熊本・大分を思い、5年前の福島を顧みる

2016-04-29 09:07:49 | 日記

  熊本・大分を思い、5年前の福島を顧みる

 

   熊本地震も昨日(28日)で2週間を経過した。「避難・終わり見えぬ7割」(毎日新聞4月28日)の見出しも含め、マスコミは一斉に被災者の厳しい実態を報じている。そうだと思う。今もって被災者を襲うのが余震の連続である。それがいかに小さいものであれ、我が身に感じるのは「また、大揺れが来るのではないか」という不安と恐怖である。このことは5年前に経験をした福島県民の一人として痛いほど感じ取ることができる。しかし、その余震が福島を襲ったものとは比較にならないほどの大きく、そして長期にわたる現実は、福島のそれとは雲泥の差があることも事実である。

 あらためて被災日から2週間目の福島県郡山の実態がどうであったのかを紹介したいと思い、当時の日記を掲載することにした。日記と言ったが、実は3.11の3日目から他県の友や知人に郡山の実態を知らせたく送信を続けたメールの1ページである。放射能の実害という面は無いにしても、被害者の悩み、不安は共通であることを述べたく貼り付けることにした。

  3・25 店頭から野菜が無くなりました。

 第一報の時に書いたかと思いますが「死者2万5000名は超えるだろう」と。この予測は当たるどころか、大幅に超えることが考えられる状況になっております。加えて「津波でまぬがれた命が、今、避難先で絶つ」ということも連続して発生しています。そして原発の被爆です。本日の朝日新聞に掲載されていますが(私は朝日を取っていないのでネットで調べました)、それは、南相馬市(屋内退避圏)では生活ができなくなっているという実情です。当然です。外から生活物資が入らないのですから生活できません。方針を出した以上、その実情を検証すべきと、以前にも書きましたが改めて痛感しています。

 そして牛乳・野菜の汚染問題です。補償の問題などそれは先のことです。今、私たちが手に入れたいのは水、野菜、油です。郡山でも水の買い占めがはじまりました。店頭にはボトルがありません。市民の感情からすれば、行政がいかに説明しても店頭を走りまわります。そして在庫があるとなれば行列をつくりますし「裏口価格」も生まれます。

 そこで、今後はますます「西の産地」からの輸送を期待します。

 輸送ルートは北陸道となるのでしょう。首都圏は大量消費地です。持っていけば苦労少なく、大量にはぶける消費地です。業者は大量買い付けを行います。そこに業者の輸送ルートは首都圏へと変更します。関越道です。多分この指摘は当たっていると思います。

 津波の被害は、東北の太平洋ベルト地帯がもろに受けました。北からも、南からも物資は入ってこないのです。とりわけ原発破壊の福島県は「陸の孤島」と言っても過言ではありません。

 絶対に「首都圏まわし」だけはどうかやめて欲しい。政府は、検証と監視と統制を強めて欲しい。

 その中で、一つの明るいニュースが入りました。それは、3月26日に磐越西線(JR・新潟〜郡山線)が全線開通となります。よって新潟経由での貨物輸送が始まります。これは油の供給に結びつきます。

 「26日に郡山駅に到着、即、市内配送実現」と新聞は報じています。嬉しいの一言です。

 

 


保育所は「迷惑施設」なのか。ますます拡大する世代間意識のズレ

2016-04-26 11:11:55 | 日記

保育所は「迷惑施設」なのか。ますます拡大する世代間意識のズレ

 

  「保育所落ちた・日本死ね」の発信が全国に広がり、その行動が政府の保育所行政を大きく変えたことは事実である。その中で発生している「保育所建設反対の住民運動」をどのように考えるか。しかも建設反対を表明している層の多くが高齢者であるとするところから、その一人としての発言があっても良いと考えた次第である。

 まず「東京都品川区池田山」の高級住宅街に建設計画を例として取りあげる。報道によると「約300坪の土地に3階建てを着工、2015年度に定員90人の保育園を開設される予定であった。計画していたのは、全国に約20の保育園を運営している兵庫県の社会福祉法人『夢工房』である」。

 保育所建設に反対する住民の方の意見は「なぜ保育所が計画されるのか。民間といえども、運営費のほとんどが私達の税金でまかなわれている『認可保育所』である。このような高額な不動産への投資はおかしい」。そして「閑静な住宅地への計画は福祉バブルか? 税金の無駄づかいによる箱もの行政である。池田山環境協定を無視した乱暴な建築計画であり、交通事故、夜間の騒音など市民の生活を混乱させる恐れがある」と報じられている。(出典・池田山住環境協議会による)そして、「夢工房」は開設計画を取り下げた。

