徐せん・敷地内管理・仮置き場・中間貯蔵施設、そしてそこでの悩み、矛盾、課題

2014-03-29 00:19:56 | 日記

    徐せん・敷地内管理・仮置き場・中間貯蔵施設、そしてそこでの悩み、矛盾、課題

 

原発被害の修復(収束)にむけての取り組みの一つに「中間貯蔵施設」の建設がある。徐せんが叫ばれて久しい。しかし、その進捗は緩慢である。それには作業員の不足もある。住民の同意もなかなか進まない。原因はいろいろあるが、仮置き場が決まらないため、徐せん物は敷地内に埋設、あるいは地上管理となっている。その敷地内管理がいつまで続くかという危惧が大きな理由である。私の周囲でも徐せんを同意しなかった家は少なくはない。

仮置き場の候補地が見つかったとする。そこで近隣の住民の同意を必要とするが、自分たちの土地の()の徐せん物の持ち込みはやむを得ないとしても、他所からの持ち込みは反対だとなる。当然である。持ち出す側にとっては徐せんができてさっぱりする。しかし地元の住民にとっては「さっぱりした側は良くとも、俺らにとっては迷惑施設だ」となる。どうしてもというのであれば「迷惑施設を受け入れるための代償」を示せとなる。

現に、火葬場と集合墓地の建設を計画した市は、同地域に立派な運動場、野球場、公民館などの建設を約束し実現させている。

さて、中間貯蔵施設である。政府は、当初双葉郡3町(双葉町・大熊町・.楢葉町)に建設を予定した。その段階で楢葉町は受け入れを拒否、双葉・大熊2地区への建設を検討となった。しかし容積は増やさないが条件で゛ある。それでなくとも膨大な量である。しかも見当がつかないという。そこで「減容施設の充実」と「技術革新」となるのだがこれとて、その構想の先が見えない。

「最終処分場」の構想が決まらないことが危惧となり、地権者と行政は、賃貸契約(30年)と復興地域支援策の具体的な提示を政府に求めている。これに対し政府は、賃貸契約方式は取らない(買い上げ国有地とする)。復興地域支援策は住民との同意を求める協議の中で検討をしていく。ニユースで見る限り、以上が「中間貯蔵施設」をめぐる現状と受け止める。

次に買い上げ国有地化である。しかし住民は「先祖伝来の土地、手放せない」となる。さらに30年後には戻すことを念頭に置く、当然である。土地の賃貸契約は30年である。中間貯蔵施設も30年構想である。幸いにして30年後に地権者に返すとする。借り手(国)は「原状復帰」にするのが原則である。もともと畑であったところに家を建てた。原状復帰とは畑に戻すことである。しかし、中間貯蔵施設となれば、その解体と整地は簡単ではない。それでなくとも高線量の土地である。30年後の広大な土地の汚染状態はどう、いつの時点を現状とするのか。原発爆発前なのか、契約した時点なのか。また最終処分場は決まらないことも想定されなければならない。まず地権者一人一人の考え方には大変な温度差があるはずである。

さらに契約更新が可能か。その時点で契約当事者はどうなっているのか。地権者の存在は確認できるか、そして相続問題も絡むだろう。このように考えれば大変なことである。ニュースでは数行の言葉で表現されているが、実態はそのようなものではないことは明白である。

そして町が求めている支援策である。それは補償なのか。それとも帰還を可能にするための街づくりなのか。それが見えない。補償と街づくりはひとまず分離しなければならない。ここにも住民間の相違が生まれるだろう。

さて街づくりである。衣食住が充足される町にするとなる。では人口は、世帯数は、年代別は。これらによってその構想は異なるだろう。施策を求めている町は(行政は、住民は)そこを見定めなければならないのではなかろうか。仮に、高齢者が多い町(限界集落)とするなら別な問題が出てくる。

僅かな字数での提起である。ある意味では対岸から見る無責任な言葉と解されるかもしれない。しかし、対岸とは言え、原発被害は受けている。低線量に対する不安もあり、家族離散のリスクを背負う者も少なくはない。あえて批判を覚悟で述べたい。今は、一人一人の、これからの「生き方の選択」を考える時期ではなかろうか。「帰らない、帰れないとは口にできない」とか。「まず補償を。その補償によって新しい生き方を考える」とか。「どんなことがあっても戻る」とか。これらの言葉や選択を保障しあうことが必要であると考えるがどうだろう。

そして、もう一つの提案がある。これは以前にも書いたことであるが、双葉郡の一角の国有地に、双葉郡の共同公園墓地を、国・県・双葉郡町村の三位一体で建設してはどうかということである。そこに集約したらよい。そしてしっかりと慰霊をする。その墓地公園が、やがて双葉郡の皆さんの「絆の場」になれば良い。「春は花見・夏は花火・秋は芋煮会」。どんなに良いだろうかを付け加えたい。

