「若しも武田陣営に優れた軍師がいたら」

2014-01-31 11:33:14 | 日記

   「若しも武田陣営に優れた軍師がいたら」

 武田信玄の影武者も織田方の防諜に暴かれ、「長篠・設楽原」が織田・徳川連合軍との最後の決戦となった。広いように思われるが、織田・徳川の陣と武田の陣の距離は僅か300メートルである。決戦の当日7月9日は、梅雨も上がったが前日は雨であった。田には水がはられ、土壌はぬかっていた。信長は3000挺の鉄砲を有効に使うために、人馬が疾走しにくい地点を選び、馬防柵をはり巡らし武田の機動力を封じた。武田陣営は「騎馬隊」が主流。長い槍を前にして敵陣に突っ込み、混乱したところに歩兵が槍と刀で切り込む、武将も馬から降りて戦う。これが当時の武田軍の戦術であり最強の軍団と言われていた。

 題して「もしも武田に優れた軍師がいて、軍師に信頼を置く勝頼の度量があったら・・・」。物語がここから始まる。

 鉄砲隊を主力にした織田・徳川方の軍勢は4万、これに対する武田方は1万5千。勢力からしても武田は劣勢である。

 ところで当時の鉄砲の値段はどの程度であったか、今の値段からすれば一挺54万円程度とか。3000挺となると16億円である。さらに銃弾が必要である。いかに秘密に事を図ろうとも、これだけの金子が動くのだから外に漏れないはずはない。これを知った武田側は無為無策に時間を過ごしていたのだろうか。

 梅雨明けという時期、ぬかる土壌、地形、敵陣営の武力を分析する軍法会議は開かれたであろう。鉄砲3000挺と争う。武田の軍師の「戦術」を、対鉄砲の戦いにおいたとすれば次のことが考えられなかったか。安価な弓矢を大量に揃え徹底して射りまくる。婦女子も弓を引けたろう。そして相手の混乱に乗じて騎馬隊を繰り出す。馬防柵があったとしても、上から降りそそぐ「弓矢戦術」は有効な手段となったであろう。

 ところで、当時の鉄砲の射程距離はどのくらいか。命中し、殺傷することのできるのは精々30メートルから50メートルと言う。では弓矢はどうか。弓道場で的を狙った水平射ちとは異なり45度の角度で矢を放つ。その距離は200メートルとも言われている。いったん刺さった矢はなかなか抜けない。浅くとも致命傷を与える。鉄砲の被弾からまぬかれる距離から、一斉に、雨あられのごとく相手方の陣営に打ち込む。中には火矢も加える。

 馬防柵内の織田・徳川連合軍は乱れ、統一を欠き、軍令は届かない。「さあここが勝負。勝頼の軍扇は高く上がる。武田騎馬隊は一斉に攻め込む。続いて歩兵隊が突っ込む」。かくして勝敗は決し、武田陣営に勝どきが上がる。

 当然にして本能寺の変は無かったし、関白秀吉の誕生もなかった。家康の出番もなかったろう。さて、歴史はどのように変わったであろうか。

この記事は、3年前の私が編集したニュースに載せたものである。

昨日のブログに形骸化している国会論議を書いた。野党の中に優れた「軍師」がいないものだろうか。


 国会の質問も答弁も同じ言葉の羅列、これって何

2014-01-30 19:40:25 | 日記

  国会の質問も答弁も同じ言葉の羅列、これって何

 

国会がはじまるといつも思うことであるが、政府(首相)の答弁を求める質問の項目も内容も、同じものを各野党の代表が展開する。それに対し政府(首相)も同じ答弁を繰り返す。

これって何。

国の最高機関である国会の権威は何処にいったのであろうといつも思う。費やさなければならない必要な「政治の論議時間」を無駄に過ごしているばかりか、国費の浪費であるとさえ言いたい。

質問に立つ野党も、自ら存在を示そうとするのであろうが、果たして示しているものになっているのだろうか。

そのことが、今回の安倍首相の答弁の一場面のテレビ放映をみて痛感した。

29日の参議院における質疑の場面である。質問に立った民主党の神本議員に対する答弁であるが、例のごとく用意された原稿の棒読みにする中で、靖国参拝に対する回答のくだりであった。途端に、一気にまくしたてた早口の棒読みの場面である。

登壇する質問者の同じ内容に、同じ回答を続けてきた首相の、とりわけ国内外から批判を浴びている靖国参拝であるだけに「切れた一面」と見たが、この放映を見た方はどう受け止めたであろうか。

もちろん、だからと言って首相を擁護する気はない。「丁寧な国会答弁」を強調してきた首相である。「まくしたて口調」には強い不満を持つ。だが野党の資質の無さにも責任があろうと思うがどうだろうか。

代表質問であり、各党間のすり合わせは困難であろう。しかし、質問の重複を控える事前の協議はできないものであろうか。

自らの党の持ち味を生かし、内容を豊富化し、深く突っ込んだ質問を準備する。その答弁書を作成する官僚やスタッフを総動員させ、悩ませる国会論議ができないものか。

国会はこれから長丁場に入る。

各種委員会における質疑が展開されるだろう。とりわけ予算委員会は国民の注視するところである。今国会は混乱するものがないと、政府・与党は胡坐をかいているとも報じられている。そのようにさせてはならない。