 待機児童問題の解決のため保育所の整備が急がれるなかで、近隣からのトラブルは増え、建設あるいは開園が中止になっているケースが続いていると報じられている。「高級住宅街を狙った福祉法人の投資」と「そのために税金が使われることは許せない」とす理由を「福祉バブル」と見る意図を真っ向から否定するものではないが、多少行き過ぎと思うがどうだろう。

 そして騒音(子どもの声)を嫌う、あるいは子どもの送迎をめぐる車両事故の問題がある。練馬区の認可保育所をめぐって「平穏に生活する権利を侵害された」として住民が事業者を提訴したケースにもあるようにこれは共通する課題である。そこに退職して静かに暮らしたいとする世代の権利意識と、子育てに悩む世代の権利意識が真っ向からぶつかる形にもなっているようにも思われる。それが「子どもへのわずらわしさ」を強く感じる高齢者の意識を生み、「私たちの子育てを理解しない」として子育ての先輩でもある高齢者に対する忌避意識の増大が生まれる。

 我が家から300m離れているところに小学校がある。秋になると運動会を前にして「プラスバンド」の練習が校庭で行われる。その音が西風に乗ってくる。私には子どもの歓声も交じり、その音が快く聞こえるし気持ちが和む。しかし、それが騒音であるとの申し入れが行われ校庭での練習は中止された。「お年の割には耳が良いですね」という嫌味の一つも言いたくなる申し入れである。

 また墓地公園が計画された。これに対し「迷惑施設」であるとする声が上がった。市は近隣の住民の同意を得るために、公民館の改築や建設、グラントの設置、そして道路の整備拡充などの「住民サービス」を示すことによりようやく同意を得ることができた。

 また、病院で亡くなられた遺体を自宅に戻すことを「忌み嫌う」風潮がある。とりわけ若い皆さんにそのことが多いとも聞く。

 保育所も、校庭からの声も、墓地公園も、そして遺体で自宅に戻ることも迷惑なのか。この世代間の意識のズレがますます広がる。余り先の無い私にとってはどうでも良いことと思うのだが、しかし、それだ良いのかとする「意識の格闘」が心に生まれる課題の一つでもある。

 


「まる子の日記」・私の姓はオスプレイ、名は「まる子」

2016-04-20 08:57:22 | 日記

「まる子の日記」・私の姓はオスプレィ、名は「まる子」

 私の姓はオスプレイ、名は「まる子」。住所は沖縄県普天間飛行場です。しかし、いつでもそこにいるとは限りません。最近は岩国というところにも出かけています。そして日本の上空を限りなく広く飛びたいと思っています。しかし、「やれ騒音だ、危険だ」と嫌がられています。その理由の一つには私が「未亡人」であること、そして、私が自由に日本の空を飛び回ることは嫌いだと思われているからです。そうだと思います。自分の庭に、他人が自由に入ることを歓迎する人はいないでしょう。

 今回、九州の大きな地震で困っている皆さんに物資を運ぶことになりました。でも私の身体が大きくて、そして助走のためには広い空き地が必要なのです。他のお友達のように「狭いところから、すっと上がる」ことができないのです。しかし、力があるから荷物を沢山持つことができます。それだけに大きな音をたてます。そして大きな風を巻き起こします。そうそう昨年の5月でした。私はネパールに行きました。その時も地震災害の援助物資を持っての旅たちでした。しかし、山岳地帯であるため、私が降りるための広い空き地がありませんでした。さらに私が出す「ものすごい風」が家屋を吹き飛ばしかねません。現地からお断りを受けました。結局は役に立つことができませんでした。どうしてそんなところに私を行かせたのでしょうか。私は思いました。未亡人である私をお嫁にやりたくて、あちらの方に顔を見てもらおうとしたのだと。

 そして今度は九州の熊本に行くことになりました。行く先は熊本県南阿蘇村です。お友達と二人で行きます。結縄から直接ではなく広島県の岩国市へ立ち寄り、それから熊本県内の陸上自衛隊の基地へ。そこで物資をあずかり南阿蘇村という被災地に行きました。そこでも風が面倒を起こします。親切にも私が降りるところに、自衛隊の皆さんが散水し砂ほこりが舞い上がるのを阻止してくれました。多分大量の水が必要だったと思います。そして私たちが届けたのは水、食料、毛布などの救援物資で20トンでした。

