「瞬間的痴呆」・歩き回らない、助けを求めることはできないか
車の無い生活が16日間続く。いん石と「ケンカ」をして前輪タイヤ一本を破損、その衝撃で「軸」がずれたということで修理に出している結果である。
クリニックへの通院も、買い物も歩きである。いずれは免許証を返上する。その「予行演習」と思いつつも不便なものである。
買い物の帰り道である。通りすがりの老夫婦の声を耳にする。「多分この道だったと思うが」と男性、それに対して女性は不安な面持ち。そんな光景に、私は「どこへ行かれるのですか」と声をかけた。一瞬、認知症による徘徊を感じたからである。しかし、目的地をはっきり述べる男性の口調に安心しその道順を教えた。「老夫婦」は何度もお礼をいって立ち去った。老夫婦といったものの、よそ目から見ればそういう私とて、さして変わらないだろう老人の一人であることには間違いない。
そんなこともあってか、昨夜の夢を思い出している。夢であるから前後はわからない。かなり長いようでもあったが、ほんの一コマの短いものであったかも知れない。覚えているのは「家を出た私が、不意に行き先を見失う。そしてそのまま歩き続けている。あたりの風景には覚えがない。不安になるが歩みを止めない」
そんな夢だったと思うが、これとて目覚めた私の、自分なりの物語なのかも知れない。
そこで、この間のニュースになった「高齢者の徘徊、行方不明」などを考える。
知人のことを思い出す。「近くの郵便局に出かけた。しかし、途中で方角が急にわからなくなったという。郵便局に行こうとしたことは記憶にある。ならば誰でも良いから、近くの人に方角を聞けばよいのだが、それをしない。何故だったのだろう」。幸い正気を取り戻したが、郵便局に行くのが怖くなりそのまま家に戻ったという。そんなに歩いたと思えないのだが、違う方向にむかって、かなり歩いていた自分に気づいたという。夢の中での「私は、不安になるが歩みを止めない」と共通するものを感じる。
またある人の話である。銀行のATMの前に立ったが、突然どうするのかがわかなくなった。後ろには人が立っている。うろうろしてしまいそのまま家に戻ったという話もある。
次のような表現があるのか、どうかはわからないが、これを「瞬間的痴呆」というのだろうか。
一年前の旅行での旅館の献立は覚えているが、昨日の献立がどうしても出てこない。
さて、夢の話に戻る。目覚めて考えた。戦時中ではないが、名札を衣服に縫い付けるわけにはいかないまでも、営業マンのように、首にぶらさげておく習慣も必要ではないかと思った。
「瞬間痴呆」が起きたら、まず身近な人に名札を差出して助けを求める。声を発しなくとも動作で理解してくれるだろう。そして歩き回らないで立ち止まること。意識を失うわけではないから、そのようなことはできるような気がする。
そんなことを考えて起きだした朝であった。私も、間違いなく、そのようなことを意識しなければならない年齢になっているということか。寂しいがそれも現実である。