「瞬間的痴呆」・歩き回らない、助けを求めることはできないか

2014-08-31 19:33:58 | 日記

    「瞬間的痴呆」・歩き回らない、助けを求めることはできないか

 

 車の無い生活が16日間続く。いん石と「ケンカ」をして前輪タイヤ一本を破損、その衝撃で「軸」がずれたということで修理に出している結果である。

 クリニックへの通院も、買い物も歩きである。いずれは免許証を返上する。その「予行演習」と思いつつも不便なものである。

 買い物の帰り道である。通りすがりの老夫婦の声を耳にする。「多分この道だったと思うが」と男性、それに対して女性は不安な面持ち。そんな光景に、私は「どこへ行かれるのですか」と声をかけた。一瞬、認知症による徘徊を感じたからである。しかし、目的地をはっきり述べる男性の口調に安心しその道順を教えた。「老夫婦」は何度もお礼をいって立ち去った。老夫婦といったものの、よそ目から見ればそういう私とて、さして変わらないだろう老人の一人であることには間違いない。

 そんなこともあってか、昨夜の夢を思い出している。夢であるから前後はわからない。かなり長いようでもあったが、ほんの一コマの短いものであったかも知れない。覚えているのは「家を出た私が、不意に行き先を見失う。そしてそのまま歩き続けている。あたりの風景には覚えがない。不安になるが歩みを止めない」

 そんな夢だったと思うが、これとて目覚めた私の、自分なりの物語なのかも知れない。

 そこで、この間のニュースになった「高齢者の徘徊、行方不明」などを考える。

 知人のことを思い出す。「近くの郵便局に出かけた。しかし、途中で方角が急にわからなくなったという。郵便局に行こうとしたことは記憶にある。ならば誰でも良いから、近くの人に方角を聞けばよいのだが、それをしない。何故だったのだろう」。幸い正気を取り戻したが、郵便局に行くのが怖くなりそのまま家に戻ったという。そんなに歩いたと思えないのだが、違う方向にむかって、かなり歩いていた自分に気づいたという。夢の中での「私は、不安になるが歩みを止めない」と共通するものを感じる。

 またある人の話である。銀行のATMの前に立ったが、突然どうするのかがわかなくなった。後ろには人が立っている。うろうろしてしまいそのまま家に戻ったという話もある。

 次のような表現があるのか、どうかはわからないが、これを「瞬間的痴呆」というのだろうか。

 一年前の旅行での旅館の献立は覚えているが、昨日の献立がどうしても出てこない。

 さて、夢の話に戻る。目覚めて考えた。戦時中ではないが、名札を衣服に縫い付けるわけにはいかないまでも、営業マンのように、首にぶらさげておく習慣も必要ではないかと思った。

 「瞬間痴呆」が起きたら、まず身近な人に名札を差出して助けを求める。声を発しなくとも動作で理解してくれるだろう。そして歩き回らないで立ち止まること。意識を失うわけではないから、そのようなことはできるような気がする。

 そんなことを考えて起きだした朝であった。私も、間違いなく、そのようなことを意識しなければならない年齢になっているということか。寂しいがそれも現実である。

 

 


またまたわからないものがある・県内の指定最終処分施設

2014-08-30 15:50:12 | 日記

    またまたわからないものがある・県内の指定最終処分施設

 

 昨日は、「わからない中間貯蔵施設」というテーマを取り上げたが、もう一つわからないものがある。それは「指定最終処分施設」と称するものである。最終と言っているのであるから、文字通り最終処分施設である。

 当初、中間貯蔵施設は3ケ所という構想があった。双葉・大熊・富岡の3地区に建設するというものであったが、双葉・大熊の2ケ所となり今日に至っている。

 さてこの富岡町であるが、ここには通常の産業廃棄物処理施設である「フクシマ・エコテッククリーンセンター」という民間の処理施設がある。今回、そのセンターを「8000〜10万ベクレル/㎏以下」の瓦礫・焼却灰・下水汚泥などの廃棄物を「埋め立て処分」する施設に転用するというものである。搬入する物量は10万トンと想定している。

