「核のごみ」を電力配電基地内施設で保管が再稼働の条件だ・・日本学術会議

2014-09-30 14:54:26 | 日記

   「核のごみ」を電力配電基地内施設で保管が再稼働の条件だ・・日本学術会議  

 

  「核のごみ30年間 地上で暫定保管」という見出しのもと、日本学術会議提言という記事が6面の下段に小さく載っていた。(毎日新聞9月30日)見過ごすところであったが、早速ネットで検索してみると、幾つかの報道機関でも取り上げられていた。その内容は次の通りである。

  日本学術会議は、「25日、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)について、10万年程度とされる最終処分の前に、原発ごとに保管施設を設け、30年間暫定保管すべき」だとする報告書を公表した。

  さらに同会議は、「暫定保管場所については、地域間の公平を図るため、原発を持つ電力会社の配電地域ごとに施設をつくることも提言。暫定保管施設の確保無しに新たなごみを出す再稼働を進めることについては『将来世代への無責任を意味するもので容認できない』と明記した」と報じている。

  また、その算定保管であるが、核のごみを金属容器に入れる「乾式貯蔵」が適しているとしながらも、技術的には50年程度であり、それを超える場合は施設の更新、あるいは新たな安全確保の検討が必要であるとも指摘している。

  「原発の完全な廃炉は可能か」。これは世界的なテーマであり、その中で討論されている一つに、この「乾式貯蔵」による暫定保管が報告されている。例えばアメリカ、スリースマイル島の原発事故である。取り出された核のごみは「乾式キャスク」に保管、3500キロ離れた砂漠に、しかもコンクリートに覆われた「完全遮蔽保管庫」で管理されている。

  今回の学術会議は、その保管管理施設(管理エリヤ)を電力会社配電地域ごとに作ることが再稼働の条件であり、その確証がないなら再稼働はすべきではないと明言している。

  川内原発の再稼働が日程にのぼっている。これに対する国民の反対の声は日増しに高まっている。そこにきて「御嶽山」の水蒸気爆発である。まさに活火山地帯の川内原発に再稼働の条件は無い。さらに、そのことに加える今般の学術会議の提言は、科学的も技術的にも「再稼働はありえない」ということを明確にしたものと言えるだろう。

  地元住民の意識も複雑であろう。福島県双葉地区もそうであった。青森六ヶ所村もしかり。移植民の苦渋が、国策の原発誘致によってほぐれていった事実、そして今もその選択を求めるという事実があるだろう。しかし、当該住民もまた、将来世代に対する責任は持たなければならない。

  これを機に、国(政治)も、電力会社も、そして住民(国民)も、「暫定保管施設の確保無しに新たなごみを出す再稼働」は認めないとする覚悟をすべきである。

 

 

 

 


 医療・介護の道。「曲がり角の先は」

2014-09-28 15:00:31 | 日記

      医療・介護の道。「曲がり角の先は」

 

  「2025年問題」。この言葉が語られて久しい。この私も、身近なニュースのページに、そしてブログにも書き討論に参加してきた。

  次に紹介するのは、福島県の「臍」である郡山市(人口33万余人)におけるものである。地元地方紙に「2025年に団塊世代75歳到達・郡山市が対策本部設置」という見出しつきの記事である。そして第一回会議がもたれ、市の幹部で構成される本部役員24名。オブザーバーとして医師会をはじめ消防本部、社会福祉事業団など関係者が参加して開催されたとある。本部長の市長は「市の全局部を挙げて難局を乗り切らなければならない。全知全能を絞って対応する」とあいさつをしている。

  あらためて述べることではあるが、来年4月からは「要介護1・2」の該当者の施設入所は絶たれる。福島県における入所待機者の3割に当たる4.300人が対象外になるだろう。そして「要支援者」の予防介護は介護保険制度から締め出される。

