雨の神宮外苑行進・朝霞の自衛隊観閲式・そして「赤宇木部落の戦争の歴史」を重ねる

2016-10-26 13:20:42 | 日記

 雨の神宮外苑行進・朝霞の自衛隊観閲式・そして「赤宇木の戦争の歴史」を重ねる

 

    『元に戻るのは100年後…歴史が唐突に断ち切られた場所』 ~「赤宇木(あこうぎ)」との見出しの映像を観た。(2016.3.13・BSプレミアム)そして消すことを忘れたこのビデオを幸いにして再生したのが10月23日の夜である。この日は「平成28年度自衛隊記念日観閲式」があった。場所は朝霞訓練場である。午前中の約2時間余私はテレビの前に釘付けとなった。やがて隊列行進が始まる。大手を振って行進する一人ひとりの隊員の横顔は若々しかった。そしてその横顔に73年前の「雨の神宮外苑学徒行進」が重なる。そしてさらに浮かんだのが上記の「福島県浪江町字赤宇木(あこうぎ」の映像であった。

     赤宇木が全国的に知れ渡ったのは、福島第一原発の爆発によって飛び散った放射能を一手に引き受けたかのようなダントツな値を示したことがニュースによって知らされたからである。阿武隈山系の中にひっそりと生活をする110戸の山村である。ここに住み着いた祖先は「炭焼き」を主な産業として生計をたてていた。そして男たちは”キンマ”と呼ばれるソリで木炭や材木を山から下ろしたという。雪の上であれば滑りもしよう。しかし、冬でも雪はめったに積もらない。その山肌を人力で引っ張り下ろすのは大変な重労働であっただろう。さらに山の獣や山菜取りである。とりわけ「仕掛け」による小動物の捕獲や山菜取りは女、子どもの仕事であったに違いない。画面では触れられなかったが「出稼ぎ」などにより男がいなくなった冬の期間もあったに違いない。その村人の生活が、2011年3月11日を境にして完全に断ち切られた。

     そしてどうしても触れなければならないものに「赤宇木の『戦争』の歴史」がある。区長の今野義人さんは今も避難地から定期的に訪れては村の記録を残そうと頑張っている。残っている80戸の一つ一つをカメラに収め線量を記録する。また遠く離れた避難者を訪ねては村の歴史の聞き取りを行っている。耳が遠い90歳の老婆を訪ねた。その老婆は草刈りの時の歌を覚えていてベッドで歌う姿が映し出されていた。「明日の朝 草どごで刈る いつも変らぬ ヒキチャ窪(地名だろう)」。刈る草もどこにも、ここにもあるのではなかったという野地の実態を唄っていた。「飢餓のなかで懸命に生きてきた村人も日清・日露戦争からはじまる戦争の中で生活の担い手が駆り出されていった。そして30余名の村人は帰ってこなかった。さらに先の大戦においては19人が戦死をしている。

     村で最初の戦死者を出した家の庭先の線量は2.27マイクロシーベル。そして出征時には、村人が総出で見送った「村の大社前」の前は5.06マイクロシーベルと今野さんの手帳には記されている。さらに新天地を目指して満蒙開拓にむかった二世帯は妻子を現地に埋めて帰ってきた。その家は見る影もなかった。

     ここに戦争を伝える「昭和万葉集」の綴りがある。そこの一句に「帰らざる、17人ほどの兵ありて、静かなり村の嘆き」というものがある。それでなくとも貧しく、淋しい寒村で「生活の主」を失った家族の嘆きを詠んだものである。詠み人は80軒の寒村に住む一人である。

     その嘆きは「赤宇木の」とも重なる。

    そして「雨の神宮外苑」「朝霞訓練場」に「赤宇木の歴史」が重なる。隊列行進のあと、整然と並ぶ学徒を前にに呼びかける東条英機首相の訓示と万歳三唱。そして「旭日旗」が翻るジープから隊員を観閲する最高指揮官安倍晋三首相、その後紅白の演壇に立っての訓示に自衛隊員が呼応する雄たけび。そこには貧しい家の稼ぎ頭が、家族を残して戦地へ行かざるを得なかった想いと重なる。