 私は思いました。何故、私でなければならなかったのか。今回も「私の嫁入」の顔見せだったのでしょうか。広島から熊本へは200キロメート。この迂回コースはどうしてなのでしょうか。私の住所、沖縄では援助物資が積めこめなかったのでしょうか。私の大きな身体を使わなくても良かったはずです。日本には素晴らしい垂直上昇機(ヘリコプター)が沢山いらっしゃいます、そして熊本県には港(八代市)があります。そこに大型輸送船を寄港させればその甲板から運び出すこともできるでしょう。そうそう「大型客船」を停泊させ「病院船」として使うことも可能でしょう。そこに避難地の病弱者や高齢者を収容することもできます。八代市と熊本市は一般道路で1時間半の距離と聞きます。空輸ならあっという間の距離ではないでしょうか。

 私はもう「嫁入り先」は望みません。後で知ったことですが、輸送機が北海道や神奈川県から熊本の空港に飛んだということです。当然そこからの空輸は通常ヘリコプターで充分でしょう。

 これで、私・「まる子の日記」をお終いといたします。

 

 


「暗闇の生活、その脇で豪華な生活」、企業の倫理的・社会的責任は問われないのか

2016-04-19 11:28:38 | 日記

 「暗闇の生活、その脇で豪華な生活」、企業の倫理的・社会的責任は問われないのか

   A様、この間「春と冬」が入れ替わりやってきます。私のところでも5日前でしたか小雪が舞いました。とは言え不思議なことではありません。かつて小学校の入学式、そして桜が咲いたところに10センチの積雪があったことを記憶しています。

  「最近の気候」は異常だと言われていますし、私もそう思います。このことに対し、かつても4月に積雪があったではないかという例示を持ち出し、その異常性を否定することが科学的であるか、無いのか。この問いが熊本大地震と川内原発の停止問題に通じるものがあるのでは無いかと考えてメールを差し上げます。

 【「近代観測が始まって以降は思い浮かばない地震」それでは原発は大丈夫か】というタイトルでブログを書きました。(4月18日)

 福島の場合は大揺れによる被害よりは「原発事故」によるものでした。当時は、放射能の被害に対する確固たる知識もなく、現にシーベルトとかベクレルなどの言葉さえも知らなかったというのが実態でした。しかし、3月11日以降続く余震の中で、さらに原発が爆発するのではないかという不安と危惧にさいなまれたのは事実でした。熊本の場合はどうでしょう。「本震」と思ったのが実は「前震」であったということ、そして本震以降「分単位で揺れる余震」しかも本震に近い「大揺れ」が襲う。さらに「今後一週間は震度6以上の余震がある」などの気象庁の発表を聞くにつけ、余震に対する不安と恐怖は福島のそれとは格段に違うものがあると想像いたします。

 熊本地区の皆さん、そして九州県民の多くの皆さんの想いは、次のような譬えに表現できるのではないでしょうか。「暗闇の中で逃げ場を求め、夜間の暖を求め、水を求め、そして食を求める人々がいる。その脇で、赤々と照らされた部屋で豪華な献立を前にして食事をしている人々がいる。そしてその人々は言う『暗闇にいる皆さんからとやかく言われる筋合いは無い、私たちがこの食事をやめたからと言って貴方たちの暗闇をなくすことにはならないだろう。またこの席を否定されるいわれもない』」と。

 「川内原発を止めよ」という要求に対し、電力会社も、政府もその必要はないと答えています。そして田中規制委員長に至っては「(我々は)想定内で判断している。想定外と言ってはいけないと肝に銘じて我々も規制している」と。さらに「どういう状況が起こっても今の川内原発で想定外の事故が起きるとは判断していない」と付け加えたと報じています。まさに「安全神話の復活」です。そこで私が述べたいことは、それ以上に「企業の倫理的・社会的責任」です。「場合によっては自分あり方を変える」という倫理観と社会性が企業にはあると主張したいのです。一時的ではあれ稼働を止めることは大きなリスクをもたらすでしょう。しかし、そのリスクをもってしても受け入れなればならないとする「企業の社会的責任」があるのではないでしょうか。「暗闇の生活、そんなこと関係ないよ。批判があろうが貴方たちには電力を必要とするのでしょう」という傲慢な態度にあるとするなら、そこには「倫理観も社会的責任」も失った企業の存在だけということです。そのことが近代的社会において許されることでしょうか。そんなことを述べたくてメールを差し上げました。ご意見が頂きたく思います。