 

 

 

 


 配偶者控除の見直しに、強い不満を持つ

2014-03-27 14:50:21 | 日記

  配偶者控除の見直しに、強い不満を持つ

 

女性の、とりわけ主婦の職場進出を拒むものとして「配偶者控除」がある。この制度を見直し(廃止・または縮小)すれば、女性の職場進出、とりわけ主婦であり母親である女性が働きにでるだろう。このような観点から、控除の見直し論が、政治の場で述べられて久しい。しかし、何時も、いつの間にか絶ち切れになっていった。

それは当然である。配偶者控除があるから、主婦が働くことに意欲を示さないと受け止めるのであれば、余りにも実態を知らなすぎるからである。

学校を卒業し就職をする。その就職もピンからキリまでである。そして結婚、妊娠。さてそこからが人生の闘いの選択が始まる。辞めずに働き続けるか、そのためには条件が必要である。育休があるのか、無いのか。とれるのか、取れないのか。保育所はあるのか、入れるのか。

それらの条件の中で「家族のあり方・生き方」の選択を余儀なくされる。苦渋の中で、退職をし、主婦、母親役を選択する。だが早晩、新たな選択が必要となる。家計のやりくりの中で将来を設計する。家を持ちたい。子どもの教育はどうするのか。晩年の生活設計も必要となる。好むと、好まざるとにかかわらず、収入を増やす道を探さなければならない。

そこに再度、保育の問題が浮かび上がる。近くに保育所はあるか。ベビーシッターは不安ではないか、活用できるのか。子どもの下校後の安心はどうか、学童保育はあるのか。「鍵っ子」で良いのかとなる。

しかし働かなければならない。

そこに、短時間勤務などの、パートが手っ取り早い職場となる。さて、その収入である。時間給○○円×実働時間。そこで年収103万円以下(月収8.5万円)であれば、夫は配偶者控除を受けられる。その職場に家族手当があれば受給の対称となる。妻の収入には税金はかからないが目安となる。

だが、欲を出して稼働時間を増やすとする。あるいは常勤の職場へと進んだとする。その結果、年収130万円を超えた。すると夫の配偶者控除は受けられない。税金が増える。妻には所得税、社会保険料、健康保険料が課せられる。

結果して、103万円も、150万円もさして変わらない。ならば103万円に甘んじる。このことをもって本人を責めることができるだろうか。

ところが、この実態に笑みを浮かべるのが企業である。「使い勝手の良い、低賃金の働き手」を得ることができるからである。

今回、「配偶者控除」の見直しを指示したのが安倍首相である。そのご本人も、場所を変えれば「母親は家で子供を育てるべき」と、日本の良き伝統である家族制度を説く。

しかし、夫の収入は増えない。一部大企業の賃金の上昇はあっても4月からの消費税増で帳消しである。ましてや全労働者の7割を占める中小企業の労働者の大半は「蚊帳の外」であろう。

その皆さんにも妻子がいる。夫の収入を補うパート労働者の妻がいる。

「配偶者控除」の見直し(38万円の有無)は大きい。結局は「税の徴収増」が目的となる。

消費税3%増を前にした駆け込み購入や大手企業の賃上げという流れの中で、国民には浮ついだ空気がある。しかし「配偶者控除」の見直しが及ぼす影響は、決して小さいものでないことを知るべきであろう。

さらに強調したいことがある。政治(政府)から、家族の生き方・己の生き方への「道」を示される謂れはない。

ましてや、税の徴収のあり方をもって、生き方の変更をせまられることには抵抗を持つし我慢できない。そのような若い夫婦者であってほしいと願う。

 


 沖縄「竹富町」だけの問題ではない。歴史は「教科書からはじまる」

2014-03-21 16:45:06 | 日記

   沖縄「竹富町」だけの問題ではない。歴史は「教科書からはじまる」

       

沖縄県の竹富町教育委員会が採択、採用した教科書をめぐり、政府が乗り出したということについては「物申さなければならない」。

義務教育の中で使用する教科書の選定と「教科書無料」とは次元のことなるものという論議は、お門違いだろうか。

義務教育の公立学校の教科書は、広域の地区協議会で採択する方式をとり、そこで選んだ教科書をその地域の学校が共通して使うということが、「教科書を無償供与」することの前提とすることに馴染まないものを感じる。

現に、民主党政権時代には別な教科書を採択したからと言って、それを無効にはできないとした経緯がある。しかし、交代した安倍政権は違法状態であるとして「竹富町に採択のやり直し」。つまり地区協議会の採択に従えと圧力をかけてきた。

