与党の中枢にある政治家の発言「遺憾である」

2014-04-30 11:09:17 | 日記

  与党の中枢にある政治家の発言「遺憾である」

      台湾を訪れた園田幹事長代理の意識はどこにあるのか 

4月28日に台湾総督府で馬英九と会談した、原発推進のリーダーである細田自民党幹事長代理の発言を掲載している。「細田幹事長代理は、福島第一原発事故について、台湾に大きな不安を与えた上、原発支持にも影響を及ぼし『遺憾』だと述べた」。(福島民報・4月29日)

よく政治家が使う言葉であるが、「遺憾」の意味である。怒りや不満を現すものと考えられているが、実は「残念である」と解すべきであると辞書では解いている。となると細田氏の発言は次のようになる。「福島の事故さえなければ、貴国の原発建設に迷惑をかけなかったでしょうに、残念でした」と。

この建設が凍結されている台湾の第四原発であるが、フリー百科事典「ウイキペディア」は次のように解説している。

「台湾四番目の原発として計画され、日立製作所、東芝、三菱重工業による日本からの輸出原発の第一・第二の2基である。その原発は、住民の反対や度重なる事故により建設から10年を超えてもなお完成していない。そして、福島原発事故を受け、建設の是非を問う住民投票の実施。あるいは10万人を超える大規模デモが行われるなど、台湾における第四原発建設は中断している」。

そこで園田発言に戻るが、「遺憾」であると。

福島原発は、今もって汚染水の流れさえも止められない。除染の展望さえも見いだせない。そして廃炉への準備に必要な建屋内の除染や炉内の破壊の実態さえもつかめない。人間が立ち入ることができない。立ち入るためにはこれから5年は必要であろう。しかしそれもわからない。そして廃炉作業であるが、これとて40年はかかるだろうと。しかし、これも想定でしかない。そして、溶け落ちた燃料の塊り「デブリ」をどのようにして取り出すのか。その廃棄物をどこに、どのようにして保管するのかの最終処分法も決められない。しかも、長期そしては危険な作業にたずさわる労働者の確保さえも危ぶまれている。「遺憾」と述べた園田氏は、この実態を知らないとは言えないだろう。

アメリカのスリースマイルは、炉内から取り出した「デブリ」は80トン。この1基のデブリの取り出しだけでも5年を費やした。そして現地から3500キロ離れた砂漠内に厳重管理の地上保管をしている。しかし、その後の最終処分地は今もって決められないでいる。福島原発3基のデブリの量は270トン。スリースマイルの3倍強である。北海道宗谷から鹿児島南端まで距離は1800キロの狭い日本である。しかも火山、地震国である。

園田氏は、日本を代表しての台湾訪問であろう。台湾における原発推進の滞りが、日本の原発の事故によるとして「残念である」とする意識と発言はどこから出てくるのだろうか。加えて、福島事故による原発停止が電気代の上昇となっいるとして原発の必要性を強調している。それだけではない。「原発の安全性は政治家が強調しても説得力がない。専門家に任せている」と述べたと報じている。まさに無責任そのものの発言ではないか。

記事の取り扱いは小さいが、トップ扱いにしても良いほどの看過できないものである。「自民党には任せられない」。これは福島からの発言であるが、同時に全国的な発言にして欲しいと願うものである。

 

 

 

 

 

 


高齢者の介護サービスを「蚊帳の外」にはじき出すことは許せない

2014-04-28 15:04:34 | 日記

 「要支援・要介護1・2」の介護サービスを

            「蚊帳の外」に、はじき出すことは許せない

     

誰もが、いずれは老いる。このことの社会(政治)的な保障と言えば、その取り組みは遅々として進まない。いや進まないどころか矛盾をさらに拡大している。

今回は、このことについて書いてみたい。

今国会(1月24日招集・6月22日終了)に提案されている「介護保険法改正案」がある。この法案が検討されるにあたって、厚労省は医療・介護の部会を設けた。その中で次のような意見が出されている。