 


「近代観測が始まって以降は思い浮かばない地震」・では原発は大丈夫か

2016-04-17 08:24:26 | 日記

 「近代観測が始まって以降は思い浮かばない地震」・では原発は大丈夫か

 私たち福島の人間は2011・3.11の大震災を経験している。東北3県の場合は大津波のダブルパンチを受け2万人という犠牲者を生んだ。当時は1.000年に一度の「大揺れ」と報じられた。しかし、その「大揺れ」もそこに原発がなかったらこれまでの深刻な被害をもたらすことはなかったであろう。その観点から九州大地震を考えると危惧はますます大きく広がる。そのことを福島県の一人として述べてみたいと思う。

 昨今「原発とテロ問題」が大きく取上げられている。それは時代環境の違いで「原発は金の卵ともなるが鬼子」ともなるとの印象を国民に与える代弁となっているが、それでよいのだろうか。

 16日午前1時25分ごろ、熊本市や同県の菊池市などを襲った震度6強の大揺れである。気象庁はこれを「本震」であると説明をした。そして14日の揺れは「前震」だと。それではこの2日日間の余震は「本震の準備」であったということになるのだろうか。「手傷を与えておいて、後から致命傷を与える本格的な攻撃」ということか。時代劇であれば「お主、ようやるのう」で済むが、地震となればそれでは済まされない。

 福島の経験からすれば、熊本県のみならず近県の住民は、これから本格的な「余震」におびえる期間を迎えることになる。現に気象庁は今後1週間で、最大震度6程度の地震が発生する恐れがあると注意を呼び掛けている。そのうち、巷では1ケ月後の「5月16日大地震再来」の風評が飛び交うだろう。

 原子力規制庁は「川内原発がある鹿児島県薩摩川内市では震度4、玄海原発がある佐賀県玄海町では震度3、伊方原発がある愛媛県伊方町では震度4、島根原発がある島根県松江市では震度3をそれぞれ観測しているとし、いずれの原発でもプラントの状態や周辺のモニタリングポストに異常はない」と説明をしている。このうち、九州電力の川内原発は1号機と2号機が稼働しているが「地震による自動停止はしておらず、運転は継続されている」との見解を発表している。(16日02:23発信)

 一方、熊本県熊本地方、阿蘇地方、大分県で規模の大きな地震が相次いでいることについて、気象庁の青木元地震津波監視課長は、16日午前の記者会見で「M7.3の本震」を捉えて、「広域的に続けて地震が発生したケースは近代観測が始まって以降は思い浮かばない」との見解を表明している。つまり三つの地域で別々の地震が同時多発的に発生しているというのである。

 私の知識で多くを語ることはできないがこれだけは言える。「自然の破壊力は未知である。だからこそ用心には用心を重ねないと」。

 そこで「金の卵」を強調する原発に戻る。私の九州の友人から次のようなメールが届く。「『今のところ原発に異常は見られません』と運転を続ける厚かましさを恐ろしく感じます」と。未明の暗闇を、恐れ、おののき逃げ惑う住民、避難所で肩を寄せ合い大揺れに耐えている住民を他所にして、原発を動かし続ける原発企業の九電の「社会的責任」の欠如に強い不満を持つのは当然である。

 ここに地方紙「福島民報」の記事がある。原発被害地の当然の報道である。【原発の停止を九電に要請・広河さん、沢地さんら】との見出しで次のように報じている。

 「九州で相次いでいる地震を受け、フォトジャーナリストの広河隆一さんら文化人6人が連名で16日、全国で唯一稼働中の川内原発の即時停止を求める要請文を九州電力に送ったと明らかにした。要請したのは他に、作家の落合恵子さん、沢地久枝さん、広瀬隆さん、ジャーナリストの鎌田慧さんと、若者のグループSEALDs(シールズ)の山田和花さん」。要請文では「異常があってからでは遅いということは、東京電力福島第1原発事故の経験から、誰の目にも明らか。人々は、次の大地震が川内原発を襲うのではないかという恐怖にさいなまれている」と記している。

 同時に今政党は何をしているのかを問いたい。「反原発にエネルギーを注いてきた野党が、政府に「即時停止」を求めるべきではないか。またそのことを国民に訴えるべきではないか。今やらなくて、いつやるのか」と。