そして、今年2月、複数の市町村で構成する「教科書共同採択地区内での協議の手続きを明確にした教科書無償措置法改正案を閣議決定し」、15年度の教科書採択で、単独の自治体教育委員会の自主判断で教科書を選定できないような法的縛りをかけてきた。

ここに、日本国憲法第26条に掲げる義務教育無償の理想をより一歩進めるためとして、義務教育諸学校の教科用図書の無償給与制度があると主張する論旨がある。

しかし、この憲法第26条について、わが国の裁判上の判例においては「本条は、子どもの教育は教育を施す者の支配的権能ではなく、子どもの学習する権利に対応し、その充足を図りうる立場にある者の責務に属することを定めるが、このような教育の内容・方法をだれがいかにして決定するかを直接一義的に定めるものではない」とする。憲法第26条2項との関連では、次のような最高裁判例がある。

「憲法の義務教育は無償とするとの規定は、国が義務教育を提供するにつき対価すなわち授業料を徴収しないことを意味し、このほかに教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものではない。」――昭和39年2月26日、最高裁大法廷判決――

教育行政に、政治的な外圧があってはならない。教育の国家統制が教科書の国家統制から始まったことは歴史が証明する。教科書の無償給付を証文に、国民が選択する権利まで渡すわけにはいかない。

「八重山地区では、使用教科書を検討する採択地区協議会が育鵬社版の採択を答申。石垣市と与那国町はそのまま受け入れ。竹富町は「手順がおかしく、答申にも法的拘束力はない」として、別の法律に基づく見解として東京書籍版の教科書を独自に採択。しかも、無償給付されないため、教科書を寄付金で購入し使用している。育鵬社版を使わない理由は、沖縄戦のときの八重山地区での集団自決に日本軍が関与したことを明記していない、沖縄の米軍基地負担にあまり触れていないなど。もともと、愛国心を強調し保守色が強いとされる育鵬社の教科書をめぐって各地で反発がある」。(琉球新聞3月15日)

無視することができない「教科書問題である」。

記憶を呼び起こそう。国民学校1年生の読本「サイタ サイタ サクラガサイタ」・「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。決して忘れることのできない歴史の1ページである。

 


自宅敷地内の徐せんにも悩む・各々の判断と選択を大事に

2014-03-17 13:37:56 | 日記

  自宅敷地内の徐せんにも悩む・各々の判断と選択を大事に 

 

低線量下で悩む「福島県の被ばく」ということをしばしば書いてきた。

そして3月14日のブログには、そのテーマを語るものとして「個人線量計」(積算線量計)を紹介し、その正確度や受け止め方について違いと、そこからくる悩みの実態を報告した。

また私が、線量計を装着して過ごした30日間の積算と、そこから推定する年間の外部被ばくは0.97ミリシーベルトであることも報告した。

さて、今回は自宅の除せんについて報告したい。

報道でも取り上げられているように、速やかな徐せんの実施が求められている。とりわけ低線量地区の一般住宅敷地内の除せんがある。しかし、除せんはするものの、その廃棄物を持ち込む「仮置き場」がない。決まらないということが進捗の停滞をもたらし、そこに作業者の確保ができなくなっていることが加わる。

それでも敷地内の徐せんは進められているが、その廃棄物は、その場所で保管する「敷地内地下埋設、あるいは地上保管」という形がとられている。これはすでに報告済み。

我が家も、今般徐せんを実施したが、次の対応をとってもらった。

  1. 敷地内の土は削らない。(5センチを削り、そこに山砂を盛る。徐せん土は敷地内管理)
  2. 庭の砂利は洗わない。(砂利を洗う。水と土砂を分離、土砂は敷地内管理)
  3. 側溝のマスの土砂は取り除き地上管理とする。(分離した土砂は敷地内管理)
  4. 雨どいはブラシや布紙でふき取る自治体の方針とする。

                       (注)( )内は自治体の徐せん方針。

廃棄物は極力出さずに、封じ込めるということで、敷地内を山砂で盛り土する方策をとった。このことの選択が正しいかどうかはわからない。しかし大量に発生する土砂を中心とした廃棄物の、長期にわたることが想定される地下埋設や地上保管(コンクリート容器)は避けたかった。

除せんの結果である、庭などの屋外は、除せん前0.6マイクロシーベルト〜0.4マイクロシーベルが0.4〜0.26まで下がる。(以下単位は省略する) 駐車場は0.3が0.18となる。