    そして何とも言えない80歳の私の心の揺さぶりが、消し忘れた録画を思い出しチャンネルを合わせることになった。


『電通労働者の自殺と労災認定に思う・36協定を重さを大きく受けとめるべきである』

2016-10-16 08:45:55 | 日記

『電通労働者の自殺と労災認定に思う・36協定を重さを大きく受けとめるべきである』

 

     今国会審議の中の一つに、「大手広告会社・電通の女性職員の労災が認定をめぐる問題」があった。しかも、この会社では1991年にも入社2年目の男性社員が過労自殺している。その両親が起こした損害賠償請求訴訟で、最高裁が「会社は社員の心身の健康に対する注意義務を負う」との初判断を示し各企業の対策強化の転機となった過去がある。

     この女性は「インターネット広告部門に所属し、残業や休日出勤が常態化していた。残業が月100時間を超えたこともある。昨年11月頃から『死にたい』と訴え、クリスマスの日に都内の社員寮から飛び降り自殺した。『眠りたい以外の感情を失った』『もう体も心もズタズタだ』――。SOSのメッセージをツイッターなどで同僚らに送っていた。上司からは『君の残業時間は会社にとって無駄』などと、パワハラとも取れる発言があったという。長時間残業が当然の職場で、厳しい叱責を受け続け、追い詰められていった様子がうかがえる」と新聞は報じている。(読売新聞・社説より10月13日)

     国会の審議も、会社の労務管理とこれに対する行政の管理、監督。そして法整備などに焦点が絞られていたが、かつて民間の労働組合の役職に在った者の一人として別な観点から問題に触れたいと思う。それが労基法36協定の重さである。

    さて、広告業労働組合のリストの中に「電通」の労働組合名は見当たらない。連結子会社も含めれば従業員47.000人という超大手の企業に労働組合が存在しないことが不思議であり、そこに企業の「ブラック性」が存在することを感じる。それでも労基法36協定は存在していなければならない。では協定の締結に責任を持つ「労」の代表は誰なのかである。どのような立場の者なのかが明らかにしなければならないだろう。今般、同社の本社、支社に立入り調査が入ることが報じられたが、36協定は「事業所単位」である。立ち入る先はそこだけでは済まないはずであるが。

     さらに「超過時間外労働に対する医師による面接指導を実施する法的義務」の課題がある。事業者は「周40時間を超える労働が週100時間、あるいは80時間を超え疲労の蓄積が認められる場合」は医師の面接指導を実施しなければならないとある。その場合その疲労蓄積を認めるのは事業者ではない。「労働者の申し出」とあるようにどこまでも労働者の本人の意志である。また事業者は産業医を指定していたのか。その面接診断、指導が管理されていたのかも明確にしなければならない。

  労働者一人ひとりは弱い立場にある。だからこそ「労働組合」を必要とする。その代表が時間外協定に責任を持つということは、その協定の結果生じるあらゆる事態に対しても「目を配る」ということを含めた責任を持つということである。にもかかわらず、その協定によって課せられた労働に対し「自殺に追い込まれたこと」「それを行政が労災認定をした」とあれば、あらためて「協定者の責め」は問われなければならないと考えるがどうだろうか。

     36協定は、事業者が作成をした部門別の休日、時間外労働時間に「代表印」を押すというセレモニーではない。必要とする労働時間の説明と、他に代わる方策がないのかなどについての細やかな協議を必要とする。さらに結果して、その協定労働時間がオーバーした場合は、時間数とその理由を速やかに報告することを求めても良い。それは安易な時間外労働に走ることを牽制する。また休日・時間外労働は上司による「就労命令」となる。つまり命令をする上司はその労働に責任を持つことになる。それは「安易な、強制力による就労命令」ではないことを意味する。しかも本人の同意が前提であること、強制があってはならないことをその都度協定にあたって明確にすることも必要である。その意味では36協定は「労使の重要な交渉の場」と位置付けるべきであり、場合によっては協定拒否もある。現にその事例もある。これら一切を労働者の前に明らかする。それが36協定の労働者側の代表の責めであろう。

