お喋りの場の国会を変えた委員会質疑

2015-01-31 09:44:51 | 日記

 お喋りの場の国会を変えた委員会質疑

 

  民主党、長妻代表代行の質疑から始まった、1月29日の衆議院予算委員会は久しぶりに見ごたえがあった。

  質問は、格差是正を柱にアベノミクスの経済政策の批判から始まったが、中でも国会図書館の職員を招聘し、このほど発表された経済協力開発機構(OECD、加盟=米欧日など34カ国)の経済報告書を紹介させた質疑戦法は、確かに功を奏したと言える。招聘された図書館員は、その報告の概要を読み上げていたが、後ほどネットで検索してみても図書館員の紹介と合致していた。

  「成長の恩恵が自動的に社会にトリクルダウン(したたり落ちる)することはない」と指摘し、各国政府に対し格差是正の政策に力を入れるよう呼びかけています。さらに、OECD加盟国で、富裕層と貧困層の所得格差が過去30年間最大に広がり、上位10%(人口比)の富裕層の所得が下位10%の貧困層の9・5倍に達していると分析しています。そして、「所得格差が拡大すると、経済成長は低下する」とし、「格差問題に取り組めば、社会を公平化し、経済を強固にすることができる」と提言しています。各国政府に対しては、「どうすれば下位40%の所得層がうまくやっていけるようになるかに関心を持つ必要がある」と呼びかけ、教育や医療などの公共サービスを充実させるよう求めています。日本に対しても、格差の拡大が成長を押し下げていると指摘しました。英紙ガーディアン9日付は「OECD報告書がトリクルダウン経済を拒絶」と報じました。

  この間安倍首相は、ありとあらゆる場で“大企業が利益をあげれば賃金が上がり、雇用が増える”と主張してきた。また国会質疑においても頑なに「滴り落ちる論」を振りまいている。こうした「トリクルダウン」の考え方は国際的にも通用しないということを、長妻質問は国会図書館職員の「在庫資料である報告書の紹介」という形で攻めたのである。

  さらに追及を緩めなかった。内閣府の調査によっても「日本の子どもたちの6人に1人が貧困の状態にある」という事実を突き付け、3人に1人が「就学援助」を受けていること、「子どもの教育貧困」が拡大していること、生活保護者の子ども4人に1人が、保護世帯から抜けきれないでいる実態を指摘していた。これらを前記のOECD報告と結び付けたことは、聞く者にとって説得を深めることになったと考える。

  1月16日のブログで「国会をお喋りの場としないでほしい」と私は書いた。よく見られる質問に対する答弁である。その答弁に対し「答弁者は質問の核心に触れていない」と質問者は詰め寄る。そして再答弁においても同じことを読み上げる。このやり取りにはうんざりする。答弁者の資質もさることながら、質問のあり方にも工夫が必要ではないだろうかと感じていた。その意味では今般の民主党議員による関連質問も含めた連携ぶりには拍手を送りたい。

  重ねて述べれば、図書館職員が報告書を読み上げている時の安倍首相の表情は、記憶しておくに値するものであったことも触れておきたい。


なんと手回しのよいことか・「中間貯蔵前の一時保管場」

2015-01-30 11:01:01 | 日記

 なんと手回しのよいことか・「中間貯蔵前の一時保管場

 

  県民の一人として報告の義務があるという立場から「中間貯蔵施設建設」について書いてみたい。

  昨年11月14日の私のブログに次のようなことを書いた。当時は解散の風が吹き、いわゆる県内の中間貯蔵施設の管理期限を決める「30年法案」の成立が不透明な時期にあった。

