安倍首相の迷彩姿に70年前にタイムスリップする。

2013-04-30 21:07:42 | 日記
 インターネット動画配信サーピス会社が、27日に千葉市幕張メッセでイベントを開いた。そこに安倍首相も参加。自民党をはじめ共産党も志位委員長も参加したとある。
 そこで画面に登場したのが安倍首相。陸海空自と在日米陸軍のブースを訪れ、陸上幕僚幹部の広報室長から「戦車がありますが、乗られますか」と水を向けられると「乗ろう」と応じ、迷彩服とヘルメットを着けて戦車の砲手席に立ち観衆に手を挙げている写真が報じられた。
 その戦車は陸自の最新型戦車「10式戦車」と言う。
 
 首相は自衛隊の最高指揮官である。閲兵式や観閲式に立ち合うことは常々目にしてきたことである。自衛隊の存在を否定する者であっても、そのことをとらえてどうこう言うことはないだろう。だが「水を向けられたとは言え、しかも迷彩服に着替えての戦車への乗り込み」については違和感を覚えるたのは私だけであろうか。
 
 敗戦日を迎えた時は国民小学校3年であった私も、あの戦時下の大臣が閲兵式等でのお立ち台の姿は記憶にあっても、戦車や戦闘機に乗り観衆に手を振るなどの姿は記憶にはない。
 
 7月の参議院選挙を前にして改憲の動きが全面に出てきている。もちろん思想、信条の自由は保障されなければならない。しかし自衛隊を「国防軍」に改組するとの方針を参院選の公約にすると宣言している自民党。しかし党首とは言え、内閣総理大臣としての安倍晋三氏は個人ではない。遊び半分とは言わないまでも、無造作に、着替えてまでして戦車に乗り込み手を振る姿には違和感以上のものを感じた。

 今、自衛隊の中では、旧日本軍の慣習が用語も含め復活していると聞く。参院選に日本維新の会から出馬を予定している元航空自衛官が、自らのツイッターで「田母神閣下(元航空幕僚長)に後援会会長の就任を頂いた」と書いている。
 何か、70年前にタイムスリップしたように覚えたのが安倍首相の迷彩姿の戦車搭乗であった。

蝉から、人間の傲慢と浪費の生き様を考える

2013-04-29 16:07:13 | 日記
   7年の眠りから   

 庭先の春ランが芽を出し、今年はやや早いのか一週間もすれば一斉に花が咲くだろう。今の背丈は20センチ程度だろうか。やがて花は終え、濃い緑の葉が生い茂る。背丈が40センチは超える。実は、この木の葉の陰が蝉にとっては格好の場である。ここから3年前は3匹が飛び立った。抜けガラが3つあった。昨年は2匹であった。
 この春ランの根本深くに「蝉の幼虫」が7年間も暮らしているという。やがて夏になる。蝉は地下から這い出し、この春ランの葉の裏側にたどり着く。そして羽化する。その時刻は未明。なぜなら、天敵である鳥を避けるからだと言う。
 運良く、木陰にたどり着くことができれば、なんとか一週間の生涯を全うすることができる。そしてオスは精一杯鳴きメスを求める。求婚が成立すれば良いが、実現できないオスは生涯の時を、鳴き続けると言う。
 
 自然の摂理は繰り返す。しかし、その繰り返しの中身が、最近とみに激しいものを感じる。今年の冬の寒波もそうである。4月の入学式の当日の降雪は記憶にあるが、4月中旬の大雪は記憶にない。ある人は「地球が泣いている」と述べている。私もそうだと思う。地球は一生懸命浄化作用を強めているが、追いつかないのだろうか。人間どもの懲りない傲慢と浪費に立ち向かうことができないでいるのかもしれない。
だから「切れる」のであろうか。  

原発を「消えない、消せない火」と私は喩えたい。火は消すとことができて、はじめて「火」になる。だから火を発見した人間は、その火を生の営みに使い、獣から身を守った。
 ところが一旦燃やしてしまった「核の火」は、消そうとても消えないし、消せない。 にもかかわらず、人間はこの「火」を再び燃やそうとしている。しかも、その「火」を他国へ持ち出そうとしている。金を儲けるために。

 地球は、今に、それこそ「最大の『切れ』を起さないだろうか」。
 地球を、これ以上泣かせてはならない。「傲慢と浪費の生き様に一寸待て、考えよう」。それが人間の知恵と言うものであろう。

