後日談・安倍首相の真珠湾訪問その後

2016-12-31 04:29:22 | 日記

    後日談・安倍首相の真珠湾訪問その後

   「真珠湾を舞台」にして、演技をこなした安倍首相はことのほか気分が良かったと思う。またかなり高揚をしていた。観客の多くが、「実は日本国民」であるが立ち上がり大きな拍手を送っていた。

 その光景を舞台の袖で見ていた脚本家は顔は満面笑みでほころんでいた。「大成功だ。これで主役の席は確実に彼のものとなった」と。

 そして幕は降りた。その時、脇役の一人が舞台から消えた。そして別な劇場の舞台である「靖国神社の境内」に立っていた。何を勘違いしたのか。主役の高揚と脚本家の満足を見てもう一度演技をしたくなったのであろうか。それとも脇役を演じた者として主役や脚本家へ「恩返し」をしなければならないと考えたのであろうか。

 この脇役の見解を産経新聞(12月29日)は次のように報じている。「いつも申し上げていることですけども、今の平和な日本は、国のために、祖国のために命をささげられた方々の、その貴い命の積み重ねの上にあるということを私は忘れたことはありません。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝をしました」と。

 そして「中国や韓国の反発が予想されるが」との質問に対しては、「私は、いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵味方であろうとも、祖国のために命をささげた方々に対して感謝と敬意と追悼の意を表するのは、どの国でも理解をしていただけるものだと考えております」と答えている。

 では「今なぜ、この時に靖国か」という疑問がある。これに対しては読売新聞(12月30日)が見事に解説をしている。「稲田氏・支持者へ配慮か…真珠湾訪問翌日の靖国」という見出しをもって「稲田防衛相による29日の靖国神社参拝に、中国、韓国両政府は反発しており、政府は外交・安全保障面などで影響が出ないかを注視している。稲田氏は参拝後『戦争で家族と古里と国を守るために出撃した人々の命の積み重ねの上に、今の平和な日本があることを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくない』と記者団に強調した。稲田氏は安倍首相に近く、保守的な政治信条で知られる。毎年靖国神社を参拝していたが、防衛相就任直後の8月15日の終戦記念日は海外視察を理由に見送った。首相や稲田氏の支持基盤である保守層にはハワイ・真珠湾への訪問に懐疑的な声もある。稲田氏が真珠湾訪問の翌日に参拝した背景にはその支持者への配慮もあったようだ」と。

 主役である安倍首相は、この脇役のとった行為に対する報道陣の質問に「ノーコメント」と答えている。

 ここにホトトギスの民話がある。「自分の留守の間に兄は大きな芋を食べたと疑う。そこで弟は兄のお腹を割く。しかし兄の胃袋には小さな芋が一つ残っていただけ。弟は『ぼっとぶっ割いた。あんちゃんごめんな』と鳴いて山に飛んでいった」と。

 安倍首相の腹の中はわからない。「何もこの時期すぐに行かなくとも」と思っているのか。それとも「よくやった。それでこそ私の脇役だ」と考えているのか。

 アジアの諸国は当然のこと。そして米国の真意は伝えられていないが「冷や水をかぶせられたと想い」というのが実感ではないだろうか。国内的にも与野党から批判の声が上がっているが、中でも一番顔をしかめているのが今般の演出を担当した脚本家であろう。

 そして問題は「拍手を送った観客がどのように受け止め、感じたか」ということである。いずれその答えは年明けの政治の場で検証されるだろうが、キチンと整理をしてほしいと願う。


安倍首相の真珠湾訪問・自国民を意識したポエムの舞台と見たら・・・・・・

2016-12-30 05:42:48 | 日記

  安倍首相の真珠湾訪問・自国民を意識したポエムの舞台と見たら・・・・・・

 

   入社試験の面接の場である。面接者の前に安倍晋三君が座っている。面接者の一人が切り出した。「君の小論文は素晴らしく、よくまとめているが、就職をするにあたってのわが社への提案というよりは『自分宛て』の作文というのが、あたっているようだね」と。

