「画を描くべきでなかったのか。書かずに絵の具代の見積もりは許せない」

2013-07-31 11:38:08 | 日記

   三党合意の社会保障改革国民会議  

           「画を描くべきでなかったのか。書かずに絵の具代の見積もりは許せない」

 「必要なときに適切な場所で、最小の費用で受けられる医療に」をはじめとした医療改革。さらには「医療、介護、看取りまでの継ぎ目のない地域医療と包括ケアの確立」などを論点に上げ、8月21日までに、抜本的な社会保障制度の改革案を取りまとめるというのが「国民会議」の目的であった。しかし、その論議はいっこうに進まず、反面、政府の諮問機関である有識者会議では、「介護保険サービスの見直し」と称し「要支援1.2」(軽度の介護認定)を制度から切り離し、その後は地方自治体の裁量に委ねる。前期高齢者(70歳から74歳まで)の窓口負担2割の実施。入院費の報酬引き上げなど、国民会議に委ねなければならない、社会保障の改革各論まで手を突っ込んできたのである。

まさに「親の存在をさておき、今、小姑がしゃしゃり出てきた場面」であった。これはおかしい。またしても騙されるのかと思ったのは私だけであろうか。それよりも何よりも、民主党をはじめ野党の各党は、この政府の動きをどのように受け止めていたのだろうかと問いたい。

そして、年末総選挙において圧勝した自民党は、アベノミクスを「顔」とした経済成長政策を全面に押し出し参議院選にのぞみ、結果は承知の通りである。

何回も述べるが、三党合意の国民会議の設置は、少子・高齢化社会にあって、年金、医療、介護、少子化の4分野の、将来にわたる給付とサービスの制度(姿)を審議することを目的とするものではなかったのか。そして、このあるべき社会保障制度(姿)を、「完成、実現するために消費税を考えよう」とするものであったはずである。しかし、この合意の「杯を酌み交わした」民・自・公はその責任を果たさなかった。また、三党合意は、消費増税を先行させるだけのものと反対してきた野党も、その経過はあるにせよ、ならば設置された国民会議のあり方を注視し、注文をつけることはあってしかるべきであった。にもかかわらず、何もせずの「傍観の党」になってしまった。

そして、ここにきて結論を急ぐ国民会議は、年金課税の強化、介護保険自己負担率の増化、保険料の引き上げ、紹介状なしの外来費の増額などなど、描くべき「キャンパス」を放り投げ、「画をかかないのに絵の具代」だけを見積もってしまったのである。(年金課税を強化・国民会議報告書7.30「毎日新聞」)

ここまで来ると、もはや「増額する消費税は『社会保障費』に使う」などの公約は信用できない。よしんば回されたとして、それは赤字穴埋めであり、現在の給付・サービスは悪くなっても、良くなることはないだろう。

必要なときに適切な場所で、最小の費用で受ける医療を。

医療、介護、看取りまでの継ぎ目のない地域医療と包括ケアの充実。

この絵姿はお蔵入りとなってしまうのか。無念である。


カラ約束にしないで下さい。

2013-07-30 11:05:20 | 日記

カラ約束にしないで下さい。

29日、安倍総理は、選挙後初めて宮城県石巻市の被災地を訪れ、先月に完成したばかりの災害公営住宅を視察し、災害公営に住む方々と握手を交わしました。また、そこに住んでいる住民の子どもから、「来てくれてありがとう。読んでください」との手紙を受け取り、総理は「ありがとう。ちゃんと読ませてもらいますよ」と、ニコニコ顔の姿でテレビに映っていました。

被災者の方々が災害公営住宅に住める様になったことは、私にとっても、とても嬉しいことです。

でも安倍総理、先の参院選の初日には福島で第一声をあげ、「福島の復興なくしては……」と力説していらっしゃいましたね。今、原発は、2号機タービン建屋海側のトレンチ(地下道)で採取した水から1リットル当たり二十三億五千万ベクレル、ストロンチウムなどの放射線物質が七億五千万ベクレル、870万ベクレルのトリチウムも検出されているのです。

こうした状況をつぶさに視ていって下さい。そして、事故収束のために懸命に働いている方々を激励してください。

出来上がった公営住宅前で、子ども達と共に写っていたニコニコ顔の映像は、私にとって【復興は進んでいる】とのPR画像にしか思えませんでした。

福島に来て下さい。収束に程遠い原発事故の現状をしっかり見据えて、選挙前に、「福島の復興なくしては……」といった約束をカラ約束にしないで下さい。ニコニコ顔のパフォーマンスは福島には不要です。

昨日、クルマで、いわきの海へ行って来ました。ガソリンはリッター156円、物価だけは確実に上がっているアベノミクスを実感しました。

                                                             〈実に腹ふくるる心地の〉ばーば

 


