福島からの言葉・原発コストについて

2015-04-29 14:15:39 | 日記

  福島からの言葉・原発コストについて

 

  福島の人間だからこそ、そして原発事故の災いを今もって引きづっていかなければならない福島県の一人であるからこそ、声を上げなければならないといつも思っている。

  今月後半は、幾つもの課題を報じているが、前記の立場から「原発依存度」の問題を取り上げたい。

  時事通信4月28日の見出しは「原発依存度、最大22%=安定供給優先、大幅減見送り―30年度電源構成」と書かれている。これは再稼働を構想に入れてもなお、増設をしなければならない数字ある。そして前日の27日。毎日新聞は【発電コスト:原発「最も安価な電源」・経産省の試算】と報じた。つまり、原発の発電コストは、東京電力福島第1原発事故後の安全対策費を反映しても1キロワット時あたり「10.1円以上」と算定。石炭や天然ガス火力の燃料価格の値上がりを見込み、「原発の発電コストはほかの電源を下回る」として「もっとも安価な電源」と結論づけた。それが経産省の原発依存度を上げる方針の根拠となっている。安全稼動への対策費、過酷事故を想定した対策費及び補償費などが試算されてはいると解説している。しかし、データーは、それを活用する者によっていかようにでもなる。再稼働を主張する者にとっては都合の良いところをとり上げ、不都合なところは無視する。このことは常にある「為政者」の常識である。よって官僚及び学者諸氏にとっては、多くのデーターをもとに己の学識を持っての結論を出した事であろうが、市民の感覚は異なるところにあることを述べたい。そこに「福島の出番がある」というものだ。

  その一つに「中間貯蔵施設」を取り上げてみる。以前にも書いたが2000名を超える地権者の一部には「江戸・安政年代」の所有者の名もある。約地権者の半数は不明である。一物件100人を超える「法的地権者」との契約に、どれだけの費用と時間が掛かるだろうか。また、仮に30年後土地の返還と復元が可能になったとする。では原状復帰にどれだけの年限と費用がかかるか。それよりもまず地権者全員との契約は成立するだろうか。まずは不可能であろう。

  二つに、避難生活の中でとりわけ高齢者の命が破壊されている。福島県旧双葉郡の各町村の介護保険料の増加がダントツであると政府は発表した。つまり避難生活を余儀なくされている状態での要介護の拡大が、介護費用の増加に結び付いているとの補足説明をしている。残念ではあるが今後も拡大を続けるだろう。

  三つには、今なお解決されない除染とそれに対する対策である。汚染水問題もしかり、生活に直結する土地の除染も、その解決の先が見えない。よって対策費も同様である。多分「ざるに水」の譬えの垂れ流しが続くだろう。

  そして終わりにどうしても触れなければならないものに、強制的に立ち退きを命じられ、過去の生き方を消し去られた「住民の尊厳」を幾らと評価するのかである。それはソロバンでははじくことはできない。だからと言って、コストに換算しなくとも良いとはならない。はじけないから「算入しない・算入できない」とするもほど高くつくものはない。「一番安価な原発」という方針は当たらない。「一番高価な電源こそ原発である」。最終処分を抜きにしても「一番高価な電源こそ原発である」ということが、欧州、米国をはじめ世界の動向が「再生エネルギー」重視へと舵を切っていることの立証である。

  「人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いの問題を並べて論じるべきではない」・「豊かな国土とそこに国民が生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だ」。人格権を尊重し、住民の思いに寄り添うとした「高浜原発訴訟」の判決文に崇高な倫理を見出す。このことをあらためて「福島からの声」としたいものである。

 


そのような形での『税』の使われ方を考える

2015-04-28 10:43:49 | 日記

そのような形での『税』の使われ方を考える

 

  やはり考えてしまう。

  原発被災地の福島の復興・振興というキャッチフレーズのもと、いろいろな行事が企画されている。”フルーツ王国”を味わうスイーツ列車「フルーティア」郡山~会津若松間にデビューへ。「走るカフェ」をコンセプトとした新しい列車「フルーティア」の運行である。「フルーティア」の名称はスイーツに使う「FRUIT(果物)」と「カフェ」をイメージさせる「TEA(お茶)」を組み合わせて命名したと言う。そして出発のこの日、郡山駅のホームに内堀福島県知事の姿があった。知事は右手を高々とあげ「発車オーライ」を告げる。この内堀知事の姿は今やあらゆる場面に登場、男優顔負けの出演である。平和と言えば平和、賑わいといえばお祭り。悪いものではないとしつつもやはり考え込んでしまう。