  今般の労災事故に対し、連合をはじめとする労働側の代表の発言を期待とするのは私だけであろうか。


中国「狙公」の時代ではない。解散で政治を捻じ曲げることは許せない

2016-10-12 13:27:02 | 日記

  中国「狙公」の時代ではない。解散で政治を捻じ曲げることは許せない

   高齢者ピークの時代を迎える2025年を前にして、安倍政権は「要支援1・2に対するサービス支援」を介護保険制度から外す。あるいは「要介護1・2の認定者を介護施設の入所申し込みから外す」などの介護保険制度の改定を強行した。そして8月の参議院選挙の勝利に力を得た安倍政権は再び手を突っ込んできた。それが「要介護1・2」の訪問介護のサービス(生活援助)を、要支援の認定者同様に介護保険から外し地域事業に委ねるとした方針の検討である。

   これを受けて、要介護1・2の「施設介護からの除外」を今般の国会質疑の中で野党議員が取り上げている。これに対し安倍首相は「原則として申し込みができないということであって、特別な状況にある方の申し込みは可能であることを知ってるか」と反論している。ではどのようなケースが考えられるかについての説明がない。いつもの「安倍節」である。

     そしてまたもや説明のつかない解散・総選挙をちらつかせる政局状況をつくり出そうとしている。その吹聴役が自民党二階幹事長である。「選挙の風は吹いているか、吹いていないかと言われれば、もう吹き始めているというのが適当だ」と述べるなど来年1月の解散、総選挙が独り歩きを始めた。

    そこで出てきたのが、先に述べた「要介護1・2」の介護保険外しの方針を選挙後に「先送り」するという動きである。つまり「要介護1」の認定者が最も多く約120万人、次いで「要介護2」が約107万人である。その合計は全体の4割にも達する。さらにその家族を加えれば「要介護1・2」にかかわる国民は400万人を超えるだろう。現行制度による要介護 1・2の方が受ける1回の生活支援サービス料は自己負担(1割)250円程度である。これを介護保険制度から外すし全額自己負担となれば10倍の2.500円にハネ上がる。そこに高齢者の「票」を意識したいつもの選挙戦術が顔を出したことになる。
     前回の総選挙の際に述べた安倍首相の言葉がある。「消費税増税を先送りすることについて国民に信を問いたい」と。安部首相は、先行きが見えない日本の経済、そして中国経済の鈍化の中でも「消費税の増率は既定の方針である」との強弁を続けてきた。そうであれば「このような状況下にあるが消費税10%にアップをしても良いか」と国民に信を問うのが解散権を行使する首相の正しい政治選択ではないか。国民が「アップを望めば」既定方針通り10%にすれば良い。国民が「ノー」となれば引き上げを取り下げれば良いことである。にもかかわらず安倍首相は「政権を預かっている者の責任として」との理由において、600億からの税金を使う総選挙を強行した。まさに思惑通りのシナリオである。「税金を上げるか、上げないか」の二者択一を国民にせまることは政治の邪道である。「上げたらどうなる。上げなかったらどうなる」の説明がない。そのことは前記の施設介護に関する入所制限でも言える。また、南スーダンの現状を「戦争状態ではない」と強弁する防衛大臣、そして安倍首相からもいつものように明確な説明がない。

   ネットは便利なもので「四文字格言」を引き出してくれる。そこに「朝令暮改」がある。朝出した命令が夕方には改められるという意味で、命令や法律・方針が一貫せず、頻繁に変更されることであると解説をしている。

     では「朝三暮四」はどうか。これは中国の春秋時代、猿を飼っていた狙公が貧しくなり、餌代を節約するため、猿に「朝に3つ、夕方に4つトチの実をやる」と言ったところ、猿たちが怒ったので「それなら朝に4つ、夕方に3つやる」と言ったら、猿たちは大喜びして承諾したという故事から、目先の利にとらわれ、実際は結果が同じであることに気づかないことや、言葉巧みに人を騙すことを言うと記してある。

     しかし、国民はいつまでも誤魔化されてはいない。必ず「言葉巧みにごまかされる」ことを気付く。また、私たちを「猿」と受け止めているとすれば大変なことになる。大きなしっぺ返しをしなければならない。目先の利にとらわれない知識も持ち合わせるだろう。

     最後に、もしも解散・総選挙を強行するならその解散を何と命名すれば良いだろうか。

    「自分に都合を考える解散」「またしても、600億の無駄遣い解散」「東京オリンピックの舞台に立ちたい解散」か・・・・・・・。どちらでも良いが『面白くない』ことは事実である。