平均寿命は延びだが「魔の10年」は消えない

2013-07-26 19:40:06 | 日記
 平均寿命は延びたが、されど「健康寿命」の延びは小さい

厚生労働省が25日に発表した、2012年の日本人の平均寿命は女性86.41歳。男性は79.94歳であり、男女とも前年を上回ったと報じている。しかも、おまけがついて女性は世界一の長寿になったと。

人生50年と言われた時代もあった。考えて見ると、当時の爺さん、婆さんは腰が曲がり、杖をつき、始終横になっていた姿を思い出す。それに比べ、2011年の統計であるが、65歳以上でもなお現役として働いている人は450万人、定年後も73.6パーセントの人が継続して働いている。もちろん収入を得るためのものではあるが、元気でなければ不可能なことである。

そこで、また考えてみた。寿命が延びることは幸せなことなのだろうかと。この平均寿命に相対するものとして「健康寿命」というものがある。つまり、「日常生活を制限のない状態で過ごしている期間」を健康寿命と表現している。簡単に言えば介護や治療を受けずに過ごしている状態の期間ということである。その健康寿命は平均寿命に比べて延びが小さい。2010年の統計によれば、女性の平均寿命(86.39歳)に対し健康寿命は(73.62歳)。男性(79.64歳)に対し健康寿命は(70.42歳)である。女性は13年間、男性は9年間、介護を受けるか、治療をしているか。あるいは入院をしているなどの期間である事を示している。まさに「魔の10年」とも言えるだろう。しかもこの年令は、その子どもにとっては、定年を前にしてなお働き続けたいとする年令であり、本人にとっても老老の身であるか、独居の身か、あるいは老老介護の身であっても不思議ではない。

現に、75歳以上で、要介護の認定を受けた人は75歳以上の21.9パーセントである。また要支援の場合がある。日常生活に支援が必要だとして、実費で生活支援を受けている人も少なくない。平均寿命と健康寿命との差、10年余の期間を「寿命が延びて良かった」と本人もまた家族も喜び合えるのは、極めて少数と考えてもおかしくないだろう。それを「魔の10年」と表現した。

もちろん、老後の心配は介護だけではない。病気もある。3人に一人は「ガン」になり死因の第一位である。高度先進医療も向上している。しかし、その治療費たるや膨大(固形ガン重粒子治療310万円)なものである。

内閣府の調査によると、60歳以上の人に「介護に必要な費用をどのようにして賄うかの」の質問に対し◆年金などの収入で34.6パーセント◆貯金だけでは足りない不動産を担保に借り入れるが8.9パーセント◆資産の売却など10.7パーセント◆子どもからの援助で16.0パーセントと答えいる。しかし、これは介護に関してのことだけである。
自助努力と責任において老後を過ごすことができることは最高である。そのことを望むにしても限界がある。幸いにして特老施設に入所できれば「年金収入の範囲」でも可能であろう。しかし現実は待機待ちの実態にある。「どこで過ごすか(生きるか)」
も定まらない。

給付(保障)に対しは、それなりの負担の覚悟はしなければとも思う。それには「これだけの保障を制度化します。よってこれだけの負担をして欲しい」という政治の言葉が欲しい。今は、保障はそっちのけで負担の強要、優先である。
  年金支給年令を上げる・医療費窓口負担率を上げる・入院費を上げる・介護自己負  担率を上げる・要支援者の給付を介護制度から外す・・・・・・・・。
 
明日もまた、高齢者をめぐる悲しい、苦しい、切ないニュースを聞くのだろうか。テレビや新聞紙面にその記事がないことを願う。
 

夢かも知れない。日本の皇室に英国王室の自由、大らかさがあって欲しい

2013-07-25 16:26:37 | 日記
 一人の子どもの誕生に見る、英国王室の大らかさ

一人の子どもの誕生が、これほど賑々しく取り上げられるのは異常といえば、異常であるが、それは日本において思うことであり、英国の王室のこととなれば考えも発展するというものである。

まず、この度、誕生した王子の祖母であるダイアナ妃。不慮の事故で亡くなるが、いろいろな憶測が飛び交うほどの王室の一員であった。人は、面白、おかしく物語をつくりたがるが、日本の皇室と比較して羨ましく思う。どれほどの自由があったか、また真偽のほどは不明だが、国民の前に明らかなる、また明らかにできることは、とても日本では考えられないことであろう。

父親となったウィりアム王子とキャサリンの結婚式もそうである。式そのものはともかく、結婚式を終え、ベランダに姿を現わした若いカップルは民衆の前で熱々のキスをした。英国においては当たりまえの光景であるが、こと、王室となればと思うのだが、そんなことはお構いなし、民衆はこれに対し祝福の喝采をする。

馬車行列で国民の祝福を受けられた皇太子と民間人美智子様の結婚披露。それでも戦後の新しい日本を象徴するものであったが、文化の違いはあるものの格段の違いがあるというものだろう。