特定秘密保護法の施行まで詰めなければならない課題がある。集団自衛権問題にしてもしかり、突出した中期防衛予算もある。さらに沖縄辺野古沖埋め立てに、住民の意思決定を無視するかの強引な方針も出されている。そして消費税と社会保障がある。

また、アベノミクスの仕上げともいわれている産業競争力強化についてもしかり。政治介入の教育行政しかり。胡坐をかかせてはならない課題が山積しているはずである。

これらの課題を、各党の代表がそれぞれ取り上げているならば、それこそ、形式的、棒読み回答、上っ面の質疑討論となることは必然であり、政府の思う壺であろう。

野党が、政府与党を詰めるためにも、A党は○○。B党は▽▽。C党は◇◇といった、課題のすり合わせができないものであろうか。このことの追求がなければ、国民にとって、国会論議は蚊帳の外となりかねない恐れを痛感する。まさに、民主主義の危機である。

今こそ、野党の責任が問われていると思うが、どうだろう。


またしても福島の悩み・知恵と経験で許容の知見を求める

2014-01-29 10:07:16 | 日記

  またしても福島の悩み・知恵と経験で許容の知見を求める

 

福島県楢葉町は、国が計画している「中間貯蔵施設」の建設に「ノー」を表明した。

以前から同町は、施設への持ち込みは、町内から搬出する高線量を除く放射能廃棄物に限るという「保管庫」の考え方を示していた。今回、あらためてその意思表示を県に提示したことになるのだが、県はその対応に苦慮するであろう。

さて、この保管庫なるものの構想には、次のような背景があると受け止めている。 それは、町民が帰還するにあたって、そこに存在する広大な「中間貯蔵施設」の存在は障害になる。とは言いつつも、地域の除染を進め、そこから出る廃棄物の貯蔵施設は必要だ。その施設は、高線量(10万ベクレル以上)を除く、しかも同町内からの廃棄物に限り、その搬入を認める「保管庫」である。そこに、今もって「最終処分場」の方針は決まらないことが、「中間貯蔵施設」が最終処分場になってしまうのではという危惧が加わる。

ところで保管庫と仮置き場とはどこが違うのだろうか。さらに、ここにきて帰還困難地区に指定されている富岡町に、広大(60ヘクタール)な「新仮置き場」(26年度内・環境省)の建設が計画されている。中間貯蔵施設、保管庫、新仮置き場、仮置き場の羅列に住民の混乱は深まるだろう。

いずれにせよ前記の前者3点は、国の責任において対応するものであり、後者の仮置き場は当該自治体の努力で進められる。ちょっと待てよとなる。

自治体は仮置き場の候補地探しから始まり、近隣住民の理解を取り付ける。そして住民は苦渋の受諾をする。また、その仮置き場がないがゆえに、「敷地内埋設」を選択しなければならない住民がいる。いずれも、最終処分場、あるいは長期保管の危惧を抱いていることは同じである。しかもその選択は「自己責任」である。

放射能問題は、「住民の、場合によっては家族間の対立、分断を生む」性質を持っていると言われてきた。「対立や分断は権力の利するところである。だからお互いの意見や、その結果の意思決定を尊重しよう」とも言われてきた。

「自分のところの廃棄物は仕方がない。しかし他所のものまではごめんだ」と述べる人たちを批判することはできない。しかし、その同じ放射能廃棄物を、自宅の僅かな庭に埋めている人たちのいることも知ってほしい。その住民にとっては「中間貯蔵施設」は必要である。そうでなければ、敷地内は最終処分場になりかねないと危惧する。

すると、次のような声が聞こえてくるような気がする。「私たちは、自分の住むところも、職場も、そして家族も失った。離散もしている」と。

それを知るがゆえに、今回の中間貯蔵施設・保管庫・新仮置き場、仮置き場。そして除染の推進の五者の一致点を見出すことができないだろうかと痛感する。

そのことを避けて「東電・国の責任」を追求するだけでは何の解決にもならない。あるいは「省略行為」と言わざるを得ない。その姿は、時の権力(為政者)にとって、格好の材料として見下ろすだけである。

対立と分断には踊らされてはならない。「知恵と経験を生かした、放射能汚染に対する、許容の知見を求める必要があるのではないだろうか」。

これは、福島の狭間で悩む一人の発言である。

 

 

 

 


時のたつのは早い、余りに早い。そこで考える 

2014-01-27 13:53:19 | 日記

  時のたつのは早い、余りに早い。そこで考える 

 

