燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その9

2019-08-31 06:44:22 | 日記

2011年3月21日

 

 ガソリンは逃げるために残しておきたい

 

郡山は雨です。放射線量は2.5マイクロシーベルト前後で上下はありますが安定しています。全く健康には影響にないものとの説明は受けていますが、雨の日、無理に出ていく必要もないことで自宅にいます。しかし、今日はごみの収集日です。合羽を着ずに、収集作業にあたっている方をみますと申し訳ないなあと思います。

ところで異常な状況下では異常が増幅されます。今度は原乳と露地物の野菜、そして一部ではありますが水道水の汚染の問題が出てきました。この値も問題のないものとなっていますが、結局は「検体」の検査結果が出るまでは給水停止となりました。

長崎大学の山下教授が、福島県の合同対策本部に常駐され安全知識の啓蒙指導にあたることになりました。ラジオの報道を通してわかりやすく丁寧に説明されています。私たちにとってはすべてが未知のものです。シーベルト、ベクレル、セシュームなどなど、すべてが初めて耳にする言葉です。しかもラジオを通して流れる講話の中でも余震が襲ってきます。アナウンサーは「皆さん、落ち着いて行動してください。安全な場所に移動してください。倒れやすいもの、落下物には注意してください」と呼びかけます。このような中での「ラジオ講話」です。

現地の私たちは、今後の収束に向けた展望が一番知りたいのです。

そのことは、もし3号機(プルサーマル導入の炉です)が爆発したらどの程度の被爆が考えられるのかということです。その放出量が安心と言えるのかということです。山下教授もこのことの説明はできませんでした。

すべてが見えない、わからない中での不安な毎日です。そこにきて油が無いとなります。ガソリンスタンドにもありません。電気は来ましたが水道水は出ない。車で指定の給水場まで行くガソリンが惜しいとなります。そしていつも頭のどこかには、もしも避難するとなれば「ガソリン」がという意識がこびりついて離れません。いつまでに復旧できるのか。その説明もない中では尚の事です。

 今なら脱出できる。そこで、「いわき市」では3割以上の市民(10万人)が出て行きました。私の友人も、自分は厚木へ、妻と子供は妻の実家九州へ。「見えない。知らない。判断ができない」という不安が市民を走らせました。「風評に惑わされるな」と叫んでも、押しとどめることのできない状況に来ているということを痛感します。

原発炉は、今のところは落ち着いているとの報道です。なんとか、これ以上の異常が出ないことを願います。

それにしても不思議に思うものがあります。毛布など外国からの援助物資が大量に到着していると報じられました。しかしニュースの画面を通して目にするのは国内の物です。横文字やハングル文字のダンボールは見当たりません。あればそのことをマスコミは意識的に報道するはずです。

またフランス製の「コンクリート挿入機」(50数メートル高さから)の活用が報道されました。ピンポイント遠隔操作ということで関心を持ちました。しかし今になっても現地に到着していません。つまり混乱しているとはいえ、統一的な指令と情報が不在と言うことを痛感します。

新聞、あるいは野党が、政府の危機管理・統一的司令塔の欠如を批判します。それはあたっていると思います。だがそれだけでは解決しません。この期にあたって政府・与野党が一体となって、「全的提案、参加型」の政治を望みますが実現は望み薄です。

                                                                       


燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その8

2019-08-30 06:41:59 | 日記

2011年3月19日

 

迷われるところに大切さがあると思います

 

「家族を守れないものが、どうして他人を守れるでしょうか」

もちろん瞬時には「自ら顧みずに危険に飛び込む」ということはあるでしょう。誰しも、自分を安全なところに身を置いて物事を考えます。それが人間です。別記しましたように、多くの被災地での悲しみや混乱、そして多くの避難先での苦渋の映像をコタツに入り、ストーブがついている部屋で見ている、そして晩酌をやっている。それが今の私です。そのこと自体否定、卑下することはできないはずです。