「認知症高齢者、単身や夫婦のみの高齢者世帯が増加していくことをふまえれば、地域の実情に応じて、高齢者が可能な限り、住み慣れた地域で、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、医療、介護、介護予防、住まい及び自立した日常生活の支援が包括的に確保される体制を構築することが求められる。そのためには、地域の中で医療と介護サービスが一体的に提供されることが必要であり、医療と介護の連携をさらに推進する必要がある」。

以上の部会報告に従い、政府が提出した今回の法案は、「住み慣れた地域での医療、介護」という、心ちのよい表現をしているものの、結局は患者の早期退院を迫るものであり、金のかかる「7対1の看護体制」を削減するなどのものでしかない。

なかでも、介護サービスについては、要支援1・2を介護保険制度の適用から外すというものがある。では、この要支援と認定された高齢者の実態を見てみよう。高齢者全体を100とした場合、単身世帯40.7%・夫婦二人世帯24.8%が要支援1・2の認定者である。とりわけ認知症の大部分がこの要支援の層であり、末期がんであってもここに認定される高齢者は多い。

それだけではない。要介護1・2の対象者の特別養護老人施設等への入所を、原則的に不可能にするという改正も含まれている。つまり介護を必要とする65%強の高齢者が、国民皆保険である、介護保険制度の「蚊帳の外」にはじかれることを意味する。これは大変なことである。

そこで改正法案の内容は、「介護のサービス(訪問介護・通所介護)を地域支援事業とする『介護予防・日常生活支援総合事業』で支える」体制を、各自治体においてつくるとなっている。つまり「NPO・民間企業(介護派遣会社)・協同組合・ボランティア・社会福祉法人」などによる柔軟な取り組みをすべきという提案である。柔軟な取り組みとは何を意味するのか。全く理解できない。

介護士の労働条件も含め、問題を孕みつつも、既存の「介護サービス専門事業所」の改善は取り組まれてきた。またその施設で働く専門職が積み上げてきた経験のケァは、貴重な財産として残されてきている。

しかし、前記の「支援総合事業体」が、例えば、ボランティアや派遣会社が、それにとって代わるだけのものになるのだろうか。さらにその事業体を取り仕切る自治体がその機能を果たせるのか。運動場や図書館の運営、あるいは公的財産管理などを委託するものとはわけが違う。このことはわかりきったことであろう。

社会保障は「100年の計」という。小泉内閣はそのことを政策としたが2年と持たなかった。

国会の「熟議」が叫ばれて久しい。その意味でもこの介護保険法の改正法案は国民の間に広められていない。国会の審議は6月がリミットであるが、政府はこの法案を引き下げ、あらためて「津々浦々」までの審議の場を設けるべきであることを提案したい。


犯罪も孤独から・独居高齢者の悲劇

2014-04-26 13:15:09 | 日記

 犯罪も孤独から・独居高齢者の悲劇

     あらためて、鉄道事故名古屋高裁の判決に思う

認知症の男性がJR東海道線で列車にはねられて死亡。これに対するJR側の損害賠償の請求をめぐる二審の判決が、24日名古屋高裁で行われた。この件に関しては昨日のブログに書いたことであるが、今朝の新聞においても多くの反響を呼んでいる。

とりわけ、二審における判断は、一審で指摘された別居中の長男、及び通いで介護に当たっていたその妻の介護責任を問わず、同居していた男性の配偶者(当時要介護1)の監督責任を問うものとなった。このことは重い事例となるだろう。

若干、話は変わるが、ここに古い記事がある。(2010年8月9日読売新聞配信) 「万引きも『孤独から』・・・ 摘発の25%が高齢者」という見出しである。警察庁によれば、昨年1年間の万引きで摘発された65歳以上の高齢者は全体の25%の27.000人となっている。東京都内の1月〜4月までの4ケ月では144人、内57.6%の83人が一人暮らしであったと述べている。「生活苦」を理由とするものもあるが、「寂しかった・孤独だった」という供述も目立っているという。悲しいことである。

毎日新聞4月19日の1面トップに、仮の名前とする「太郎さん」の記事が載っている。2年前、大阪市の路上で保護されたが、名前や住所など身元は全く不明。介護施設で暮らす重い認知症の男性である。「太郎さん元気」と声をかけると笑顔を示すという。それだけに切ないものがこみ上がる。