  県内各地における除染は、伊達市のように市内80余箇所の「仮置き場」を設置したところ、「仮置き場」が設置できないため、やむなく「自宅敷地内埋設、あるいは地上保管」をして除染を進めたところという実態にあった。しかし、そのどちらも保管期間は3年を目安にするものである。よって地権者との契約による「仮置き場」については延長の更新をしなければならない。果たして地権者は更新に応じるだろうか。また「自宅敷地内保管」については、居住者の許容の範囲を超えるものとなり「誤魔化された」との不信が高まる。それが震災後4年目に入る2015年の時期と重なる。さらに追記すれば「統一地方選」と重なり大きな争点になる課題であった。

  そこに浮かび上がるのが「中間貯蔵前の『一時保管場』」の設置である。私が指摘したのもそのことであった。そしてその候補地は、双葉・大熊予定地にある「公有地」であり、搬入が強行されるだろう。その周辺には住民が住んでいない。反対運動も成り立たない」と。

  そして今般、「中間貯蔵3日着工 双葉、大熊の2万平方メートル 環境省」の見出しによる次の記事を見ることになる。(福島民報1月30日)

  「東京電力福島第一原発事故に伴う県内の除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設をめぐり、環境省は29日、建設予定地の双葉、大熊両町で2月3日から整備工事を始めると発表した。しかし、建設候補地の地権者交渉は完了しておらず、廃棄物の本格輸送開始の見通しは立っていない。県内各地の仮置き場から搬出が終わる時期は不透明なままだ。工事が行われるのは、建設予定地約16平方キロのうち、大熊、双葉両町の計約2万平方メートル。大熊町が「大熊東工業団地」、双葉町が「双葉工業団地」で、いずれも帰還困難区域となっている。
 土地所有者は企業で、用地の売買契約は成立していないが、契約を前提に土地の使用許可を得たため着工する。廃棄物の一時保管場として整備する。同省は東日本大震災から丸4年となる3月11日までの搬入開始を目指す」。

  私は「公有地」と書いたが、私企業の所有地であれば、契約の条件は「売買価格」だけである。それさえ折り合えば契約は成立する。ましてや該当地は立ち入り禁止区域である。さして変わりはないだろう。

  さらに付け加えれば、双葉町に設置する一時保管場は昨年12月25日に前田・西松・田中特定建設工事共同企業体(特定JV)が3億4800万円、大熊町の一時保管場は今月6日に清水・熊谷特定JVが3億2100万円で落札している。 なんと手回しのよいことであろうか。

  このような為政者(官僚)の「国民の分断と対立をはかり、その隙に進める先取りの政治」をどう見るかである。常に考えなければならない一つの事例ではないだろうか。

 


 施設の介護・看護が「父と接する心に余裕が与えられた」 

2015-01-28 14:27:45 | 日記

 施設の介護・看護が「父と接する心に余裕が与えられた」 

 

  母を看取ったのは38年前である。戦中未亡人と言えば、夫の戦死の場合を指すことが多い時代であったが、父は我が家の畳の上で亡くなった。以来、戦後の混乱の中で3人の子どもを育て上げた女である。そして晩年は、いまで言う「独居生活」の身であった。

  ある日、これといった症状があったわけではないが、鎖骨の上の腫れが気になり病院に行ったときはすでに手遅れであった。検査の結果、リンパ腺からがん細胞が発見。「余命3ケ月」という診断であった。そして医師の助言は「家では無理だろう。いずれ入院となる。今からベットを探した方がよい」であった。幸い自宅に近い開業医(今でいえばクリニック)の好意で入院することができた。勤務を終えた私はまっすぐに入院先に向う。夕食と朝食は自宅でと言う介護の生活に入った。その意味では妻には苦労を掛けた。

  今朝1月28日の毎日新聞「くらしの明日」の記事を見る。書き手である本田宏さん(埼玉県済生会栗橋病院長補佐)の記事にはいつも関心を持っている。今回は、医師であり同時に息子である「父の看病記」である。