問題は、その中で何ができるか、何をやるか、何を残せるかだと思います。

ガソリンもありません。ですから私は今メールの交信行動を続けています。そこで貴方からのメールを頂けたことが嬉しいのです。

今まで何人に送信したでしょうか。でも受信したとの報告も含め、返信を頂けたのは極少数です。この人であれば、多分メールを駆使しているだろうと思い「メール見てくれた」と電話をしますと、開いていないとなっています。

今、思想を問うとか、あるいは「原発運動の総括」をすべきなどの発言があります。私は何を考えているのかと怒りさえ込みあげます。この期に必要なものは、相互の意見交換、安否の確認、そして励ましあうことだと思います。

言葉を交信しあう機会や、道具(パソコン、電話)は最大限に使うべきです。そしてこの事実をしっかりと自分の目で見て、きっちりと記憶し、自分の言葉で語り広めることだと思います。それが後世に残す私たちの運動であろうと思います。

貴方も、是非ブログを発信して下さい。

本日も封書を5通持って投函してきました。メールでは届けられない知人への手紙です。だからといって、全ての仲間の皆さんが同様のことをすべきとは思っていません。自らの条件の中で、やるべきこと、やれることを、意識的に行動に移すことだと思います。  

「何も、寒い寒空の下に立つ必要はありません」。「大変だろう、きついだろう、その身にならなければそのきちさはわからないだろうと言って避難所に住みつく人要はないと思います」「暖の取れているところにいるがそこで何をできるか」。そのことを考え実行することではないでしようか。

どうぞまた返信ください。

 


燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その7

2019-08-29 04:54:24 | 日記

2011年3月19日

 

浜の友人の返信メールを読む

 

次の文章は、私のメールに対する友人の返信です。

「今日避難所から、息子宅にきて久しぶりに貴方のメールを見ました。ありがとうございました。今回、避難所に長期間入っていていろいろと感じるところがありました。大変な事態にあるのに、避難所の中は醜い嫉妬や非難、悪口など、どろどろの醜態が渦巻いています。また私自身が、どのような行動をとるのが正しいのかを、現実の場にあって大変悩みました。自分の家族を守らねばならないし、事故の経過も見通せないなかで、いったい、誰をどこに避難させるか本当に身をきる思いの決断でした。しかも、一刻の猶予もない中で、私は14日の水素爆発で決断しました。息子、孫を引き連れ仙台に向かいました。しかし地元では津波被害に汗を流している仲間がいます。燃料がなくて避難できない仲間がいます。結局のところ、私は仲間や地域を捨てて逃げた負い目も感じています。子や孫を守る責任と、自分の思想に生きることと、そして現実の行動です。

自分は、地域の社民党を担う資質に欠けた人間かなと滅入ることも度々です。この問題は、自分の中で整理するには死ぬまでかかるかも知れません。またギリギリの選択の中で、家族や親子との関係、仲間や地域の皆さんとの関係にも大きな影を落とすかも知れません。あなただったらどうお考えになるでしょうか。

重い課題を抱えて自分のこれからの進路にも迷いを感じています」。

 


燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった ・その6

2019-08-28 05:37:16 | 日記

これからはじまる、混乱と不安

そして仲間との対立・解決の道が見えない長い道程

 

2011年3月17日

 

屋内待機の実態を知って欲しい

 

報道もされていますから知っていると思いますが、例えば現地から20キロから30キロ範囲の屋内待機の実態です。南相馬市は旧原の町を中心に合併した市です。

再度この南相馬市の実態を報告します。被爆地区として「屋内待機」となりました。市長が訴えていましたが、指定されたために、タンクローリー車が近くまできても入ってこないのです。また、地域の病院も、医局のスタッフが現地を離れ、残った地元の看護師によって看護が維持されているという「医療機能を失った病院」の存在です。 