2025年問題ということが今取り上げられている。それは、あの戦後のベビーブームの年代が、2025年には75歳(後期高齢者)に突入するからである。

ここに、2012年度の全国高齢者(65歳以上)世帯別割合の資料がある。単身世帯23.3%・夫婦のみの世帯30.3%・親と未婚者の世帯19.6%・三世代世帯15.3%・その他15.3%とある。

2年前の統計であるが、今は確実に単身あるいは夫婦のみといった世帯が増えているだろう。そして、これが「独居・老々」という表現が、さして抵抗なく受け止められる世情へと発展することは間違いない。言葉は決して一人歩きはしない。事実を語る(表現)ものである限り、独居は「孤独」に置き換えられる。老々は「独居」のはじまりとなり、「徘徊・孤独死」へと結びつきかねない。

そして気になるものに、親と未婚者の同居がある。経済的にも自立し、未婚を生き方の一つとして選択したものであればいざ知らず、職もままならず、不安定な雇用条件下にあっての同居生活が、やがて「無年金」、場合によっては「無保険」という状況に進むとなれば問題は深刻である。その世帯の増加も無視できない。

認知症の徘徊に、「介護を必要とする配偶者」の責任を科した名古屋高裁の判断。あるいは「孤独が故の万引き」。それらが「高齢者虐待・介護心中・介護殺人」といった悲劇に結び付いていくであろう。残念ではあるが、現にニユースとなって現れていることも事実である。

今国会に提案されている「介護保険法改正法案」がある。法案の意図は、年々拡大していく介護保険財政の削減にほかならない。今まで述べてきた高齢者の実態とは何の接点もないものとなっている。次にそのことを述べてみたい。

 


要介護1の配偶者の介護責任を科した、認知症患者の鉄道事故

2014-04-25 12:54:42 | 日記

控訴審も妻の責任認定 認定証事故、賠償は減額。「中日新聞4月24日配信」

2007年、認知症の男性(当時91歳)が徘徊し、JR東海道線にはねられ死亡した。JR東海は名古屋地裁に、家族の監督責任があるとして賠償金を請求、地裁は720万円の賠償責任を認めた。

当時、その妻は85歳(要介護1)、老々介護世帯であった。長男は別居、その妻が近隣に転居し通いの介護をしていたという。前記の一審判決は、配偶者である要介護1の妻と、その長男の介護責任を科したものであった。そして二審の高裁は、長男の責任は免じたものの、配偶者の監督義務があったとして半額の支払いを命じたのである。

現在、国会審議の俎上にある「介護と医療の一体改革」の中でも、論じられなければならないものに「認知症」の問題がある。今や、65歳以上の15%が認知症、13%が軽度の認知症障害と言われている。その数は約900万人にのぼり、全国で1万人に近い徘徊行方不明者が出ている。うち2012年には359名の死亡が確認さた。

毎日新聞4月19日の1面トップ記事に取り上げられた仮の名「太郎さん」の写真は、笑みを浮かべている姿であるだけに切ないものが込みあげてくる。

NHKの取材班は報じている。家族60人に問い合わせたところ10%の7人が認知症に気づいていないという。さらに3名が行方不明と答えた。

また、ある例として、徘徊をくり返していたが戻ってこない。探しているうちに近くの塀と塀の間(約30センチの隙間)に入って死亡していた。また水量のない用水堀に入り込み死亡。結局は、引き返す、戻るという判断ができないのである。しかも自宅から5キロメートルという近距離での事故か多いという。

裁判官は、法に従い判決を言い渡した。法律はそのようになっているのであろう。しかし、ますます進む高齢化の中で、しかも独居、あるいは老々、使いたくない表現ではあるが「認々家族」の増加の中で、在宅における介護問題が、半世紀以前の法律をもって処することができるのだろうか。

今般の、名古屋高裁の判断には、私も含め多くの方の関心はそこにあった。

しかし、配偶者の妻に対しては「うたた寝をして見守りを怠った」という一審の過失説を否定し、二審では「保護者としての監督責任」と一歩突っ込んだ判断を下している。このことは重い。