そして、ベビー誕生。産院を退院する若き夫妻、赤子を胸に抱き民衆の前に現われた場面もそうであった。「幸運なことに彼女によく似てる」と、自らの髪の薄さに喩えてのおどけや、さらには王子のオムツを取り替えた夫のイクメンぶりを報告する妻キャサリン。赤ちゃんをベビーシートに乗せ軽やかに車へ、そして自らの運転で宮殿に戻っていった。さらに妻キャサリン妃の実家に3人で里帰りするというのである。
これらは、テレビや新聞の報道の中で先刻承知の光景である。

かつて、美智子妃殿下も皇室の伝統の中でご苦労されたことが報じられた。そして皇太子夫妻の苦労も今報じられている。もっともっと民衆に中に溶け込まれることができないものだろうか。現に、今般の東日本大震災に当たって両陛下が果した役割は、まさに憲法に謳われている「象徴天皇」そのものの姿であった。避難所では、床に膝をおとし、同じ目線で述べられる言葉の一つ一つ。そしてこの度も福島にお出でになった。そして出迎えられた一人の妊婦のお腹を撫でられ、励ましの言葉を掛けられる皇后の姿に民衆の目線を感じるのである。

前にも書いたが、主権回復の式典における天皇の厳しいまなざしは忘れられない。

自民党の改憲草案における「天皇元首」の思想。つい最近まで公言されていた「神の国」発言からしても。この政治思想の流れは消えてはいない。
夢の夢かもしれない。天皇家のお一人お一人に、英国王室の自由さ、大らかさを求めることはできないだろうか。

皇居の奥深くではなく、銀座に姿を現し、闊歩する若い皇室であって欲しいと願う。
そうなれば、前記の「闇の流れ」は消えていくだろう。






青い海、空。そして夜景の都市「サンディゴ」からの警告

2013-07-24 20:13:48 | 日記
  再び、原発基地の住民・原発産業労働者を巻き込んだ国民的討論を

「三菱重工に、廃炉で賠償請求」これは7月24日の新聞記事(毎日)の見出しである。 参議院選挙が終了した。結果は想定された分析通り自・公与党政権の圧勝である。とはいえ、それでは国民の民意がその選択をしたのか(得票率)といえば、獲得議席の圧勝ということであって、全てを白紙委任するものではないということは当然である。
しかし、一夜開けた22日の自民党には、驕れる姿そのものを見る想いであった。

さて、その自民党は、国内の、とりわけ福島原発の収束作業の見通しがたたない中で「原発輸出」の外交営業を展開している。 そこに発生したのが、アメリカ・カリフォルニヤ州の「サンオノフレ原発」の事故である。トラブルを起した機器を納品したのは三菱重工である。最終的には、同原発の2基の廃炉が決まった。原発を運営する会社(エジソン社)は、原発停止で生じた損害全額を受注者である三菱重工に求めてきた。その金額は、契約時に結んだ責任上限額を大幅に上回るものであり、三菱重工の経営基盤を揺さぶるものであるとの解説がされている。

核は「消せない火、燃やしてはならない火」である。山火事、洪水、地震、津波。あってはならないが、これを収束させる知見、技術は有している。しかし「核の収束は全て未知の世界」である。だからこそ「使ってはならない」と警告してきた。にもかかわらず、今般の選挙結果はその「消せない火」を再び燃やそうとする方向を強めている。

さて、余談ではあるがこのサンオノクレ原発は、州都ロサンゼルスから100キロ離れたところにあり、そこから僅か車で40分のところに122万の都市「サンディゴ」がある。この地名を聞けば知る人も多いだろう。ここの米海軍基地を舞台にした映画「トップ・ガン」を記憶していると思う。挿入歌は甘いメロディーだった。サーフィンと夜景の名所でもある。

その舞台が、今や「原発廃炉」を巡って大揺れに揺れている。廃炉の是非は町を二分化し、その原発で働く労働者の組合は「廃炉反対、再稼動」を要求している。消せないどころか、原発は民衆の心も二分化する。これは日本だけではない。

いずれにせよ、今回のアメリカの事故は、原発企業が、その事業を続ける限り企業の存続が問われることを覚悟しなければならないことを示している事例であろう。

今回、検証団体が試算した福島県内の除せん費用は5兆円と報告している。いみじくもこの数字は東電の内部留保と等しい額である。しかし、これだけでは済まない。住民への生活保障、物的保障が加わる。健康保障も加わえば無限に続くことを覚悟することになる。また覚悟しなければならない。

海を越えた今回の事故と、収束のための損害補償を知るならば、原発輸出はもちろん、再稼動に対し、原発を基地とする住民、そして原発産業に働く労働者(労働組合)を含めた「国民的討論」を巻き起こす責任があると思うが、どうだろうか。
今回の海を隔てた事故による「厳しい、そしてきつい挿入歌」を、サーフィンと夜景、そして「恋」の町サンディゴから発せられたと警句として受け止めたい。