  このどちらの介護をとっても、自治体が対応する課題となるのだが今もって具体的方針は出されてはいない。というより「出せるのだろうか」という疑問を持つことの方が正確である。その意味では、11年先のことではあるとはいえ2025年問題は、すでに、今存在していると言っても過言ではない。とするなら「遅きに失する」ということである。

  しかし、その危機意識のもとに対策本部の立ち上げたことは歓迎したい。

  さて、記事の中でも述べられているが、「医療・介護給付費の増大。施設の絶対的不足、認知症対策、交通弱者・買い物難民の拡大。そして限界集落への傾斜など」多くの問題が、それこそ同時に、そして複雑に重なり合って発生することは間違いない。この事実に対し国は、「高齢者が住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを、生涯送れるように地域包括ケァシステムの構築」という方針を出している。

  そこで、介護保険制度から外された要支援について考えてみる。その支援は「介護予防サービス」が軸となる。その一つである訪問介護の利用者は介護保険利用者の11%である。また通所ディーサービスの利用者もやはり11%を占めている。これにかかわる費用を、介護保険財政から出ないとするなら、どうするのか。仮に、同等のサービスを続けるとするなら、その費用の捻出先は市町村からの持ち出しと自己負担とならざるを得ない。いずれ自治体と利用者負担の増大となれば、そこにサービスの低下は生じる。自治体間の格差が生じる。また、そのような不安定な介護報酬を想定するサービス事業者は、おのずと撤退するだろう。それは当然である。

  来年4月を起点として、3年をかけて整備していくというのが方針である。その間は経過措置としての予算化はあるだろうが、それは有期であり、暫定的に減らされ、いずれ措置はなくなる。その間、金のかからない予防介護システムを考えよという。例えば地域のボランティア、あるいはNPOなどの活用もあるではないかいう提起をしている。提起する側は簡単だが、受け手側の実態はどうか。まさに官僚の発想としか言いようがない。

  朝ドラのセリフではないが「曲がり角の、先は」というセリフがあった。

  さて、来年4月以降の「介護の道の、曲がり角の先は」、どんな状況が待っているのだろうか。

 


 「蟻の法則」・2対6対2の労務管理をやってのける企業の論理

2014-09-27 16:32:03 | 日記

     「蟻の法則」・2対6対2の労務管理をやってのける企業の論理

 

  日本の産業に与えた安倍内閣の経済政策(アベノミクス)は、全国津々浦々まで浸透し、かつての内閣には見られない成果を上げていると宣伝されている。そして「経済界にとっても受けの良い内閣」として長らく中断をしていた「政治献金」も復活した。

  さらには、外国投資家に対しては「今が買い時です」と、日本への株式投資をうながし、大量の資金を国内大企業に流し込んでいる。そして法人税の大幅引き下げをもくろむ。

  その中にあって不思議な現象が起きている。それは、日本における代表的な大企業において、一部事業部門の縮小、撤退、廃止を理由にした1000名単位の人員削減の実態である。

  日本は、戦後幾つかの経済不況の波に襲われた。1973年代からの60ケ月余に及ぶ石油不況もある。さらにはエネルギー改革による石炭産業衰退も経験した。そして、多くの労働者が職場から放り出された。

  そこに、抵抗する労働運動もあったことは事実であるが、今日のように「無抵抗のまま」職場が無くなっていくということは考えられなかった。しかも、半導体事業の撤退に見られるように、企業全体で利益を上げているにもかかわらず、一部の事業が成り立たないとして撤退するだけではなく、そこに働く労働者を丸ごと整理しようとすることにある。

  全従業員を、原則として企業内で抱え込むという方針は、かつての「社風」であり、今後の企業には許されないということなのだろうか。

  さて「2対6対2」という法則がある。

  蟻は、働く生き物とされていたが、それは誤りで「働き蟻は全体の2割である。後の6割はそこそこに働き。そして残りの2割は『さぼり蟻』」だという。そこである実験をした。働き蟻の2割を群れから取り除いた。そこで女王蟻を守り、働くグループが居なくなると思いきや、6割の中から働く2割の蟻が生まれる。そして、2対6対2は変わらずに存在するという。

