.900円/月の減額ということになる。

大衆は不満を持つものの、残念ながらあきらめも早い。一気に年額55.000円の減額となれば目じりも上る。しかし、月額2.300円、2.300円、1.150円と小刻みに上げられることによって無神経となる。決して小さな数字ではないはずなのに諦めの中で抱え込んでしまう。

いつの時代でもそうだが、大衆課税は「より薄く、より広く、暫時少しずつ」という段取りを伴う。それでいて、大衆課税は巨額の原資を生み出す。

収入減を、各自が諦めで解消することも知恵かもしれない。しかし、この大衆課税の政治構図だけは、今も、これからも、決して許してはならないことを肝に銘じたいと思う。

不満は無いわけではない。そのことを為政者は「百も承知」である。その不満が「政治を変えよう」という姿勢に点火させなければ良い。そこで、必ず「補助・助成・あるいは現物給付」という方策を示す。また「暫定措置」という猶予を示すことによって、国民の分断を図り、懐柔する。その一つが「低所得者層」という構図である。そこに異議は入り込めない。いつしか方針が貫かれる。

さて、前記した年金の平均額については、異議ありと手を上げる人は多いはずである。おおよそ年間220万円前後というのが実情であろう。そこから公的負担である各種保険料をはじめとして、しっかりと課税責任を果たすことになる。これは承知のことである。

政権の選択権(総選挙)の行使は、向こう3年間は無いかもしれない。それは自民党政権が続くことを意味する。

昨年暮れの総選挙、7月の参議院選挙の結果であり、私たちは選択した。この事実は、悔しいが認めなければならない。

 

 

 

 


もぐら叩きを続けながら、なおも「安全審査」を求める裏は

2013-09-29 09:40:11 | 日記

 もぐら叩きを続けながら、なおも「安全審査」を求める裏は

国会の閉会中審査が27日に開催された。そこで東電の広瀬社長は「0.3平方キロ湾内はコントロールされている」と発言。IOC総会における安倍首相の発言を容認した。

それでは広瀬社長が公言する「コントロールの根拠は何か」。少なくとも東電技術陣にあっては、全体を把握する立場にある山下フェロー(原子力・立地本部福島第一対策担当)の発言を否定するものである。覆すだけの説明が必要であろう。しかしその説明は無い。

しかもこの不一致は、首相が世界の場で表明した責任にかかわるものである。大変な重みを持つ。社長の権威をもってしても、山下氏は解任に値するものと考えるのが至当であろう。その見解も無い。

時も時、自民党の福島原発事故究明に関する小委員会は、「凍土遮水壁についてはコストが非常にかかる」ものとして、コンクリート壁に変更することを求める提言をまとめている。ところがその提言からすっぽりと消えているものがある。それは「使用済み核燃料の最終処分法が確立するまでは、原発の新規建設は見送る」という表現の削除である。極めて真っ当な考えが、原案から消えた要因は何か。党内の反発を受けた結果と報じている。

収束の方針も決められず、広瀬社長をして「もぐら叩きの対策」という発言をしなければならない状況にありながらも、執拗に安全審査の申請を続ける電力会社の姿勢は、この新規建設をも固執する安倍政権、そして自民党の方針に裏付けられたものとしか言えようがない。国会審議における広瀬社長の「同意発言」は、まさに自民党政権と心中する政治的発言である。

さて、自民党内で異議のある「凍土方式」であるが、鹿島建設によるものであり、トンネル工事など小規模建設の実績はあるが、世界的には試行の段階と解説されている。

全長1.2キロメートル。凍結管を1メートル間隔で地表から20~30メートルまで打ち込み、マイナス40度で凍結させた壁をつくるという大規模な工事である。しかもその凍結は維持させなければならない。しかし止めようとする地下水は暖かい。凍結の壁が維持できるだろうかの疑問も出されている。凍結とその維持には電源が必要であるが、その電力量は想定できない。