 そんなことを教えてくれる「蝉の巣立ちが間もなくやってくる」。
 今年は、何匹が飛び立つだろうか。






                                         

自宅で親を看取るとは・そのとき「あなたは」を考える

2013-04-26 20:26:14 | 日記
 神奈川県横浜市、人口は370万人。75歳以上の老人が最も増加した町である。
 そこに暮らす父親、そしてその末期介護をがんばる娘さんの実写を綴ったテレビ放映
を見た。「NHK・Eテレビ4月17日」の番組である。取材に応じてくれた方は6人だったと思う。その一人が病院から退院した親を自宅で介護し看取るという取材番組である。
 その父親を病院に迎えに行く。父は肺疾患で入院したが病状が安定したということ、そして本人の希望もあって退院することになった。「ああ、無事に着いた。ボロ家でもホットする」と言って椅子に座る老人の姿に、画面を見ている私は「さあ、これからどうなる」と言う外野的な意識と重なる。
 この老人の介護を担うのがお嫁さんである。さらに実家の母は市内の病院に入院している。義父と実母との「二人介護」を担う。これからはよくあるケースの典型であろう。
 
 また、父の在宅介護を担う娘さんは「このままこの場で看取りたい」と希望する。「息が止まったらどうしよう」と往診に来られた主治医に相談する。主治医は「救急車は呼ばないこと。救急隊は救急が任務ですから」と。相談する家族も、答える医師も切ないことである。そして、その日に息を引き取る。

 病院もまた苦渋の選択を強いられている。毎日入院患者の状態のミーテングがある。この病院では75歳以上の入院患者が半数を超える。そして全体的に長期入院の実態にある。病床の限界の中で入院を必要とする患者が増える。ミーテングで退院後、在宅介護にキーマンがいるかの質問を院長がする。しかし「キーマン」はいない。そのことは誰が、親の介護に責任を持つのかが明確になっていないことが明らかになる。誰もが「ならば、俺以外の誰かと腰を引く」のが実態である。

 往診医師は言う。「老衰を見ていくことはきつい。意識が遠のくより食べられなくなるのが先だから、つらい。本人は微妙に受け答えをする。目を追う、笑うし、涙する。でも食べられない。それが老衰なのです。だから介護する家族はつらいのです」と。そして、この老人もそれから2週間後に息をひきとった。
 「胃ろうの中止」を求めた介護の娘さんが述べる。「肉体が壊れていく、それでも生きなければならない。見るに堪えられない。終わりを続ける苦しみそれが耐えられない」と。

 円安、株高。あたかも国民の生活は豊かになったかを安倍首相は声高に発言している。そして改憲論議があたかも既成事実として国会の場に登場させている。ならば問いたい。占領政策としての「押し付けられた憲法」だから変えなくてはならないと言うのであれば「生存権」までもが改憲の的になるのかと。とするなら、高齢者の介護、看護も、それは個人の責任であると言うことになる。それなら「持てる者と、持てない者」との格差はあって当然と言う憲法になる。それは許せない。

 親の介護からも「憲法を考えよう」。これが私の提起である。 

除せんの実態。住宅敷地内が最終処分場にならないか。

2013-04-25 09:14:30 | 日記
福島県中通りから一般住宅の除せん現場の実態を報告したい。取り除いた汚泥や土を敷地内に埋設する。約一坪程度、深さ1.5メートルの穴を掘る。重機が入らないので全てが手作業である。基本的には1.5メートル以上掘り、その上に30センチの盛り土をして完成である。しかし除せん後の庭の線量は、1ミリベルト/年間以内(0.19μSV/時)には到達しないと言うのが、大方の除せん業者のチーフの回答である。 
 これを「仮・仮置き場」と言う。
 さて、このようにして埋めた汚染物をいつかは取り出すことになる。行政が確保した仮置き場へ移すためである。その仮置き場の保管期限は3年、そして中間貯蔵施設へ。その管理期間は30年とされている。
 ところで今もってその仮置き場が決まらない。一部設置されたところもあるが、そこへの持ち込みは地区内のもの、他地区からは持ちこませないと言うのが条件である。
 中間貯蔵施設も決まらない。最近「保管庫」という呼称がまかり通ろうとしている。
つまり「保管するのは俺らの土地のものだけ。他の地区からは持ち込ませない」。これを条件に中間貯蔵施設の地質調査は認める(原発立地の一部町村)となっている。これは最終処分前の「中間貯蔵」とは言わない。「仮貯蔵」(仮置き場)である。ところがそのことを条件に国は「中間貯蔵施設作りのための調査をする」と言う。おかしい。