  そのことを語る一つに、「プレミヤ付き宿泊券」なるものがある。他県は5月のゴールド連休などを標的にすでに発行している。現に徳島県では、県内の宿泊施設に実質半額で泊まれる「おどる宝島!とくしま旅行券」を4月20日の発売。開始から23時間半で予定していた3万3000枚が売り切れた。また鳥取県では、4月1日午前9時から全国のコンビニ店で、県内の宿泊施設で使用できる額面1万円のプレミアム宿泊券1万4000枚を、1枚5000円で発売したところわずか4分で完売したと報じている。                                                     

  これらの財源は、政府が発表した「地域住民生活等緊急支援交付金」(総額4200億円)の中の「地域消費喚起・生活支援型」(2500億円)があてられている。お金が動くことによって地域の経済が喚起されるということはある。しかし、わずか4分で完売したという事例をみても「早い者勝ち」、その恩恵は一部の者へとの感は拭いきれない。それどころか「バナナのたたき売り」である。
  

  さて福島県である。県は4月20日、プレミアム付き宿泊券を6月1日に発売すると発表した。全国のコンビニエンスストアで購入できるほか、インターネットでも申し込みが可能である。販売される宿泊券は、額面1万円と6000円がありいずれも半額で購入できる。1回の宿泊で1人が1枚使える。利用できる宿泊施設は5月中旬に公表する。ネットの宿泊予約サイトに登録された施設に泊まる際は、宿泊代金に応じ1部屋3000~1万円の割引を受けられるクーポンを発行する。今、福島県内では大型観光宣伝「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」を展開中であり、6月末のDC終了後の反動減を防ぐため、割引の適用期間は来年2月末までとし、販売は3期に分けるとしている。「営業が上手」である。そして財源は、国の交付金を充てその総事業費は12億5000万円である。さらに、県は東京・日本橋など3カ所のアンテナショップで利用できる4割増商品券を1億5000万円分を発行する。福島空港を利用し、県内のホテルなどに泊まる旅行者4万人に空港内で使える3000円分の商品券を無料で配布する。これらも国からの交付金があてられる。

  最終的にはじかれるソロバンの金額はどのくらいなのか。その説明は県民の前には明らかになっていない。

  「そのような形での『税』の使われ方に、やはり考えてしまう」とするのは、私だけであろうか。

 

 

 


難病の母の介護・傷つきあいながらの12年間

2015-04-27 13:17:21 | 日記

  難病の母の介護・傷つきあいながらの12年間

 

  深夜放送の愛聴者の一人である。その私は、眠りにつく時間にかかわりなく必ずと言ってよいほど3時半頃に目を覚ます。私の体内時計はそのように組み込まれているのだろう。40余年にわたり労働者をやってきたことへの「ご褒美」である「毎日が日曜日」。何時寝ても、起きても良い。この日の早朝も4時ちょっと前に目が覚める。手元スイッチでラジオをON、エャーホーンを耳に差し込む。その時の番組が、「明日へのことば」(難病ALSの母の介護から学んだこと・2回シリーズ)日本ALS協会理事 川口有美子さんの1回目の放送であった。

  その日のアンカーは、川口さんを次のように紹介している。「川口さんが専業主婦だった1995年、実母が難病のALSを発症し、2007年に亡くなるまで12年間にわたって自宅で介護した。当時はまだ介護サービスが不足していて、疲れ果てた川口さんは、「ないなら自分で作るしかない」と、患者向けの事業所を設立。患者の意思伝達方法の研究を進める一方で、介護体験をつづった作品が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。番組では川口さんに、患者と家族の葛藤やコミュニケーション、尊厳死への考えなどをお話しいただきます」。