   そして場面は真珠湾に移る。

  「パールハーバー真珠湾に、いま私は日本国総理大臣として立っています」という挨拶から始まる安倍首相の追悼の冒頭に「あの日、爆撃が戦艦アリゾナを2つに切り裂いたとき、紅蓮(ぐれん)の炎の中で死んでいった数知れぬ兵士たち」と述べている。その数は2,338名と報告をされている。もちろん膨大な死者であることは間違いない。しかし、この数字は世界貿易センタービルへ突っ込んだ同時テロ(9.11)で失った3025人よりは少なく、沖縄戦の時の戦死者数、沖縄244,136名・米国12,520名と比べても桁が2つも違うことは確かである。また記録によれば、湾内に停泊をしていた病院船には爆弾を投下することが無かったと記されている。しかし、日米戦の熾烈化の深まりの中とは言え東京・広島・長崎をはじめとした都市への無差別攻撃による民間人の殺傷の歴史は消し去ることはできない。

   安倍首相はさらに続ける。「75年がたったいまも、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。あの日、日曜の朝の明るくくつろいだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の幸せを祈る声。1人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や恋人がいた。成長を楽しみにしている子どもたちがいたでしょう。それら、すべての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実を思うとき、かみしめるとき、私は言葉を失います」と。

   追悼式の席上にいた「退役老兵」の言葉も紹介されていた。「憎みは失せています」と。そのことはオバマ大統領の広島訪問に際し被爆者代表と肩を抱き合った光景と重なる。人間は、幸いにして「時間が事を解決する」という知恵を持っている。しかし記録を消し去ることはできない。

   そして戦後70年談話においては、安倍首相は村山談話を踏襲しつつ次の言葉を発している。「戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と。

   真珠湾における「老兵の寛容な言葉」は嬉しい。しかしその背景には、本国は爆弾一つも落とされず、しかも軍需景気に沸いた国の手厚い恩恵を受けたであろう国民と、今もって発展の途上にあり、70年後もその苦渋にさいなまれている国民との違いはあると考えるのは私の偏見であろうか。

   沖縄をはじめとする国内の、そしてアジア諸国への戦後処理は「真珠湾における未来志向」の言葉で終わるものではないことは確かである。そのことを今後の安倍政治は立証しなければならない。いずれ今回の真珠湾における安倍首相の政治姿勢には、国内の世論は高い評価を与えていることが報じられている。

   そこであらためて冒頭の試験場に戻る。「よくまとめているが、わが社への提案というよりは自分宛ての作文だね」と。そのことは、言い換えれば「米国民よりは、むしろ自国民を観客とし、その観客を意識しポエムを詠い、きれいにまとめあげた舞台の演技」と私は受けとめるのだが、いかがだろうか。


冬のある朝、大きな蜘蛛の巣を見る。「蝉の一生は7日間」・では「蜘蛛」は・・・・・

2016-12-28 10:12:55 | 日記

  冬のある朝、大きな蜘蛛の巣を見る。「蝉の一生は7日間」・では「蜘蛛」は・・・・・

    冬の朝、蜘蛛の一生を考える
 12月上旬の朝、我が家のクチナシの枝に張り巡らされた蜘蛛の巣を見る。今時、蜘蛛の捕食用になる昆虫がいるのだろうか。

   そこで蜘蛛は冬眠をするのかどうかを調べた。ネットは便利である。早速次のような回答を得た。大半の蜘蛛は卵で越冬するが、成虫は気温が下がると仮死状態になるという。そして暖かくなると動き始め捕食用の巣をつくる。獲物は果たして網にかかるのだろうか。

   しかし、命がある限り捕食の網を張り巡らし続けるが来年の春を見ることはできない。

   人間から見ると小さくてはかない存在の虫たちだが「君たちも、自分の一生を懸命に生きているんだ」と。そんなことを考えた、ある冬の日の朝のひとときであった。

    それから10日もたっただろうか。あんなに大きくはりめぐされた「網」は消えていた。風の強い日もあった。くちなしの枝は大きく揺れたであろう。またみぞれ交じりの雨が強く網を叩いたであろう。しかし、破れていくのを補修することも無かったのか。仮死状態が続いているのか、それとも「一生を終えたのか」それは知る由もない。