 昨日も書いたが、2ケ所の中間貯蔵施設には、完全遮蔽を必要とする10万ベクレル以上のものから、一般廃棄物として処理できる8000ベクレル以下のものまで搬入するとなっている。つまり「雑居廃棄物ビル」である。

 ところが、富岡の「指定処分施設」には8000〜10万ベクレル以下のものと指定している。その廃棄物の仕分けは、誰が、どこで、どのようにして行うのかは明確にされていない。

 つまり「交通整理」をする統一機関の説明が無いのである。

 さらに、30年間「中間貯蔵施設」で管理してきた10万ベクレル以下の廃棄物は県内処分というのが国の方針である。あらたにつくるのか、それともエコテックセンターに運び込むのか。いかに「減容」しようとも、収用能力をはるかに超えるものとなるだろう。

 このわかりきっていることに対し、何らの説明も無い。そして、私の知る範囲ではこのことの追及もない。

 いつものことであるが「知らなかった、隠していた」と。しかし、この処分施設の件に関しては「知らなかった、隠していた」という批判は当たらない。自らを批判することになる。

 これから先、県内各地から送り込まれる廃棄物と、その運搬トラックのラッシュは6号線を中心に続く。その期間は2年とも言われているがどうだろう。そして数十年後のある日、またもや、双葉・大熊の中間貯蔵施設から県外へ。(県外施設が実現した場合のことだが)あるいは、富岡町のエコテックセンターへとトラックのラッシュは再開する。

 「絵に描けば」このようになる。それはキャンパスの上であり、住民の生活基盤の上で果たして成り立つのだろうか。どう考えても、私の知識、経験からは答えは出てこない。

 さて、昨日は「何も他県に移す必要もないだろう。そのまま中間貯蔵施設においたら良い」さらに、「またしても膨大な費用を掛けてまで」と書いた。

 これに対し、先祖代々の土地、そこが故郷、生活基盤の町、そこがなくなることは耐えられないとの立場からは、部外者が何をいうのかとの怒りの声は聞こえてくることは承知する。

 しかし、この説明が成り立たない方針に対し、先の混乱を考えれば、今そこまで考えを巡らす必要があると思うのだが、どうだろうか。


わからなくなってきた「中間貯蔵施設」

2014-08-29 14:19:49 | 日記

    わからなくなってきた「中間貯蔵施設」

 福島県内から出る除染廃棄物は、中間貯蔵施設に減量して搬入する。30年を目安に保管され県外の最終処分施設に移される。搬入量は東京ドーム23杯分と想定しているために減量しなければならない。

 文言で書けばこのようになる。そこで、この予定施設に土地を持つ地権者は、県外に移すと言っているがその保障はないとなる。その意味では地権者は正直である。自分のところで嫌なものを、どうして他県の住民が了承するのかと考える。だから他県に移すことは考えられないとなる。しかし「先祖伝来の土地である。帰る土地をなくしたくない。よって最終処分施設にしないという担保が欲しい」となり、政府は「30年には他県に移す」という法律をつくることを提示した。

 法律があっても、持っていく先が決まらないのであれば移しようがないのではないかという質問に対し、「30年経てば放射能物質の半減効果もあり線量は削減する。他県の皆さんにも理解をしてもらえる状態になるのでは」と回答する。(井上環境副大臣フジテレビ・プライムニュース8月15日

 回答の通り他県の住民の理解が得られるとするなら、何も他県に移す必要もないだろう。そのまま中間貯蔵施設においたら良い。その代り「移すことを前提とした施設ではなく、完全遮蔽型の最終処分施設の設計をしたらよいのではないか」との意見が出ても不思議ではない。

 あらたに建設するとすれば、工事費、補償金、運搬費など膨大な費用を必要とするだろう。

 さらに次の材料を提供したい。「中間貯蔵施設配置図」というものがある。施設内には事務棟をはじめ、減量施設、線量管理施設などが配置され、廃棄物管理施設は次の3分類となっている。