  介護の相手が誰であれ、12年間にわたる自宅での介護は並大抵のものではないだろう。言葉を語れない有美子さんの母親は、文字盤を手にして自分の意志を伝える。有美子さんはその文字盤を見ながら対応する。それこそ「ケンカ腰の」のやり取りが何回あったことかと。母親にしてみれば、思うようにいかない自分への苛立ちを文字盤に表す。娘である有美子さんにとっては、その苛立ちをやさしく包み込む余裕を失う。殺意を覚えたことがあったとも告白している。そうだと思う。よく介護問題を語るときに、識者はそれこそ物知り顔に「虐待」を取り上げる。また、これもかつての報道作品にあったが、老人施設での「身体拘束」がある。手を拘束しなければ体を掻きむしり、その傷が化膿する。あるいは排便をかき回してしまう。介護職員の数が圧倒的に不足をしている。ましてや深夜となればベットから這い出る人もいる。コールが鳴り響く。奇声はあちらこちらから発生する。日中より手がかかる。だが日中より介護者の数は少ない。このような状況が自宅介護の場合も同様となる。むしろ助けを呼ぶにも相手がいない。そこで拘束する代わりにベットの脇に添い寝となる。まず熟睡はできない。心身とも疲労困ぱいの状態に陥る。殺意を覚えたという有美子さんにとっては、「虐待とか身体拘束」といったことは「後出しジャンケン」のものであったろうと痛感し、報告を聞いていた。

  そして、その中で忘れられない報告を耳にする。そのような母親であっても時折落ち着くことがある。そのときは娘に感謝し、いたわりの言葉を文字盤に打つ。そして、「このような苦労をしないような世の中になってほしいと。最後に選挙が大事と打つ」。元気な時の母親は、地域の運動に熱心であり選挙を大事にしていた。そのことが蘇る瞬間を、まだ母親は持っていると有美子さんは報告する。それは4月23日・24日両日の番組であった。

  2日後は今年度後半の統一地方選挙日。全国軒並み40%の低投票率。「介護・医療・社会保障」はこれで良いのか。「難病老夫人」の声が天から聞いた想いとなった27日である。決して忘れることのできない重い「声」だった。

 


それでも集団的自衛権行使の関連法案を認めますか

2015-04-26 22:05:27 | 日記

「経済の安倍内閣」だということで、それでも支持しますか

   それでも集団的自衛権行使の関連法案を認めますか

 

  朝食を終え、新聞(中央紙・地方紙の二紙)を読み、それからパソコンを開く。メールの返信はないか、そしてブログ画面に移る。開設したのは2013年4月である。ズブの素人。知人に助けられての開設であった。当初は「何はともあれ発信続けることです」との知人の進言を受け「何を書こうか」と題材探しの毎日であったことを記憶している。だが最近は億劫さも出てきた。これも加齢のせいか。それでも書かなければならないとしたのが、今般の「安全保障法制」である。

  毎日新聞の「開かれた新聞委員会座談会・4.24)の記事の中で、「政府・与党内でさえ理解している人が少ない。ごく一部の人だけによる審議、検討となっている。安全保障問題は高度に専門化された領域で論議されている。日本の岐路にかかわるものと言われつつも、それが自分たちにどう影響するのか。それが見えにくく具体的になっていない。遠い話になっている。だから、国民的論議が必要と言っても、それが成り立たない」ということが述べられていた。それは十分にあり得る。例えば、「安保法制関連法は『戦争法』だ」との発言がある。社民党・福島瑞穂議員の発言である。これに対し安倍首相は「いたずらに国民の恐怖を煽る根拠のない発言だ」とし、自民党からは議事録からの削除を求められた。そこで「戦争法」であるということを、国民に訴える説明が充分になされているかと言えば「異なる意見を保障するのが議会制民主主義である。数の横暴」という反論にとどまっている。それでは、政府があらゆる場面で引用している「明白な危険」とはどういうものなのか。その危険が生じた時「何が起き、どのような状態になるのか、それによって国民の暮らしはどうなるのか。出動した武装自衛隊員の安全を守るということが可能なのか。戦死はないのか。そして現有勢力を維持するため徴兵制あり得ないか」。これらのシミュレーションに基づく具体的な論議があってこそ、はじめて、その法律の是非が国民的論議になると思が、どうだろう。

  しかし、あいも変わらず安倍首相は「鸚鵡の答弁」に終始している。そして野党もまた、政府を「立ち往生」させる場面をつくり切れない。このままの推移こそが、大変な危機状態であると考えたい。

  そこで、専門家ではない一市民として「中東・ホルムズ海峡での機雷掃海」を考えて見る。これは安倍首相がこだわる一つの事例である。武装紛争の結果、海峡は機雷によって封鎖される。日本の8割のタンカーが通過できない。日本は深刻なエネルギー危機に陥り、国の存立危機事態にあたるとして、集団的自衛権の行使が可能と言う。本来、機雷封鎖は国際的にも武力行使である。自分たちの戦いを有利にするための武力行使である。当然にして、設置した機雷を除去されることを黙認するはずはない。反撃してくるだろう。その場合、自衛隊は安全を優先して逃げるのか。そんなことはあり得ない。機雷掃海には鉄鋼の軍艦は使えない。木造船かプラスチック船となる。これでは相手の軍隊とは互角の戦いとなる。戦争はあらゆる手段を講じる。前線部隊を攻撃する場合は必ず背後を叩き、遮断する。その背後が日本国土と考えたらどうなる。原発が3基破壊されれば日本国土は決まりである。石油を得るどころの話しではない。また武力衝突である限り「死は当然」である。