それでも原発維持の政策を変えない政府と自民党。それを「『帝』として錦の御旗」を掲げる電力会社。

そして、汚染水対策の柱である汚染水対策装置「アルプス」の再稼動(28日)は、「トラブル発生。僅か1日でストップ」した。

それでも、今日も、明日も、これからも「もぐら叩き」は続ける。


おいしいものが、おいしいものであり続けたためしがない

2013-09-28 15:53:12 | 日記

 おいしいものが、おいしいものであり続けたためしがない

今日、28日の中央紙やネットの記事には、心が「きりきり」となるものの多い。そして、例の「むずむず」顔を出してくる。その中の一つ取り上げてみる。

安倍首相の、またもや、そしてアメリカに行ってまでもと云いたくなる「日本買い」の発言である。

ニューヨーク証券取引所を訪れた安倍首相はアベノミクスを売り込んだ。「世界経済回復のためには3語で十分。バイ・マイ・アベノミクス(アベノミクスは買いだ)だ。ウォール街のみなさんは常に世界の半歩先を行く。だから今がチャンスだ」。(毎日新聞)

ウォール街といえば、世界の金を動かす投資家の街である。そこであたかも、アベノミクスが、世界経済を握っているかの発言には驚く。それだけ豪語できる「世界の中の日本」にどうなっているのだろうか。親の年金に頼る非正規の若者。一人の働きでは親子の生活が成り立たない母子家庭。孤独死、自殺の増加など実情と、日本を代表する政治家のウォール街発言はどうしても結びつかない。しかし、その真意は次の言葉で明らかである。

「投資を喚起するために大胆な減税を断行する」と。

だから「日本企業の株は有力ですよ」。

その具体化として、法人復興税の廃止をそれこそ「断行」した。企業にとっては9000億円の減税である。庶民はその負担を継続している。さらに来年度から住民税にまで復興税が掛けられる。

オリンピックだ・復興だ・原発対策だ・TPPに関する補償だなどなど、金は幾らあっても足りない。そこに、年金・介護保険負担増・そして医療保険へと、国民の負担増と給付減は「断行」される。

ウォール街はプロの集まりだ。一国の代表である総理大臣の弁であるとしても、簡単に左右されるものではないだろう。またそうであったとしても、それは自己責任の覚悟は常にしている集団である。しかし、先日の日本国内における同様な発言もしかり、そこに経済評論も加わり、あたかも「日本買いが錦の御旗」となって、国内庶民の投資熱を煽るものになることを恐れる。すでに動き始めている。

ある経済評論家の言葉がある。「東京五輪の決定は、日本の株式市場に『長期大相場』の大目標を国民すべてに与えている。日経平均株価は、バブル経済ピーク時の3万8915円の現出を目指していくことは決して夢ではない」と。これはその気になれば、誰もが「山吹色」も手にするチャンスがあるということを意味している。

「おいしいものには裏がある」という。バブルを求め、そしてはじけた歴史の中で「おいしいものが、おいしいものであり続けたためし」がないことは承知の事である。

私の「むずむず」が激しく動く。やはりおかしい。


今もって、1ミリシーベルトに悩む・・・・福島からの報告

2013-09-27 16:58:32 | 日記

 今もって、1ミリシーベルトに悩む・・・・福島からの報告

 

9月4日のブログに、福島県伊達市の「仮置き場」について報告をした。今回は、その伊達市が、全市民を対象に「バッチ式線量計」(レントゲン技師が携帯する線量計)を配布をしたことについて報告したい。

あの原発爆発で、低線量が問題になってから二年半が経った。はじめは「見えない、匂わない放射能」と怯えたが、今は「高い・低い・近寄らない・長居をしない」などの判断ができるようになった。そこに、この「線量計」は有効な防衛手段になる。