  本田さんは述べている。幸い、病院に併設された介護老人保険施設に入所することができた。そして、亡くなるまでの8ケ月間、介護士や看護師の親身な介護を受けていたことが、父を前にして、やさしく接する心の余裕が持てと述べている。仮に自宅で、しかも仕事を終えた後の介護であったら、父に対する対応や感情は異なったものとなっていたに違いないと。

  かく言う私も、ベットに寄り添った期間は2ケ月余であったが大変であった。しかし、ナースボタンで看護師がきてくれる、医師の声も聴ける。その安堵感は、私にとって心に余裕をもてるものとなったことは事実である。本田さんの気持ちはよくわかる。

  今、医療費・介護費の増大が政治的課題となっている。もちろん医学の向上もあってのことだが、例えば胃癌で手術をした場合でも、入院の期間は僅か7日程度で退院となる。そして在宅介護となる。医師は退院の手続きをする場合、そのキーポイントに「主たる介護者」がいるか、どうかを確認する。医師は事前に家族同士の相談を求めるが、まとまらず、医師の前での「看る、看れない」の家族の争いを露呈させることも少なくないと言う。

  政府は、来年度予算案で介護報酬の引き下げ(2.27%)を決めた。介護職員の賃金月12.000円の引き上げをうたっているがこれとて確かな保障はない。

  本田さんは述べる。「介護職員が集まらない、過酷な労働と低賃金だ。一般会計は過去最大の96兆円、防衛関係費も3年連続で増額。東京オリンピックにも巨額な金が投じられる。認知症となった父を見送って、あらためて税金の優先順位を考えさせられた」と。

  もちろん、社会保障費は年間31兆円である。膨大な費用であることは間違いない。だが、それを理由に「まずは削減ありき」と走る政治の短絡さは指摘されなければならないだろう。

 

 

 


戦後70年・安倍談話の危険性「戦争のできる国へ」

2015-01-27 10:22:29 | 日記

 戦後70年・安倍談話の危険性「戦争のできる国へ」

      頑なに主張する「8月15日を敗戦の日と」

 

  毎年の8月15日の報道に、ある紙は「終戦」、ある紙は「敗戦」と異なる表現が使われる。しかし、私は頑なに「敗戦」という表現を使い続けている。

  今年は戦後70年。歴代首相が表明をしてきた「談話」がとりざたされているが、これに対しする安倍首相の対応は極めて不可解である。

  村山談話のキーワードがある。それは「植民地支配と侵略・アジア諸国民に対する多大な損害と苦痛・歴史の事実を顕著に認める・反省とお詫び」である。ここに、かつての日本帝国が挑んだ戦争とその戦争で敗れ、国土は焦土化し310万人の犠牲を出したこと。その上に立った反省から「二度と戦争をする国になってはならない」とする日本国民の決意が「村山談話」となって表現され、小泉談話に引き継いだ。

  政治家・安倍晋三氏にとっては、それは「侵略戦争を挑んだことを認めることになり、そして敗れた」。それはなんとしても認められないというものとなるのだろう。しかし考えてみたい。これは安倍晋三氏も生まれる前のことである。かつて日本は朝鮮・中国に派兵し、そして傀儡政権「満州国」を設立した。これは厳然とした事実である。現に当時「軍国少国民」であった私たちは、大本営が発表する戦果に従い喜々としてアジアの地図を赤く染めていったことを忘れることはできない。そして日本の国土の広がりを喜んだ。しかし、その赤く染められた国の国民はどうであったのか。学校では日本語が強要され、護国神社が建てられ参拝が強要され、そして名前までも奪われ日本名とさせられた。さらに、建設・土木、そして炭鉱の現場の先端には多くの現地人が徴用された事実は消すことができない。軍の強制徴用の是非はあれ、そこに「慰安婦問題」も結び付く。