  

 

 

 

 

 

 

 

 


今も余震【戦争】が続いている恐ろしい。中東の難民に福島を置き換えてみる

2016-12-28 09:13:33 | 日記

  今も余震【戦争】が続いている恐ろしい。中東の難民に福島を置き換えてみる

 

   「今も余震が続いています。いつまで続くのか。それにしても恐ろしい現状です。1号機と3号機は爆発しました。そして2号機も時間の問題だと思います。最も恐れていたことが現実のものとなりました。避難者も中通り、会津、そして県外まで逃れています。15万名の大移動です。まさに中東の日本版です。しかも「この火は消せない・消す方法を知らない・マニアルもない」のです。(三月十四日)

   「津波から逃れられた命が今奪われようとしている」ということです。避難された皆さんの居場所は避難先の集会場や学校の体育館です。真冬並みの寒さです。暖房設備もありません。ダンボールを敷いた床に毛布一枚。とても暖がとれる状態ではありません。むすび一つを三人で分け合うというところもあると報道されています。どこでも『水と灯油』をと叫んでいます」(三月十七日)

   この文章は2011年3月11日に発生した地震・津波・そして東電第一原発の破壊を目の前にして綴った毎日の日記からの抜粋である。以来私は、この日記を全国の知人にメールをもって発信を続けてきた。

   そして今、中東においては何十万という難民が国境を超えて避難を続けている。その中で6千名にも及ぶ難民が地中海の藻屑となったと報じられている。また「浜に打ち上げられた子供」の悲しい写真が報じられた。メンケル・ドイツ首相は、この報道に難民の受け入れの決断をしたと言う。しかし今、その決断を責め立てられメンケル首相は窮地に立っている。

   この中東の難民問題に福島の避難の実態を重ねてみる。行く先々のコンビニの駐車場で「福島ナンバー」は嫌がらせを受けた。居場所を2度から3度も変えたという報告はざらであった。現地にとどまった高齢者施設もエヤコン暖房は使えず、と言って石油ストーブはない。あっても1台か2台。しかも灯油が無い。町長の緊急要請で配車された折角のタンクローリーも60キロ先でストップ。運転手は放射能が怖いと言う。そして津波から逃れた老人も命を絶っていった。中東の「福島版」と言っても過言ではない。

   しかし、中東の避難は「戦火」から逃れた難民である。

   このことを考えている中で次のことわざがあることを思い出した。「七度の飢饉より、一度の戦争に逢うな」という言葉がある。戦争は七度の飢饉より劣悪、悲惨だという譬えである。これほど明確に戦争を嫌い、拒んだ言葉はないであろう。

   このことわざは、現在の福島県伊達郡保原町の百姓一揆の指導者で八丈島に流された菅野八郎の「八老独年代記」の中にしるされていることを知ったのは昨今である。「七年の飢饉に逢うとも、壱年の乱に逢ふべからずとは、むべなる哉」と書かれている。江戸時代に宣言された反戦思想は今も生きていると受け止めたい。

 そして、このネットに次のブログが添付されていたので紹介したい。

      -みくの独り言ー
  「戦乱の世に生きていた我々の先祖たちにとってこの世に戦争ほど恐いものはなかっただろう。元気な若者は徴兵され、戦乱の中に巻き込まれ、家は焼かれ略奪暴行の悲惨な目に遇ったであろうことをこの諺が証明している。豊かになった日本で飽食の時代を生きる若い人たちは飢えも知らなければ、戦争も知らないのは、幸せなことなのであろうか、それとも不幸せなのだろうか?・・・・・恥ずかしながらぼくは、この諺を知らなかった。この諺は、土の中から出てきた真の反戦の言葉である」

 祝いの新年を前にして、「きな臭さ」さを増しつつある2017年を危惧するのは私だけであろうか。

 