  ある会社の人事幹部が言ってのける。

  従業員を四段階に評価をしている。当然にして「削減その他の対象はDブロックである。しかし、Dブロックのみとはしない。Aブロックからも対象者は出る」と。「それでは会社はマイナスになるであろう」との質問に対し答えが返ってきた。「心配はない。必ずBブロックからAブロックになるものが出てくる。全体して、この比率は変わらない。むしろ競争が生まれる」と。

  まさに「蟻の法則」の適用である。

  先に「不思議な現象」と言ったが、それは企業にとっては、今や当然の論理なのである。

  年金生活者であり、職場の実態には直接かかわるものではないとしても、このようなドラスチックな労務対策の中で働かされる子どもたちのことを思うと、腹が立つ。そして、労働組合の存在は、今どうなのかと述べたくなるのは私だけだろうか。

   ・・・・・・・(この「蟻の法則」は以前にも書いたことがある)・・・・・・・


 「弔い方の変化」・合葬式墓地を考える  

2014-09-26 10:04:45 | 日記

     「弔い方の変化」・合葬式墓地を考える  

 

  ある「退職者組合」の総会があり、その席で「合葬式墓地」についての報告をしてほしいとの依頼を受けた。この間、この墓地の建設を、市に要請してきたことから、仲間にも是非聞かせたいとする幹事の考え方があってのことである。

  高齢者の問題と言えば、医療・介護・そして年金となるのだが、それを飛び越えて「墓地問題」となったわけだ。いずれ「確立100%、誰もが避けては通れない「死と弔い」は、当然にして関心を持たなければならないことである。

  「2025年問題」というものがある。つまり、戦後のベービーブームに誕生した者が、2025年には75歳になる。この年度を頂点として「戦後最大の高齢者人口」が到来する。それは、介護・医療をはじめとする高齢者福祉が、待ったなしの対策に追われる出発点となるだろう。

  長寿社会とは言え、75歳となれば「何があっても不思議ではない年齢」である。

  先の国会で「静かに通過」してしまった『医療と介護の一体改革』も、具体的には来年5月からの要介護1・2の施設介護への入所が不可能となる。待機を余儀なくするにせよ「今までは、きっぷを手に入れるために並ぶことができた。しかし、もう並ぶことさえもできない」。これは大変な違いである。

  いずれにせよ死を迎える。かつては家の中で「家族に見守られながら息を引き取る」という臨終の場面が多かった。若干古いデーターであるが、全死亡者の82.3%が病院などの医療機関で亡くなっている(2006年)。医療技術の進歩と平均寿命の伸長があるとは言え、この実態は、介護施設を「終の住み家」となりつつある今日においてはさらに多くなっているだろう。

  そのことは「死を他に任す」という意識を家族に持たせつつあることも意味する。

  さらに、少子高齢化・核家族化・離婚・未婚などなどの実態が加わり、「墓の管理」は不可能になりつつある実態の中で「弔い方」も変化して当然であろう。

  冒頭の退職者の集まりの中でのこれらの報告を、皆さんがどうとらえたかは定かではないが、決して避けては通れない問題であることは確かであり、持ち帰って頂けたもの思う。

  今年も、お盆がきて、秋の彼岸が過ぎた。墓地には多くの参拝者が来ていた。しかし、あちこちの「無献花」の墓も少なくはない。

  叔父の墓に寄る。墓石の俗名の下の年齢を見る。70歳とある。子どもつれていけば必ず小遣い袋を必ず用意していた。当時はかなり年をめされていた容姿であったが、私もその叔父の年齢を超えることになった。

  その帰りに、現在建設が進められている「合葬式墓地」の現場に寄る。遮蔽塀から覗き込み「いずれお世話になりますよ」とつぶやいて戻った秋分の日である。

 