  さて安倍首相は例のごとく「談話の内容については有識者(御用)会議」で討論をすると述べている。しかし、日々の記者会見は黙認できない。

  年頭の記者会見(伊勢市)では、「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たすか、英知を結集して考え、新たな談話に書き込んでいく」と述べ、あわせて「アジア諸国に対する植民地支配と侵略への反省と謝罪を表明した1995年の村山富市首相談話(村山談話)の立場を継承する」考えを改めて示した。

  そして25日のNHK討論番組である。「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてこの70年をどう考えているかという観点から出したい」と述べた。また戦後50年の村山談話と60年の小泉談話がともに使った「植民地支配と侵略」や「痛切な反省」、「心からのお詫(わ)び」などの「キーワード」をそのまま継承することに否定的な考えを示したものとなっている。ここにも安倍首相の「サプライズ的政治演出」が見え隠れしている。

  だからこそ、今年の8月15日を頑なに「敗戦の日」と主張していきたいと思う。

 

 


「一つ・二つ・三つのお爺さんの声」・懐かしさだけである

2015-01-26 15:33:47 | 日記

 「一つ・二つ・三つのお爺さんの声」・懐かしさだけである

 

  同年代の訃報が続くこともあり、新聞の訃報欄に目がいく。今回も一人の知人の名を見ることになる。享年95歳。かつて住んでいた私の近所の方である。そして思い出したのが、夕方になるとそのお宅の風呂場から「一つ・二つ・三つ」という声が聞こえてくる。「孫と一緒に風呂に入っているお爺さんの声である」。孫は早く出たい。お爺さんはしっかりと温めたいとする「駆け引き」の場である。

  かく言う私も僅か10坪の新居を構えた。周囲は麦畑、風を遮るものはない。台風の折は、家が吹き飛ぶかのように揺れる。ガラス戸はしなる。畳を上げて支えたこともあった。以来しばらくは強風脅威症になったが、子どもが生まれるに従い増築をしていったことでそれも治まった。

  そして「そよ吹く風」、ひばりの鳴き声などで心休まる時を過ごすことができた住まいでもあった。そこに「一つ・二つ」の声。さらに「豆腐売り」の声が重なる。懐かしい時代であった。

  時は過ぎ、我が子も独立し、夫婦二人暮らしを考えての転居で今がある。

  95歳はまさに長寿を全うした年齢である。多分あの時の孫も家を出たであろう。もしかしたら老夫婦二人の生活になっていたのかもしれない。

  今、介護をめぐる悩みが露呈している。かつては当たり前であった二世帯・三世帯の家族構成は消滅しつつある。そこに老々介護、認々介護(使いたくない表現だか)、遠距離介護が生まれる。それを少子・高齢化に要因があると述べる。だが若者の就労の場が、親許の地では得ることができないとする事実がそこに重なる。当然にして「核家族」となる。この当たり前の認識が、こと介護という場面になると「家族の介護」という認識が前面に出てくる。それが今般の「施設介護」から「在宅介護」へという政策の変更であろう。加えて復活するのが「家族制度」への回帰の思想である。「親子の絆・家族愛」ということが、政治の場でもまことしやかに語られる。

  もちろん親の介護をしっかり努める事実のあることも承知する。「姉妹二人が、親許を離れ、山形から東京に出ていった。やがて両親が倒れる。家族の理解もあってのことだろう、二人は退職をして、一人10日間の交代で山形に戻り介護をした。二人で月20日間の11年間」(毎日新聞「おんなのしんぶん」1月26日)。その看取りは並のものではなかったろうと推察する。

  今、お墓の問題がクローズアップされている。従来からのしきたりである、焼骨を埋葬した「墓」の管理ができないという実態がそこにある。私も父母を埋葬した墓を持つ。その周りには更地にした墓地があり、ここ数年、詣でに訪れることのない「無縁墓」もある。いずれはこの状態は拡大するだろう。そして「埋葬」という風習も無くなっていくかもしれない。

  「一つ・二つ・・・」はもはや懐かしさのものである。あらためて今後の介護問題を考えさせられた訃報の記事であった。