但し、屋内はさして変わらず、数値の変化はあるものの、以前に使用した計測器の違いや測定の位置などによるもと理解できる程度の範囲のものである。

ちなみに、部屋の中は0.16〜0.20の範囲に収まっている。一日のうち、ほとんどが屋内生活者である私たちにとっては、個人線量計による測定値(年間0.97ミリシーベルト)を証明と合致する実態である。

以前にも書いているが、この低線量に対する受け止め方について一致点を見出すことが困難になっている。また、徐せんを実施をしないとする方も少なくない。むしろ今後増えるかもしれない。となると地域の「面的除せん」の意味からも近隣間の不団結が生まれる。だからと言って実施を強要できるものではない。

今もって、仮置き場の設置の見通しが見えない。中間貯蔵施設においても、場合によっては他地区からの持ち込みは反対ということが条件となることも危惧する。

原発基地内の汚染水対策もままならない。それどころか放射能物質除去装置である「アルプス」の故障続き、さらには除去した水の処理方法も定まっていない。タンクが増えるばかりである。

福島県以外の皆さんには理解できない面の多いと思う。また関心も薄くなりつつあることも報告されている。しかし、いつまでも福島に目を向けて欲しいと願うものである。


低線量下で過ごすということについて

2014-03-14 10:27:47 | 日記

   低線量下で過ごすということについて

このテーマは、重く、悩ましく、そしてこの線量をめぐる意見の相違、それも対立、分断が顕著になっていることを恨む。

個人線量計というものがある。自分の身に装着して外部被ばく線量を測る「積算計」である。体のどこに着けるかであるが、成人者であれば胸の位置が、生殖器からの距離や口、鼻の位置を考慮し妥当であると言われている。だからと言って固定するものではない。手提げに入れてもよし、ズボンのポッケットでも測定の結果はさして変わらないと説明されている。

こんなことがある。忘れて箪笥の上においたり、窓辺においたりして高い数値が出てしまったとか、農家の皆さんであれば、畑や山に出かけるときは「高くなることを心配したり、無くしたりしないか」ということで自宅においていくということも聞く。このような面のある個人線量計だが、実生活の中で、具体的に線量管理ができるものとして早くから活用が求められていた。そして、ここにきて政府の方針も示され、18歳未満の対象から成人者の測定も奨励されるようになった。

福島県内の先進自治体による個人線量管理の結果は、その多くが年間1ミリシーベルト以内に収まるという報告が相次いでいる。例えば学童や屋内作業に従事するサラリーマンが過ごす居住環境(校庭も含め)は改善されている。むしろ自宅より線量の数値は低いというのも事実である。だから身に着けて具体的の計測できる個人線量計は低く出るのは当然となる。反面、子どもの場合は体が小さいため、成人に比べて高く出るとも言われているが、とりわけ子どもの異常は報告されていない。

だが、個人線量計に対する疑問がある。

例えば胸の位置に装着する。前方から入射する線量は正しく測定できても、背中の部分は少なめに評価する。よって、正確な測定とはならない、あるいは低く表示されるという意見である。

これに対し、そのことを勘案し、高めに表示される設計になっている。いずれにしても僅かな差であるとの論旨がある。

そして、ここにきて政府が、「個人線量計」による生活管理を採用したことに対し、さらに事態を難しくしている。つまり個人管理は「低い線量」となる。このデーターをもって、除染の省略、補償の切り下げ、切り捨て。そして帰還を強要するものとする意図が政府や東電にあるとする受け止めである。

これらすべてが、「放射能に対する知見」が定まらないところからくる矛盾である。

だが言えることは、具体的な生活の中でのあらゆる試みの積み重ねから、自分が判断することであり、選択を決意することである。私はそのことを選ぶ。

そこで私は、(2月8日から3月9日までの30日間)個人線量計を装着した。毎日の測定値と屋外で過ごした時間とその場所(私の場合、外出は概ね市内平均2時間程度。うち東京・盛岡に計4日)を記入。その結果の積算線量は0.080ミリシーベルトであった。この数値をもって1年間の被ばく線量を推定すると0.97ミリシーベルト(自然界線量0.35を含む)であった。

それらを含めて、この結果をどう見るかがある。

私は、0.97ミリシーベルトの世界で生活をしていく事を選択する。1ミリ以内であったとしても、これを超えることは十分あり得る。それで良い。

さらに、付け加えたい。個人線量計を「日常の友」として装着し、様々なレベルの場所で、さまざまな日常生活の中での、本人の被ばく線量を知り、生活を管理する手段として用いることが、「恐れないで、知ることからの安全を得る」。そのことが「知恵であり、経験であり、そのことを言葉にする」ことではなかろうかと。

だが、どうしても残る。悩ましいことであるが「知見が定まらず、相違が生まれる」事例の一つである。