 世界最強の武力を持つ米国も、僅か数人の手によってニューヨークが危機に直面した。いわゆる同時多発攻撃である。そしてイラク戦争へと拡大していった事実を忘れてはならない。戦争とは限りなく拡大する。戦争をするということは「何でもありき」ということである。かつての旧日本帝国はそれを実践した。

  「機雷掃海」という四文字は、私たちにそれだけの覚悟をせまるというものである。そして安倍首相はその覚悟を国民に求めるべきである。

  それでも国民は、経済の安倍内閣を支持し「集団的自衛権の行使」を認めますか。専門化する必要はない。市民の感覚で考えられるシミュレーションを描くべきである。その上に立っての具体的な会話が、隣組の中で、職場の中で、そして家族の中で取り交わしたいものである。

 

 


 「原発」ではない「核発」と呼ぼう

2015-04-21 16:13:07 | 日記

 「原発」ではない「核発」と呼ぼう

 

  4月19日の毎日新聞は、「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る」という特集記事を掲載している。その中で触れられているものの一つに「原子力発電」ではなく「核発電」と呼ぶべきとの提案がある。彼、村上春樹さんはカタルーニャ国際賞の受賞スピーチで、東日本大震災と福島第一原発事故に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきである」と述べている。そして住み慣れた土地から立ち退かされ、今もって戻ることのできない15万人は、「人間の魂が部分的に殺されたと同じである。経済効率の良し悪しで済まされるものではない。国家のあり方の根幹にかかわるものだ」と。そして地震も火山もないドイツは原発の撤廃を決めた。危険だからという理由で、原発が効率的でいいなどと言っているドイツ人は誰もいない。核は「核爆弾」を連想させ、原子力は「平和利用」を連想させる。今後は「核発電所」「核発」と呼んだらどうかと提案している。同感である。

  記憶をたどってみる。第二次世界大戦後の東西冷戦下にあって、核開発競争は核戦争の危険性が現実化していった。この危機感の中で、米大統領アイゼンハワーは国連総会においてこの危険性を訴えている。その演説は「まず核開発競争が激化している現状を憂慮した上で、アメリカに対し核攻撃がなされた場合には、速やかに報復が行われることになるがそのような事態になることを望まない。我が国は破壊ではなく、建設をしたいと願っている。国々の間の戦争ではなく、合意を願っている。自国が自由の下に、そして他の全ての国の人々が等しく生きることを選択する権利を享受して生きることを願っている」と。そして「アメリカ及びその同盟国は、ソ連との間で会談を持つ用意がある。アメリカ合衆国が追求するのは単なる軍事目的による核の削減や廃絶にとどまらない。軍事の覆いをはぎとり、平和の技術を適合させる方法を知る人々の手に渡されなければならない」。それが「原子力の平和利用である」とのメッセージを送った。

  そのことは日本においても例外ではなかった。1955年、左右に分裂をしていた社会党が統一、これに続く自由党、民主党が統一した。その両党によって「原子力の平和利用」が提唱された。いわゆる「原子力基本法」の制定である。これには当時の日本共産党も同調した。

     (1) 原子力の平和利用が保証されること

     (2) 原子炉の安全性が確保されること

     (3) 地元住民の納得の上で設置すること

  私たちは長いこと、この「平和利用」という幻影を身にまとってきた。その意味では、私たち国民の側にも大きな責任があるというものであろう。このことを明確にすべきである。その上に立って村上春樹さんが提言する「原子力発電ではない『核発電』である」ことを真摯に受け止めるべきである。それが現実になった時、今ある原発の存在は、人類にとって無用なものとなるだろう。

  「核と人類は共存」できない。いったん火が付いた「核の火」は、人知では消せないのである。

 明日22日の「薩摩川内原発(核発)」の司法判断に期待したい。明確な「再稼働ノー」を。そしてこの戦いは長く、厳しいものになるだろう。そのことも覚悟すべきである。「万国の民よ、核発電の全廃のために団結しよう」