 

 

 


年間1ミリを超えないかと言えば、それを超える・我が家の選択

2014-09-25 19:22:11 | 日記

    年間1ミリを超えないかと言えば、それを超える・我が家の選択

  「模範解答は無い。あるのは『だから原発は再稼働してはならない』言うことである」と書いた。

  「仮置き場も決まらない。中間貯蔵施設の建設は困難だ。除染をしたゴミをどうしてくれる」

  これらの問答の背景には、放射能による汚染の不安を指し示す「線量」がある。いわゆる年間1ミリシーベルトの問題である。

  さて、我が家の除染は終了したと報告したがそれは正しくはない。除染を実施したのは雨どいと敷地内の雨水マス。そして屋外敷地の除染である。屋根・外壁、そして屋内は対象外である。

  3.11以降、家の中をせっせと掃除機を動かした。窓を拭き、フローリングのモップかけも度々行った。しかし、畳を取り換えたわけではなし、壁の張替をしたわけではない。

  そして、屋外除染後の「我が家の線量」は次の通りである。敷地内は0.265〜0.34マイクロシーベルト/年である。一番低いのは駐車場の0.16である。

  では、現在の屋内の線量はどうか。六つの部屋と台所であるが、一階は0.135〜0.159・二階は0.17〜0.195である。いずれも1メートルの高さの線量である。

  1ミリシーベルトを語るとき、空間線量0.23マイクロシーベルト/時の数値を用いるが、原則からすれば正しくはない。0.23 マイクロシーベルト/時という数値は除染の目標ではない。汚染状況重点調査地域を指定する際の基準となる数値である。線量をそこまで下げるため「国は除染を助成する」という基準である。

  同時に、年間追加被ばく線量1ミリシーベルトを0.23 マイクロシーベルト/時に換算する計算式は、ある特定の生活パターンでの推計した数値である。つまり、1日24時間を屋外8時間、屋内16時間とする生活パターンであり、屋内は(木造家屋)放射線遮蔽率40%を持って計算されている。さらに事故前の線量0.04マイクロシーベルト/時を差し引いた結果としての0.23ミリシーベルトである。しかも、政府が目標としているこの年間追加被ばく線量1ミリシーベルト(0.23マイクロシーベルト/時)を達成できるのは、数十年かかると(環境省平岡審議官)述べている。(環境省・平岡審議官)

  さらに、厳しくとらえれば0.12マイクロシーベルト/時以上の空間被ばく線量を受けることは、年間1ミリシーベルトを超えることを意味するとの受け止めもできる。「0.12マイクロシーベルト/時×24時間×365日÷1000=1.05ミリシーベルト/年」

  一方、0.23マイクロシーベル/時以上をもって、「そうであれば住民の健康リスクを極力低減させるために、自主避難・移住・そして、それができないなら保養推進、保養計画への援助、検診の充実などあらゆる取り組みをすべき数値」であるという提起がある。

  さて我が家の線量に戻る。厳しくとらえれば「住めない・住んではならない」ものとなるだろう。ではそれを受け入れるのかである。

  「ガン」をはじめとする、疾病の発症については定まった知見が無い。その上にたつなら、人間の免疫力・治癒力、そして排出力を大切にするという考え方もあって良いのではなかろうか。自らも広島で被ばくし、そして永年被爆者の治療にあたってきた「肥田俊太郎医師」の次の言葉を大切にしたいと思う。

  ①内部被曝は避けられないと腹を決める ②生まれ持った免疫力を保つ努力をする ③いちばん大事なのは早寝早起き ④毎日3回、規則正しく食事をする ⑤腸から栄養が吸収されるよう、よく噛んで食べる ⑥身体に悪いといわれている事はやらない ⑦あなたの命は世界でたったひとつの大事な命、自分を大切にして生きる。
  

  私は、我が家の線量を知ったうえで、この言葉を受け入れここに住み続けることを選択した。