徘徊者を保護している自治体が、探し当てた家族に引き取りを求めているが、その引き取りを断る家族も少なくないという。家族とて「引き取れる実態にない」ということもあろう。

この間「介護に疲れた」という遺書を残す、悲しい事例を目にすることが多くなった。高齢者虐待や介護心中、介護殺人といった悲劇が各地で頻発することを憂える。

今回の裁判を、万歩譲って「保護者責任」を科すものであっても、「介護の社会的責任」を重んじる政治に対する進言と、社会保障制度の未整備に対する警告としての「今様大岡裁判官」の姿を見たかったのは私だけであろうか。決して三権分立を否定することにはならないだろう。

付け加えたい。

「裁判官殿、貴方もいずれは老い、戻ることも、引き返すこともできなくなる。誰しもが通る道である。年を重ねられれば」。

 


長い海岸線の防衛、軍事力が通用するのだろうか

2014-04-21 14:48:07 | 日記

  長い海岸線の防衛、軍事力が通用するのだろうか

        外交・文化交流こそ、積極的平和主義の真髄である

 

青森から秋田までの在来線(五能線)の旅、そして秋田から新潟までの合計8時間。そして考えたのが「この国の防衛」についてであった。

昨年12月7日・17日のブログに書いているので重複するが、日本の海岸線の長さは世界第6位である。国内的に言えば、この海岸線の長さは長崎県が第一位である。つまり大小合わせて140余りの島がある「五島列島」を要しているからである。

上記2件のブログでは、そのような海岸線を持つ日本の防衛について書いた。

今、安倍内閣(自民党)は、ことのほか「日本の軍備増強」によって、外敵からの侵略に備えることを喧伝している。それが「尖閣列島」や「竹島」での「領土防衛論」である。また、軍事、外交評論家をも総動員し、「日本国民の命と財産を守るため」の防衛論の展開である。

かく言う私は、一市民としての感覚をもってこの防衛論に小石を投げ込みたいと思う。そこで、一つの物語を語ってみよう。

「ある日の夕方、秋の太陽が海岸線に沈もうとしたとき、3隻の小舟が砂浜に乗り上げた。そして、飛び降りた後、無人の小舟は空エンジンをふかして沖に向った。砂浜で、もくもくと動くのは30人ほどの武装をした人間である。そして防風林の中に消えていった。翌朝、電波を通した音声が「村の役場は我々が確保した。村人には危害を加えない。日常生活も保障する。しかし村からの脱出は認めないとする声明が出された。その声明は、一つや二つではない。やがて日本列島のあちこちの村、町から出され始めた。警察機動隊、そして重武装をした軍隊が現地に集結した。最高司令官である総理大臣は、そこにいる侵略者への総攻撃の命令を出せるだろうか。それは自国民を巻き込むことになる、銃を向けることなる」。

冒頭お断りをした。これは一つの物語であると。しかし、単なる物語として一笑に付すわけにはいかないことを、中東における戦争の現場と、あの日本海をダブらせたものが。私の頭の中を横切ったのも事実である。

かつて日本社会党は「非武装中立」ということを主張した。今はその言葉も死語に近いものとなっている。しかし、この日本において「武力による防衛」が果たして可能なのだろうか。「抑止力」にはなるという主張もある。それは己の満足であり、相手が「抑止」と受け止めなければ力にはならない。

今、オバマ米大統領の来日を前にして、やかましい安保論議が展開されている。いわゆる、その道の「識者」からすればまさに出番であろう。しかし、市民感覚をもって論議に参加することもあって良いのではないだろうか。

そして、次のニュースを見ることになる。南スーダンに派遣されている自衛隊の指揮官が、首都ジュバの宿営地付近で銃撃戦が起きた際、全隊員に武器と銃弾を携行させ、「正当防衛や緊急避難に該当する場合は命を守るために撃て」と命じていたということがわかった。派遣地の状況は戦場である。何がおきても不思議ではない。しかし、現場の指揮官、及び隊員が不用意な行動に移るという傾向を強めていることは、安倍政権の動きと無関係でないことを痛感するのだが、どうだろうか。しかも、この事実は1月上旬、しかし、国内で報じられたのは4月中旬の今である。