    土壌貯蔵施設Ⅰ型・・・・・・8000ベクレル/㎏以下の廃棄物・・・・・管理型

    土壌施設貯蔵Ⅱ型・・・・・・8000ベクレル/㎏以上の廃棄物・・・・・管理型

    遮断型・・・・・・・・・・・・・・10万ベクレル/㎏以上の廃棄物 ・・・・・・・遮蔽型

 土壌貯蔵施設Ⅰ型の8000ベクレルは、有害ではない一般廃棄物として処理してよいものである。それをどうしてはるばる双葉・大熊まで運んできたのか。答えは簡単である。「地域の除染廃棄物は、すべてそのまま仮置き場へ、または敷地内に保管している。それらを全て運び出して中間貯蔵施設」に搬入するからである。

 「30年法律」は、中間貯蔵施設に搬入した廃棄物を「県外の最終処分施設」に移すとしている。そこにさらなる矛盾が露呈することになる。

        続きは次に。


軍事技術発掘へ、「防衛省が基金設立を」・これって何を意味するの

2014-08-20 12:43:41 | 日記

   軍事技術発掘へ、「防衛省が基金設立を」・これって何を意味するの

        ロボット技術・軍事転用懸念。懸賞2億円

 

  「軍・産・学共同」という言葉はしばしば登場する。軍の装備の開発を、産業会、研究機関(大学)、そして軍(防衛省)が共同して進めようというものである。

  戦争は、その前線を支えるために「銃後の生産拡大」が必要であり、それなくしては戦いを維持できない。かつて日露戦争において、武器の近代化に大きく遅れをとっていたことを知った政府は「内閣軍需局」(1918年4月)を設置した。また、第一次世界大戦では、航空機、戦車、科学兵器といった新兵器の登場の中では、従来の研究開発体制では対応ができないと判断した軍部は、陸・海・空それぞれに、技術研究廠を設け動員体制を整える。そこに軍が指定する「特定メーカー」が大きな役割を果たすことになる。いわゆる「軍需産業集団」と「死の商人」の誕生である。

  さらには、急拡大していく試験研究機関として、特定の大学、科学者、研究所を抱え込む動員体制が必要となった。そして1941年5月27日に「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定されている。ここに、当時の四字熟語を代表するものとして「科学技術」という言葉が生まれる。

  そして、この時期「ゼロ式戦闘機第一号」が飛び立った。戦艦大和の構想が完成し建造に走り出している。

  戦後、これらの反省から「軍(官)・産・学共同」という言葉さえも鳴りを潜めていたが、それを突き破ったのが、「夢、平和」をスローガンとする宇宙開発であり、宇宙ケットをはじめとした研究開発の促進であった。そして、巨額な国の予算が投じられていく事になる。このことは見過ごすことはできない。

  そして今や、防衛省が最新の軍事開発を発掘するためと称して、基金制度を創設する方針を固めたという。8月17日(毎日新聞)

  さらに、防衛省は、戦闘機などの国際共同開発に参加する新たな防衛産業の維持・育成戦略を決定した。そして、その具体的な一つとして、日本企業が共同生産に参加しているF35戦闘機に関し、その部品などを導入国に供給するなど「後方支援面での貢献を拡大する」ことを明確にしている。安倍政権は、武器輸出三原則を転換し、「防衛装備移転三原則」と政策の変更を強行したが、明らかに「武器及び関連技術」の輸出であることは間違いない。加えて大学や研究機関との連携強化を進めると言っている。

  米国防総省は来年6月にロボットコンテストを開催する。日本の経産省は国内の大学に参加を呼び掛けている。米国防総省は「ロボット技術の災害現場応用」と述べているが、軍事転用の可能性の示唆も明確にしている。