 




カジノ法案強行採決、そして党首討論に見る安倍首相の不誠実を見る

2016-12-09 19:03:45 | 日記

 カジノ法案強行採決、そして党首討論に見る安倍首相の不誠実を見る

   12月7日、久しぶりの党首討論。民進党蓮舫代表の初登板であった。当然にして6日に強行採決をしたカジノを合法化する統合型リゾート(IR)推進法が焦点となった。「なぜカジノ解禁なのか。カジノは賭博。刑法で禁止されている。なぜ、わずか5時間33分の審議で強行採決に踏み切ったのか。野党を切り捨て、連立与党の公明党を捨て置いて暴走する理由を教えてほしい」と切り出したのに対する、安倍首相の冒頭の言葉に私は耳を疑った。「それは議員立法で提出されている『IR法案』だと思われますが」という表現である。「それって何?」私はこの数文字に日本の代表である安倍首相の品格を見た。

 後に首相は「党首討論は国会の審議とは異なり、双方が対等の立場で討論する場である」と述べている。であるなら他党の代表である蓮舫発言に対する回答は「非礼」そのものであると私は言いたい。事前に討論の要旨は通告済みのはずである。にもかかわらず「IR法案だと思う」は「それって何、それは無いでしょう」と言いたい。

 さらに非礼は続く。かつてシンガポールのリゾートを訪問した安倍首相は「これぞ成長産業に連なるもの」ということを確信したと述べている。しかし、そのリゾートの売り上げの7割が開設されているカジノによるものであることは安倍首相も承知をしているようである。蓮舫氏はそのことを捉えて「刑法で禁止されている賭博を『成長産業』と位置付ける意味がわからない」と指摘をしている。それに対する首相の回答は「統合リゾート施設であり、床面積の3%はカジノだが、それ以外は劇場であったり、ショッピングモールであったり、レストランである。そこに投資があり雇用がつながる。町中にカジノができるものでは全くない」と答えている。蓮舫氏が『カジノが成長産業に資するのか』との再度の指摘に対しても首相は答えない。いつものパターンである。蓮舫氏は「答えない力、逃げる力、ごまかす力、まさに神っている。真っ正面から答えてほしい」と発言をした。そして「拙速な審議でカジノを解禁するのは反対だ。公明党の山口(那津男)代表も(海外の)カジノ施設をご覧になられた後、『観光振興の切り札とはならない。むしろ副作用が現実的に見えてきた』と言っているとの盟友の言葉を引用した再質問にも対しても、安倍首相は不誠実な姿勢を貫いている。「これって何なのだろう」

 そこで私も言いたい。「ホテル、劇場、娯楽施設、遊園地などなど家族も楽しめるリゾート施設の建設にかかわる投資と雇用の促進は経済の活性化役立つだろう。それは認める」「それではカジノを除外すればよいのではないか」と。

 安倍首相の成長産業に連なると言い、日本の経済を押し上げその恩恵が国の隅々まで行き渡る」と言いたいのであろう。とんでもない。少数の外国人も含めたプロの賭博師の懐を肥やすだけである。山口公明党代表も述べている副作用とはそのことであると私は受け止める。

 一部には「外国人限定にすれば外貨が稼げる。悪いことではない」という意見もあるようだが、「外国人対象の賭場を日本のリゾート施設内に開く」などは時代劇に出てくる世界を再現するようなものである。にもかかわらず「議員立法であり議会でお決めいただく」と開き直り、自民党による強行採決を決行しようとしていることに対し、政権与党の総裁である安倍晋三氏の立ち位置は何処に行ったのだろうか。

 平成28年度の補正予算審議の中で、安倍首相は「山尾委員はですね、議会の運営について少し勉強して頂いた方がいいかもわかりません。議会についてはですね、私は立法府、立法府の長であります」という発言をしたお方である。お粗末そのもの、議事録からは抹消されたようであるが。国会の権威も、そして内閣総理大臣の権威も何処に行ってしまったのだろうか。恐ろしい時代になることを痛感したひと時であった。