「一日が短い」、「時のたつのが早い」。

高齢者が集まると、必ず出てくる話題は飲んでいる薬や病状である。同時に、そのあとに続くのが、1年が短いという話である。

今年も、はや、1月も最終の週となった。早いものである。

併せて、今年に入って、二人の知人が世を去っている。幸いという表現はいかがなものかとも思うが、享年80代と言えば受容されてよい年齢であろう。

次のような謎解きがあったのを思い出す。「人生とかけて、靴下と説く。その心は、長いものもあれば、短いものもある。そして『はかない』ものもある」。

平成24年度の日本人の平均寿命は、男79.94歳・女86.41歳と報じられている。この数字から言えば、二人の死が「受容されても良い」という受け止めには抵抗があるかもしれないが、それでも「寝たきり」の状態が無かったことはよかったと思う。

そこで、改めて「寝たきり」を考えてみたい。

2011年の調査によると、胃ろう患者は全国で26万人、平均で81歳。90%以上が寝たきりと言われている。また胃ろうだけではなく、点滴などのチューブを抜き取らないように、手袋をはめられ、それを紐でくくられている拘束患者が多い。いわゆる「医療虐待」である。

しかし、これとて簡単に「虐待」と言えるだろうか。

私の知人の母親もそうである。90歳である。入院が8年を超える。4人部屋の患者がすべて「寝たきり状態」と述べていた。入院費用は月8万円、それでもありがたいことであると常々述べている。

よく「死の質」ということが言われる。どのような死に方があるのかということである。

全国あちこちに「姥捨山」の語りがある。現に、それはあったことであろう。自分から求めて「お山」に入っていった。また、自分の死を悟り「餓死」の道を選んだことも語られている。

しかし、今や、先進医療も含め、以前であれば助からない命も長らえることができる。また先の話とは言え、再生細胞・医療が当たり前のこととなりつつある時代となっている。

介護保険制度の見直しも日程にのぼっている。要支援の介護は「保険制度」から外され、自治体や地域のボランティアに託される。要介護1・2の被介護者の施設入所は、原則的に不可能になる。あるいは本人の収入によって個人負担率が2割になるなどの改定が用意されている。

また、医療保険制度でも、上記の先進医療の併用を認める改定が検討されているものの、先進医療費そのものは、100%本人が負担である。100万単位の治療費が必要である。それを納められる者だけが、その併用制度の恩恵に浴すという事実は何ら変わらない。

2016年の1月も終わろうとしている今、あらためて「長寿の時代における高齢者の『死の質』は考え続けなければならない課題」であろう。

 

 


打たれたら開き直る田沢投手・よもや安倍首相は

2014-01-22 16:10:43 | 日記

   「打たれたら開き直る」田沢投手。感心する安倍首相、よもや・・・・・・  

 

首相官邸に、米大リーグで活躍した、レットソックスの上原浩治と田沢純一投手が訪問した。

首相は、「打たれたら打たれたで開き直っている」という田沢投手の言葉に「やっぱり開き直りが大切」と感心。(1月22日毎日新聞)

野球の勝負に、開き直りはあっても良いし、それが勝ちに結び付くこともあるだろう。まさか、安倍首相が、内政、外交に「勝負をかける開き直り」をすることはないと思うが、気になる言葉である。

おりしも、スイスで開かれる「ダボス会議」の開会式において、日本の首相として初の基調講演を行うことになっている。その講演の柱である成長戦略に対し、与党内から待ったが入ったと新聞記事は報じている。高市政調会長から「重要な内容で、党内手続きにかけるべきだ」と。さらに「外交の大義名分があれば、何でも認めろと言うことなのか」との批判が出て、総務会を途中退席する議員もいたとも報じている。

今は、袂を別ったかに見える「指導役の小泉元首相」から学んだ、「サプライズ演出」をもって大衆を引き付けてきた首相も、ここにきて、この「開き直り」と「俺に、ついてこい」式の姿勢を強く感じるのは私だけであろうか。

近くは、靖国参拝がある。真偽のほどは確かではないが、この参拝が極秘のうちに進められ、しかも、この事実を知った重鎮が止めたにも拘わらず強行したと言う。止めた重鎮も、止めるならば「手綱」を引き、馬の前に立ちはだかるまでの重鎮ではなかったということが、今の自民党の実態を現している。

そして、同盟国の米国からの批判。さらに、プーチン露大統領の訪日が明らかになったものの、安倍首相に対しは「靖国参拝はついてはアジア太平洋地域の関係正常化に寄与しない」(ラブロス露外相)との烙印が押された。あるいは世界的規模での日中大使級論争が、仕掛けたのは中国であれ、そのようなことになることは百も承知の上で強行した。そして今後も、この方針は変更しない(在任中の再参拝)と主張するところに、前記の「開き直り」の姿とダブるのである。

弟である、岸副外相が米国を訪問し、参拝の真意である「不戦と・平和国家の誓い」に理解が得られたと報告している。

では問う。「自民党の靖国参拝の方針」では、あえてこの二項の文字を削除している。それは「戦争責任を問うA級戦犯の合祀」と「靖国信仰」を守るということである。 

ならば、岸副外相は、そして各地で展開している日本領事館の論陣は、ここに触れなければならないはずであるが、触れてはいない。

かく言う私も、いつまでも靖国にこだわるつもりはない。もうこのくらいにしようとも言いたいが、「開き直りの危険が気になって仕方がない」。