  日本においても、原発収束作業にあたっては、ロボットの開発は欠かせない。その技術開発には熱が入っているし、関心も強い。

  しかし、「科学技術の軍事用・民生用」についての論議は、長く続けられているが結論の出る問題ではない。「もろ刃の剣」の性格を持っている。包丁をまな板の上で使えば調理の道具になる。しかし、その刃を人にむければ殺人の武器となる。要は「誰が、何を目的として、どのような時に、その剣を持つかである」

  いみじくも、記事の中に「二足ロボット」の写真が載っていた。すでに開発の途上にあるとされている「二足の殺人ロボット」を仮想する。高線量の現場では極めて有力な働きをしてくれるだろう。しかし、「自動ライフル銃」をもって敵にむかうという場面にあっても有力な力を発揮する。

  優勝懸賞金は2億円という。

  さて、これらの報道を、そして企画をどうとらえるか。確かな知恵が必要な具体例として受け止めたい。最高学府の良識はどうだろう。


首相あいさつ文言の吟味は、そこだけだったのですか・原爆記念集会あいさつを問う

2014-08-14 14:52:33 | 日記

   首相あいさつ文言の吟味は、そこだけだったのですか・原爆記念集会あいさつを問う

      

  今年も8月15日がやってくる。戦後69年。あの忌まわしい時代の記憶が薄らぎつつあったところに、安倍内閣の「安全保障閣議決定」が火をつけてくれたと考えたい。問題は、その「火」をより強く、そしてより大きくできるか、どうかが、戦争を知り、戦後の混乱を体験してきた私たちの年代の証にかかっていると言っても過言ではないだろう。

  その意味で、再度、原爆記念集会における安倍首相の発言を取り上げたい。

  マスコミも含め、私の知る範囲においては、もっぱら昨年の、コピー言い回しに失望と不満。そして、国の代表たる首相の国語力の無さなどとの批判を耳にする。もちろんそれもあるだろう。しかし、首相はそれを「百も承知のこと」であるとの指摘を昨日のブログに書いた。

 そこで、本日14日の毎日新聞の記事を見る。そこには、私も引用をした、同紙のコラム「水説」に対する反論を、首相自身が自らのフェースブックに掲載したとある。その内容は、昨年の表現である「被爆国民」を今年は「被爆国」と改めた理由をもっての反論である。つまり「被爆したのは日本人だけではない」という指摘があり、なるほどと考え、今年は「被爆国」と改めたというのである。

 もちろん、在日朝鮮人も含め多くの外国人が亡くなっている。またその後遺症に苦しんでいる。そのことをもって「だから日本人だけではない」として、国民を「国」と表現したということが説明になるのだろうか。むしろ、日本人以外の国民の犠牲を弔うとするなら、なぜ、外国籍の国民が被爆地に存在していたのか。その後のフォローから始まり、十分なる被爆補償にこそ声を発すべきであろう。

 また、いわゆるこの「省略行為」である。そこまで1年前の「言葉」が吟味されたとするなら、「一字一句」同じ文章からはじまる、あいさつ文になぜ吟味の筆が加わらなかったかが不思議でならない。ワープロには「コピー、貼り付け」という便利な操作がある。その便利さを優先させてしまったのか。そんなはずはないだろう。スタッフはバカではない。「先刻百も承知」。むしろ「国民」を「国」としたところに意図的なものがあったと考えるのが至当である。

 「国を守る」という主語のない言葉を土に埋めた。その「種」には、どのような花か、どのような実か。いつ咲くのか、いつなるのかの説明がない。

  再度、憲法改正自民党草案を取り上げる。草案には「第9章・緊急事態」という章が提起されている。2条8項にわたる長文ものである。これは現行法には無い。「内閣総理大臣は、我が国の緊急事態に対し宣言を発することができる」とある。つまり「国体の護持」である。主語の無い種が為政者の思うような花を咲かせ、実をならす。

  首相は、今後もあらゆる場での主語のない「国体」の言葉が繰り返すだろう。

 私たちは恐ろしい「政治体制」を生み出した。とするなら福島県知事選をはじめ、来年の統一地方選挙に「反撃の矢」を放たなければならない。今から準備しよう。