エアコンは、換気を伴うということで使えません。灯油ストーブで暖房を取るのですが灯油がありません。これはどこの特老も同じです。このことは前日も報告をいたしました。

その南相馬市の放射能の値は福島市より低いのです。しかし、「汚染地区」と指定されますと、このような現象が起きるのです。

津波を生き延びた人が、そのあとの対応で死を選ばなければならない。これはつらいことですし悔しいことです。現に、ようやく収容された老人が、そのバスの中で死亡、あるいは到着先で死亡というニュースが報道されました。

行政(政府)は、自らが出した方針(政策)の行く先を、しっかり見極めることこそ「政治」であると考えます。

それにしても東京です。なぜガソリンスタンドに並び。ミルクや紙おむつの購入に走るのでしょうか。オイルショックの反省が生かされていません。でも考えてみますと、列を作る年齢層はあの時代の人ではないのです。ですからそれはやむを得ないとしても、あの時代に生きた人間が、その記憶を、しっかり子や孫に伝える責任があったと思います。 

そういう私の家には、コタツは暖かく、ストーブは燃えています。郡山に避難された方は集会所にいます。そこにはストーブが一つか二つ。コタツの中の私の頭に横切ったことは、避難所に行って高齢者か、乳飲み子を持つ母親の二名位なら自宅に連れてきて面倒を見てやれないかということでした。その程度の支援ならできると考えました。しかし、いつまでその面倒を見続けられるか、その二名が選べられるか。そんなことを考えると躊躇します。

結局は、向かいの一人暮らしの老女のところのチャイムを押すに留まりました。そして他にできることとしてメールの発信でした。一人でも多くの人に、とりわけ県外の人にこの事実を伝えよう。それならできる。

また支援に出かけるにしても自動車の油が少ないのです。ゼロにするわけにはいきません。

何人と交信を続けられるかわからないがせめてこの発信を続けよう。そしてこの発信を広めて頂ければと願って、今日もパソコンに向っています。


燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった

2019-08-27 05:31:53 | 日記

これからはじまる、混乱と不安

そして仲間との対立・解決の道が見えない長い道程

 

2011年3月17日

 

福島県には、放射能という波が押し寄せている

 

また揺れがきました。原発は大丈夫かとなります。不安です。

原発に関しては、専門家の口からは、もう少し早く海水を注入をしていたらという発言があります。素人ですが私もそうだと思います。しかし海水の注入は「廃炉」を意味します。企業にとっては、選択の出来ないこと、またあってはならないこととなるでしょう。最終的には海江田担当相の決断で実施されました。

ことここに至っては、企業の論理は切り捨てるべきです。しかし肝心なところになると、状況説明などは「東電発表」となります。説明者である東電組織の立場はどの位置にあるかはわかりませんが、記者会見における彼らの回答は「知りません。掴めていません。確認中です」の一点張りです。

政府と東電、そして機器納入メーカーの東芝、日立も加えるべきと考えますがそのあたりは不明です。ともあれ合同対策会議が設置されたとのニュースがありました。であれば、その合同対策会議の場で、東電(東芝)の説明を受け、専門家も加えた責任ある内容(情報)を、国が国民に説明するべきです。またそこで決定した対策を、即実行する、その結果を検証する、そして分析し検討し、再度の対策方針を立てる。これらの「いろは」がなぜ実行できないのでしょうか。

もう東電、あるいは保安院の個別の会見はいりません。聞く者に不安と不信を与えるだけです。

直近の実例で言えば、枝野長官の記者会見(3月17日・12.20分)です。

「5・6号機の状況については、動向を注視しながら対応している。まだ危険に至るまでは若干の時間があるとの報告を受けている」と。

『危険に至るまでの若干の時間』とはどういうことなのでしょうか。稼動を休止していた5・6号機が危険なのか。確かに専門家も、その危険性を指摘しています。私たちの不安は増幅するばかりです。

企業の担当者の説明を受けて、それをアナウンスしている事態ではないでしょう。 

政府「行政」の責任ある情報発信と対策、方針を打ち出す時です。そして政府は、出された方針がどのような形で推移されているかを検証すべきです。