「混合介護制度」が考えられている。そのことが何を意味し、どうなるかを考えたい

2016-10-10 06:00:00 | 日記

   「混合介護制度」が考えられている。そのことが何を意味し、どうなるかを考えたい


    安倍晋三首相は有識者会議が大好きだ。だから会議をやたらと乱立する。そして再び「規制改革推進会議」を立ち上げた。

    そこでの課題の一つに「混合介護」が提起されようとしている。平成13年4月に成立した小泉内閣は「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、競争的な経済システムを作ることを目指し経済、社会全般にわたる構造改革を行うとした。その時に出されたものに「混合診療」がある。それは患者の自由なそして必要度を高めるために、公的医療制度の対象外となる「先進医療も同時に受けられようにすべき」というものであった。つまり患者は望む治療が受けられ、その医療行為にあたる医療機関は収入増となる。加えて医療技術の向上がはかられるとするのが看板であった。しかし「より良い医療を受けたいという願いは、同じ思いを持つほかのひとにも、同様により良い医療が提供されるべきだ」として、「医療に貧富の差を持ち込んではならない」とする国民の強い反対があった。だが2016年に「患者が申し出ることによって先進医療を受ける」ことができるとした「患者申出療養制度」が発足されている。

    今般検討されようとしている「混合介護」が「混合診療」とどこが違うのか。「介護を受けたい人が、お金を積めばより良い介護が受けられるようになる」ということなのか。

    そこで「混合介護」なるものを想定してみたい。多分次のような内容をもつだろう。「介護保険のサービスは原則1割(70歳から74歳は一部2割へ、65歳以上の現役並み収入者は2割)の負担で利用できる。今でも保険外サービスの介護は禁止されてはいない。しかし、保険内サービスと保険外サービスは明確にわけている。つまり保険内と保険外のサービスを「同時・一体的」に提供することはできないとなっている。その結果、たとえば介護士が要介護者向けの食事をつくると同時に帰宅が遅くなる同居家族向けの食事を用意することができない。また洗濯機の中に入っていた同居人の下着を取り除くという笑えない光景も生み出す。また、利用者が特定の介護士のサービスを求めらる指名料をとることもできない。

     そこに「混合介護」に新たなサービスメニューが生まれる。例えば、要介護1のAさんは次の訪問介護サービスを週に2回受けるとする。「30分未満の身体介護、報酬単価は2.450円である。さらに続けて45分未満の生活援助、その報酬単価は1.830円である。いずれも保険内サービスの単価である。そこに介護事業所は同時・一体化として保険外サービスを提供する。例えば、『同居家族の食事の用意や洗濯・衣類や家財の収納・ペットの世話などなど』をメニューに加えて合計の5.280円を計上する。Aさんの自己負担は2割である。よって保険内サービスの自己負担は856円になる。それに保険外サービス1.000円を加えて1.856円を介護事業者は請求する。Aさんはその介護士が御気に入った。いつも来て欲しいと願う。そこで指名料500円を加算。この日のAさんの訪問介護サービス料金は合計で2.356円。要介護1のAさんの訪問介護は週2回であるから1ケ月18.848円となる。その他に週2回の5時間〜7時間の通所介護(デイーサービス)を受ける。これは保険内サービスであり自己負担は572円×8回=4.576円となる。Aさんが自宅で過ごすために受ける介護サービスの合計は、保険内・保険外を含めて月に23.424円となる」

   そこで「混合診療」の討論を重ねて「混合介護」を考えたい。

    介護事業者は工夫を重ねて新しい「同時、一体的に行うことのできる保険外サービス」を提案してくるだろう。それはあらたな付加価値を生むからである。また指名料も含めて介護士の収入を増やす事にもなる。

    もちろんそれを受けるかどうかは本人(家族)の選択であるが、そこにはサービスを「受ける、受けられない」の差が生まれる。そして「民間の介護保険」がある。保険会社が組み立てる「介護保険メニュー」がテレビのコマーシャル画面を飾るだろう。ここにも保険を「掛ける、掛けられない」の差が生まれる。そして「肥え太る保険事業」を目指して、既存の保険会社だけではなく、介護事業所も含めたあらゆる分野からの参入が進むだろう。まさに「改革なくして景気回復なし」である。もしかして介護事業者は自社の介護保険加入を条件とするかも知れない。