 前記に戻ろう。報告したような狭い敷地内への埋設常態が大多数である。それを再び掘り出すことは、除せんをして埋設するより困難と考えるのが妥当であろう。「本作業は一生懸命やっても後の始末は省略するか、放置するというのが実態である」。 
 もしかして、その時空き家になっているかもしれない。草木が生い茂り、埋めた場所さえわからない。除せん業者が埋設見取り図なるものを残しているだろうか。または行政がそれを100%把握し、管理しているのだろうか。これとて疑問となる。
 誰しもが「仮置き場」「中間貯蔵施設」が必要と言う。それが実現しなければ除せんは進まないからである。それは正しい。しかし、積算線量が1ミリシーベルト以下で無ければ安心できない。「我が家の近くはダメだ。他所からの持込はダメだ」ということが同時並行で進む。計測器の針が触れる限りは了解とはならない。
 その間「仮置き場」も設置できないままで「なんとかこの場をしのぐ」という無責任行政が今まかり通る。住民は「とにかく除せんを急げ」と要求する。

 不思議な現象が生まれようとしている。仮に貯蔵施設の完成まで10年かかるとすればセシューム134(半減期2年)は32分の1に減少する。「とにかく除せん」という住民要求が「仮・仮置き場」を拡大していくとするなら「一寸待て。それはで仮・仮置き場も仮置き場の埋設物はそのまま放置とならないか」ということである。     そこに国(政府)の意図があるのではとも訝る。
「中間貯蔵施設の完成は前途遼遠、最終処分場にいたっては影も形もない。結局、汚染土は各市町村が抱え込むしかないのでは」と。(木村真三独協医大准教授・毎日新聞4.12ほんとの空から)
 その抱え込みが各家庭敷地内となれば深刻である。この厳しい現実からは逃げられない。このことについて語り合うべきではなかろうか。

驚き、不意打ち・権力者が使えば怖い。

2013-04-23 09:15:17 | 日記
 「サプライズ」という言葉がある。英訳は驚き、不意打ちの意味であるが、日本では「他者を驚かした後に喜ばせる計画やその実行の意味でも使われる}。20日のテレビのニュース。そして21日の新聞は「サプライズの演出」として大きく取り上げられていた。その内容については後で述べるとして、ハイドンの交響曲第94番が「驚愕」の愛称として使われている。それは第二楽章のはじめは静かな演奏で流れているが、その後にびっくりするような大音量となり、さらにトランペットを使ったことは当時の常識では考えられないものと言われている。逸話としては居眠りをしている婦人方を起すために書いたとも言われている。
 そこで前記のニュースの件である。福島県南相馬市の中学生12名が首相官邸に招待された。途中で突然安倍首相が登場。事前に知らされていなかった予期しない場面に、中学生は驚き、どよめき、そして喜びを声をあげたと報じている。そして首相を真ん中にした記念写真と官邸見学。ホールでの首相との対話。「福島の再生に全力を上げます」と。まさにサプライズ演出である。
 交響曲もしかり、今回の中学生見学会しかり、サプライズ演出はあらゆるところに試みられる。しかし、この演出が時の権力者が政治体制を維持、強化するために用いられるとすれば恐ろしいことである。その歴史の1ページを開いてみたい。
 「雨の明治神宮外苑の行進」がある。昭和18年10月21日、20歳以上の学徒25000人、それを見送る女学生をはじめとした50000人。動員された女学生は入り口近くのスタンドに配置された。入り口から入場する若き学徒に、女学生はずぶ濡れになりながら駆け寄り、涙し、手を振り、声援の声を上げた。行進する若者は「この女性を守らなければならない。そのためには死も恐れない」と。見送る若い娘は「その死に殉じる覚悟で国を守ろう」と。そして3000名を超える若者が戦死した。また殉じることを誓った多くの少女が勤労学徒として命を失った。
 サプライズ演出が政治の場面に出た最たるものであろう。今もって記録番組に企画された場面を見ると涙腺が緩む。それだけ強力な記憶を私たちに与えたものであった。 
 「歴史は繰り返す」。今、安倍政権は平和憲法を変えようとする動きが大きなうねりをもたらしている。改憲の狙いは第9条である。過去には「忘れてはならないものがある」。そのことを知る者の一人として、警戒しなければならない場面が幾つも出ている今日の政治情勢を訴えたい。