そして判明した市民の「実測値」の結果は、空間放射線量率から推測して出す数値(推測値)より低く出ることが証明されている。

国は、生活の目安として年間線量を1ミリシーベルトと定めて除せんを進めている。そのための計算式があり、その計算によれば毎時0.23マイクロシーベルトが目安となる。 

よって、福島に住む私たちは、いつもこの数値を意識している。線量計で0.23マイクロシーベルトを超えていれば、年間1ミリシーベルトを超えるとなる。おおよそ低線量の地区(福島や郡山など)は、年間1ミリシーベルト以下は実現しないとなる。しかし「実測」(携帯線量計)の結果は、1ミリは確保し、さらに下回るどころか、この実測値に照らせれば0.5から0.6マイクロシーベルトでも年間1ミリシーベルトになると立証する専門家もいる。0.23をもって基準とする知見からすれば受け入れられない。そして知見は別れる。

しかし、避難地区と隣接する一つの行政。6万人を超える伊達市が全市民に配布した線量計が示した「実測値」が、推測値より低いという事実は重く判断すべきと考えて良いのではというのが私の考えである。

判りにくいことが多い。福島県民は幾つもの悩みを抱えている。その一つに実測値と推測値の隔たりの受け止め方に証明される1ミリシーベルトの呪縛があると言うことを報告しておきたい。

 


「足がなくなる日」

2013-09-25 09:29:26 | 日記

   「足がなくなる日」

 

現在62歳・63歳の団塊の世代が、12年後には75歳となる。

その中で、どうしても問われなければならないものに、しかも重い課題に「車社会」がある。この世代は、ストレートに車社会に生きた世代である。しかし、私たち70代後半の者は、車を所有すること事体が夢であった。

「より遠く・より速く・快適に」を売りとする自動車産業の隆盛と比例し、国民を「総ぐるみ車社会」に突入させてしまった。かく云う私も、当初は「排気ガスで地球を壊す。車社会は反対」などの言葉を発していたものであるが。いつしか免許をとり中古車を購入した。「遅い春」であったが、今や運転暦30年である。

私の知人は、65歳で免許証を返上した。「まだ65歳、早いのでは」との質問に、「車の運転をやめる決断をしたときは遅いのです。体力、気力がまだあるうちに『車の無い生活』を習慣にする必要があります。そうでしょう。時間が不規則なバスを待つにも体力、気力を要します。場合によっては、次の停留所まで歩く体力も必要です。リックを背負っての買い物もそうです。だから車を止めるのは今なのです」と。答えはきわめて科学的である。

確かに、足が萎え、車の乗り降りは不自由でも、一旦座席に座ってしまえば運転は可能だ。後は、後車の運転手に舌打ちをされようが、それは聞こえない。それでも運転ができなくなる日は必ずくる。その原因が「加害者」にならないことを祈るが、それとて比率は高まる。

確立100パーセントで「免許証の返上」の時はある。

昔は町内に、八百屋があり、肉屋、魚屋、荒物屋があった。刺身を買うために皿を持って出かけた。しかし時代は大きく変わった。とりわけ地方では、道路網は郊外に広がり、そこに広大な駐車場を持った大型店舗が続出している。また、近くのスーパーであっても徒歩では容易でない距離にある。

移動手段を持たない者、加えて独居・老々世帯の高齢者にとっては、それこそ「街中姥捨て」になりかねない。

とりあえずの食料品はどうにかなるとしても、外出は皆無となりかねない。「誰もが、いつでも、好きなところに出かけることができる」。この社会性の確保は、私たちが豊かに生きる権利の一つであろうと思う。

かつては、革新自治体を中心に、高齢者の足を確保するための補助制度があった。しかし、これも廃止、縮小にある。利用客の減少が路線の廃止、あるいは配車の縮小、そして利用者の縮小という悪循環が生まれている。今や4人に一人は高齢者、早晩3人に一人となるだろう。12年後は75歳以上が50パーセントを超えることになる。

今から準備をする。高齢者が「己の権利として要求する『政治課題』」でなかろうか。