    「介護の充実は庶民の願い」である。それを食い物にしようとする市場主義の横行は社会福祉とは相容れない。それは本来の保険適用の介護メニューの削減や切り捨てを生み出しかねないからである。「高齢社会に生きるため・知恵と工夫、そして言葉」をブログのタイトルとする私は思考する。観念的論議をではなく、要介護者とその家族の目線に立った実質的な国民的論議を望みたいと思う。


町の財政を維持するために「止まっている原発内の使用済み核燃料」に税金を課す

2016-10-08 14:12:01 | 日記

  町の財政を維持するために「止まっている原発内の使用済み核燃料」に税金を課す

 

    九州電力玄海原発が立地する佐賀県玄海町議会が「原発内に貯蔵されている使用済み核燃料に課税をする条例を可決した」という報道を見た。同原発基地内には約830トンの使用済み核燃料があり、1キロ500円の税額で年間4億円を上回る税収を見込むという解説もつけ加えられている。(福島民報・10月8日)

    それは玄海1号機の廃炉に伴う交付金の減額や固定資産税の減少の穴埋めが目的であるという。しかも、議会における決議を前に、町長は9月中旬に九州電力との合意を得ているという手際のよいものであった。

    これをどのように受け止めたらよいだろう。

    福島県民の一人として、福島県が電源三法交付金を受け取ってきたことは承知をしている。立地地区の住民ではないが交付金の恩恵を受けてきたことは事実である。そして原発三基の破壊により放射能汚染に慄いた一人でもある。その不安と怒りは忘れることはできないが、その立場にたちながらもこの度の玄海町が決議をした「使用済み核燃料」に対する課税について、それが町の財政破綻を救う手段であるとするところに「暗闇の淵」に立つ想いを強くするものである。

    2015年度の玄海町議会で岸本町長は次のように述べている。「原発の運転停止が続き、今後の財政の見通しは不透明。事業を見直し、最小限の経費で最大の効果を上げる必要がある」と強調したうえで、川内原発が立地する鹿児島県薩摩川内市などが使用済み核燃料に課税している事例を示し、新税導入に向けて「九電や議会などの同意を得た上で、国とも協議したい」と答えている。また「玄海町の15年度一般会計予算案は82億2300万円で、原発関連の歳入が43・7%を占める。そのうち原発施設などの固定資産税は23億300万円だが、減価償却で毎年14・2%ずつ減少している。1号機が廃炉になると、固定資産税の課税対象の多くを占める大規模償却資産が16%減る見込み」と町の財政破綻の窮状を当時の地元紙「佐賀新聞」は報じている。

     これは何も玄海町、あるいは薩摩川内市に限ったことではない。青森では六ケ所村の再処理工場にある使用済み燃料などに県は90年代から課税を続けてきた。税収は年間200億円程度にものぼるが、六ケ所村やむつ市など立地市町村には全く配分されていなかった。むつ市が条例素案をつくったのはなぜか。それは「原子力施設はみな下北半島にあるのに、県が課税するだけで地元にカネは来ない。それなら自分で課税しようと考えた。早い者勝ちということ」だったと「むつ市」幹部が語った記事を読む。

    ではどうなるのだろうか。「原発交付金、あるいは課税で成り立ってきた町の財政が破たんをする」という状況の中で原発の廃炉を住民は同意をするだろうか。あるいは住民が再稼動を求めるという状況を生み出しはしないか。

     同時に次の記憶を思い出す。「玄海町の岸本英雄町長(62)が4月下旬、毎日新聞のインタビューに対し、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場受け入れに前向きな考えを示した。究極の迷惑施設とも言える最終処分場を容認する発言は政治家にとって命取りともなりかねず、最初は耳を疑ったが、町長は本気だった。背景を取材すると、長年の原子力依存から抜け出せなくなった「原発の町」の現実が見えてきた。町長はインタビューに『最終処分場も選択肢の一つ明言し、今のところ手を挙げるつもりはないが」と述べた。(毎日新聞4月27日)

     ここに「消すことができない、燃やしてはならない核の火」に手を付けてしまった結果、「行き場のない使用済み核燃料を新たな収入源として留め置かれること」の実態を見せつけられる。もはや、その責任は誰、彼のものではない。私も福島県民の一人として、これらの事実に電源交付金をはじめとする「金目」に慎重ではなかった責めが問われることを痛感する。そのことをあらためて認識をした今般の報道であった。